江戸時代初期から中期にかけて3代に亘り、摂津国(現在の大阪府北中部、及び兵庫県南東部)を拠点に作刀をした「忠綱」(ただつな)がいます。このうち「2代忠綱」は、「津田越前守助広」(つだえちぜんのかみすけひろ)、「井上真改」(いのうえしんかい)らと共に、「大坂新刀の三傑」と讃えられました。「一竿子」もしくは「合勝軒」と号したこともあり、初代や3代と区別する意味で、「2代忠綱」は「一竿子忠綱」(いっかんしただつな)と呼ばれています。
一竿子忠綱は1644年(寛永21年/正保元年)、「初代忠綱」の嫡男として生まれました。姓は「浅井」(あざい)と言い、戦国時代に近江国(現在の滋賀県)北部を支配した名族「浅井氏」の末裔であるとし、「粟田口国綱末葉浅井氏作之」などの銘を切っています。
最古の現存刀は、年紀銘によれば「寛文十二年」(1672年)、29歳での作例であり、最新は「正徳六年」(1716年)の作例です。享保年間(1716~1736年)中期頃、80余歳まで鍛刀したことも史料で判明しています。これらのことから、一竿子忠綱の作刀期間は、50年以上にも及ぶと推測されているのです。これは、「新刀期」を通じて屈指の長寿でした。
鍛刀の最盛期は元禄・宝永年間(1688~1711年)であり、一竿子の号は、この時期から用いていたと考えられています。その使用開始年については諸説ありますが、現存する作例から1689年(元禄2年)か、その翌年のいずれかとされているのです。
一竿子忠綱による作例の刀身は、長すぎず短すぎず、均整の取れた大坂新刀の特徴が顕著ですが、大坂新刀における他の作例と比較して、やや身幅が広くて先反りがあり、「平肉」(ひらにく)が付いています。
刃文は当初、初代忠綱の作風を踏襲して「匂出来」(においでき)の「丁子乱れ」(ちょうじみだれ)を採っていますが、次第に丁子乱れの頭が不揃いとなる、「足長丁子乱れ」を多用。晩年には、華美の点において独自色を強め、津田越前守助広が創始した「濤瀾乱」(とうらんみだれ)に似た刃文や、「互の目」(ぐのめ)風の「湾れ乱」(のたれみだれ)の刃文を焼きました。
このうち互の目風となる湾乱の刃文は、「大乱」(おおみだれ)となる「乱刃/乱れ刃」(みだれば)の中に、互の目足が4~5本入り、太く長い「沸足」(にえあし)が順に小さく細くなっていく形であり、一竿子忠綱の晩年における作例の特徴となっています。
初代や3代と区別するために、2代忠綱が一竿子忠綱と呼ばれるのは、初代、3代と決定的に異なる特徴があることがその理由。その違いとは、一竿子忠綱は、初代、3代には見られなかった、彫物を最も得意としていたところです。
一竿子忠綱最大の持ち味とも言える彫物は、完全な鑑賞対象として制作されており、日本刀の美術品としての価値を一層高めています。刀身そのものを損ねずに、絶妙な調和を見せる腕前は他に類を見ず、「彫刻のない一竿子忠綱は購入すべきでない」とまで評されました。