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廣光(ひろみつ)

「廣光」(ひろみつ)は、南北朝期に相模国(さがみのくに:現在の神奈川県)で作刀した刀匠です。名を「九郎次郎」。正宗の門下だったとされていますが、貞宗の門下とする説もあります。
作例では、名物・大俱利伽羅廣光が最も有名。ただ、太刀の在銘作は1振のみで、他の作刀は平造りの小脇差が全体を占めています。
地鉄(じがね)は板目が肌立ち、地中の働きは地沸がついて地景が際立つ。刃文は中直刃(ちゅうすぐは)もありますが、大乱れで激しくなり皆焼(ひたつら)になります。刃中には、金筋や稲妻がかかり、砂流しも盛んに入り働きが豊富です。
銘は、「廣光」と「相模国住人廣光」の2種。南北朝期以降室町時代に入り、複数の刀工が廣光を名乗って作刀しました。

廣光(ひろみつ)が作刀した刀剣

相模国の地図

相模国の地図

「相模国」の刀工を見る;


大進坊祐慶

大進坊祐慶

刀剣彫物の名手として名高い「大進坊祐慶」(だいしんぼうゆうけい)は、1197年(建久8年)に、下野国(現在の栃木県)の日光山で生まれた人物です。35歳まで僧侶として生活したあと、下山して相模国・鎌倉(現在の神奈川県鎌倉市)に向かい、「相州伝」(そうしゅうでん)の大家(たいか)「新藤五国光」(しんとうごくにみつ)に弟子入り。刀鍛冶の道へ進みました。一説では、108歳まで生きたとも言われています。

彫物の腕前に優れ、「正宗」(まさむね)や「行光」(ゆきみつ)の作刀に施された彫物にも、大進坊祐慶作が多数。銘は「大進坊祐慶」、あるいは「大進坊」と切っています。

なお、昭和期に映画やテレビドラマとなり、人気を博した時代劇「丹下左膳」(たんげさぜん)では、主人公は架空の人物でありながら、その佩刀(はいとう)には、大進坊祐慶作の「濡れ燕」(ぬれつばめ)が採用されました。

大進坊祐慶

秋広

秋広

「秋広」は、「相州伝」(そうしゅうでん)における特長のひとつ、「皆焼」(ひたつら)と呼ばれる刃文を創始した刀工です。皆焼とは、刀身全体に網目模様の焼き入れが広がっている刃文のことで、「湯走り」(ゆばしり:[にえ]や[におい]が刃縁[はぶち]から流れたような模様)や、「飛焼」(とびやき:沸が一部に固まっている状態)を強調した手法です。

秋広の出自は、名工「正宗」(まさむね)の門人説や、正宗の子「貞宗」(さだむね)の門人説、貞宗の弟子「広光」(ひろみつ)の弟、あるいは門人説など諸説あり、詳しくは分かっていません。ただし、「古刀銘尽」(ことうめいじん)によれば、1315年(正和4年)に生まれ、84歳で没したことが分かっています。3代にわたって同銘が用いられ、「3代 秋広」は、拠点を鎌倉から上総国(現在の千葉県中部)へ移し、作刀を続けたと伝えられているのです。

作風は、相州伝における他の刀工に比べてやや穏やかで、その銘は草書風。現存刀は少ないものの、「平造り」(ひらづくり)で身幅が広いのが特長であることが分かっています。

秋広

綱広

綱広

「初代 綱広」は戦国時代、「相州伝」(そうしゅうでん)の総本山だった鎌倉から小田原へ移り、新興勢力「後北条氏」(ごほうじょうし)の支援を受けて、「小田原鍛冶」の礎(いしずえ)を築きました。刀工名にある「綱」の字は、後北条氏の2代当主「北条氏綱」(ほうじょううじつな)から賜ったと言われています。その後「2代 綱広」は「徳川家康」に召し抱えられ、江戸時代にも繁栄を維持。明治時代まで鍛刀を続けました。

20数代受け継がれた綱広のうち、特に良工として名高いのは「5代 綱広」。1660年(万治3年)には、名誉号である「伊勢大掾」(いせのだいじょう)、のちに官位「伊勢守」(いせのかみ)も受領しました。その作風は、「鎬地」(しのぎじ)が低く先反りであることが特長。刃文は「焼きの谷」(やきのたに)に「荒沸」(あらにえ)が見えます。

綱広

広正

広正

「初代 広正」は、名工「正宗」(まさむね)の門人として、「相州伝」(そうしゅうでん)の技法を受け継いだ刀工のひとりです。延文年間(1356~1361年)頃に活躍しましたが現存刀は少なく、現在観られるのは、文安・宝徳年間(1444~1452年)の作例がほとんどです。

広正の銘は、1504年(文亀4年/永正元年)頃まで受け継がれ、途中、1469年(応仁3年/文明元年)に、相模国(現在の神奈川県)から上野国(現在の群馬県)に移住。領主「小幡氏」(おばたし)のもとで鍛刀を行いました。

作風は「平造り」(ひらづくり)で身幅が広く、先反り(さきぞり)になった「大脇差」(おおわきざし)が主流。刃文は「沸本位」(にえほんい)の「乱刃/乱れ刃」が特長です。「板目肌」に「皆焼」(ひたつら:網目模様の焼き入れ)を焼き、「飛焼」(とびやき:沸が一部に固まっている状態)が集まっています。

なお広正は、「彫物の上手」とも称され、その作刀に好んで彫刻を施していました。特に「倶利迦羅」(くりから:刀剣に龍が巻き付いた姿)などを彫った作例は秀逸です。

広正

新藤五国光

新藤五国光

「国光」は鎌倉時代後期、相模国(現在の神奈川県)で作刀を行った刀工です。「相州伝」(そうしゅうでん)の基礎を築いたことで知られ、「新藤五国光」(しんとうごくにみつ)という名でも親しまれています。

しかし、有名な刀工ながら詳しい生い立ちが分かっておらず、「備前三郎国宗」(びぜんさぶろうくにむね)の子や「粟田口国綱」(あわたぐちくにつな)の子であったとする説、粟田口国綱の子で備前三郎国宗に師事したとする説など、諸説紛々(しょせつふんぷん)です。

何代続いたのかに関しても、作刀期間が長いことや同時代の刀工に比較して作例が多いこと、銘字に相違があることなどを理由に、昔から議論の対象となってきました。室町時代の刀剣書の多くは、生存と活動期間が長いために作例が多かったと解釈しており、複数種類のあった銘字については、単に変化が生じただけとして、1代説を唱えていました。江戸時代初期に刊行された「古今銘尽」(ここんめいづくし)なども、1代説を継承しています。

しかし、江戸時代後期に編纂された「校正古刀銘鑑」(こうせいことうめいかん)では3代説を提唱し、定説化していた1代説に一石を投じました。粟田口国綱が父親でありながら、作刀の師でもあったと仮定した上で、粟田口国綱が実は初代 国光であり、それまでの初代 新藤五国光が2代目、同じく2代新藤五国光を3代目とする説です。

新藤五国光を名乗る刀工登場以前にも、「国光」を名乗る刀工がいたことを提唱した、斬新な説でした。さらに、銘の観点からすると、「土屋押形」に「国光」と二字銘を切った作例が確認できます。このように、最初に親の国光がおり、新藤五国光2代に亘ったとする「校正古刀銘鑑」の説は、近年注目を集めているのです。

新藤五国光の作例に太刀は少なく、主に短刀が現存しています。反りはなく直線的であり、凛とした気概を醸し出す姿です。古い刀剣書には、山城国(現在の京都府南部)で鍛刀された日本刀の「地鉄」(じがね)は、「青く澄む」と記されていますが、新藤五国光の作例も青く澄む美しさがあります。

「粟田口派」の刀工が、鎌倉鍛冶の草分け的存在であったことは良く知られるところとなっており、同派の伝統を受け継いだ新藤五国光の作例は、その物証のひとつです。

ただし、地鉄の中に「地景」(ちけい)が輝く点は、新藤五国光の独創による作風であると言えます。新藤五国光の作例を鑑賞する際、最大の見どころは刃文です。「糸直刃」(いとすぐは)と形容される直刃が施され、細い絹糸が流れているかのような気品があります。この刃文の中に、「刃中の働き」として「金筋」(きんすじ)が輝く様子は、日本刀史上でも稀に観る美しさです。

新藤五国光

行光

行光

行光(ゆきみつ)は、鎌倉時代末期に相模国(さがみのくに:現在の神奈川県)で作刀した刀匠で、新藤五国光の子とされていますが、門人とする説もあります。
正宗の兄弟子にあたる名工です。在銘作は短刀になり、太刀はすべて大摺上無銘になります。
短刀は身幅が普通で小ぶりの物が多いです。やや内反りに反る姿がみられます。刃文は新藤五国光の影響を受けて直刃(すぐは)が中心で、乱刃もあり、金筋砂流しかかりが強いです。
刀身の彫刻は、兄弟子で日光山法師の「大進坊」(だいしんぼう)の手によると伝わっています。

行光

正宗

正宗

「正宗」は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけて、作刀に携わった刀工です。通称「五郎入道」と名乗っていたため、一般的には「五郎入道正宗」(ごろうにゅうどうまさむね)と呼ばれています。江戸時代に編纂された名刀リスト「享保名物帳」(きょうほうめいぶつちょう)において、「天下三作」(てんがさんさく)のひとりに選定された名工です。

正宗は、1264年(弘長4年/文永元年)、鎌倉鍛冶の名工「藤三郎行光」(とうさぶろうゆきみつ)の子として生まれました。1280年(弘安3年)に17歳で父親と別れ、「新藤五国光」(しんとうごくにみつ)の門下に入ります。ここで作刀秘術を習得。その後、山城国(現在の京都府南部)、備前国(現在の岡山県東南部)、伯耆国(現在の鳥取県中西部)など、刀の生産地を行脚して、各地の技術を研究。ついに「相州伝」(そうしゅうでん)を完成させます。相州伝の刀は、薄いながらも強度抜群の刀身が特徴であり、これは、刀の常識を一変させる革新的な鍛法でした。

正宗による相州伝の完成は、時代背景と密接に関係しています。正宗が刀工としての道を歩み始めた時期は、いわゆる「元寇[蒙古襲来]」(げんこう[もうこしゅうらい])の時期と重なっています。外国からの侵略という未曽有の事態となった日本では、これまでになく自国の防衛意識が上昇。これを受けて武を貴ぶ気風が盛り上がり、併せて刀のあり方が問われるようになったのです。

武士達が求めたのは豪壮にして実用に耐え、武運を強くしてくれる1振でした。こうした動向の中、五郎入道正宗が相州伝を完成させるのです。相州伝は硬軟の「地鉄」(じがね)を組み合わせ、「地景」(ちけい)や「金筋」(きんすじ)など刃中の働きと、「湾れ刃」(のたれば)を基調とした大模様の刃文による「」(にえ)の美しさを強調する作風です。これにより、刀身の強度向上はさることながら、刃文の躍動感が一気に増しました。

山城伝」(やましろでん)の「粟田口派」(あわたぐちは)による伝統を継承した、整った「直刃」(すぐは)ではなく、荒々しい波濤(はとう:大きな波)のような刃文を刀身に表現したのです。この雄渾(ゆうこん:雄大で勢いが良いこと)さが、武運長久を希求する鎌倉武士達の琴線に触れ、正宗は、一躍著名な刀工となったのです。

以後、正宗の作風は全国に影響を及ぼし、後世に言う「正宗十哲」(まさむねじってつ)が生まれます。これは、正宗の影響を強く受けた10人の刀工のこと。正宗十哲のすべてを正宗門下と認めるのは困難ですが、「沸出来」(にえでき)を強調している点は共通しています。正宗十哲によって新しい作刀技術は日本全国に拡大し、のちに「新刀」や「新々刀」(しんしんとう)が誕生する原動力となるのです。

このように、五郎入道正宗の登場により、日本における刀の歴史は大きく転換しました。このため正宗は、「日本刀中興の祖」と位置付けられています。

正宗

貞宗

貞宗

「貞宗」は「五郎入道正宗」(ごろうにゅうどうまさむね)から「相州伝」(そうしゅうでん)を継承したため、「相州貞宗」(そうしゅうさだむね)と呼ばれ、通称は「彦四郎」(ひこしろう)と名乗っています。正宗門下に入り、養子となって師の鍛刀術を継承しました。最初は近江国(現在の滋賀県)で刀鍛冶の基本を学び、五郎入道正宗に弟子入り。

入門の経緯については、「鎌倉の鍛冶場を訪れて弟子入りを懇願した」とする説や、「五郎入道正宗が尾張国(現在の愛知県西部)に来ていた際、訪問して弟子入りを懇願した」とする説などがあります。相州貞宗の現存刀で、有銘確実な作例はありません。

しかし、南北朝時代に編纂された「新札往来」(しんさつおうらい)には、「五郎入道、その子彦四郎、一代名人候」と記されており、文献的にも存在が確認できます。

また、在銘作がなくとも相州貞宗の特徴は判明しており、これは、弟子であり「貞宗三哲」(さだむねさんてつ)のひとり、初代「信国」(のぶくに)の在銘品が数多く現存していることがその理由。この信国による作例に比べて、ひと際上手な無銘品が残されているため、これが、貞宗の作品であると推測できるのです。

短刀は寸延びで身幅が広く、「重ね」の薄い先反りになった姿に、「湾れ刃」(のたれば)を基本とした作例が多く見られます。これは「南北朝型」、あるいは「延文・貞治型」(えんぶん・じょうじがた)とも呼ばれる形式です。

なお、貞宗の短刀の見どころは、精緻な地肌が美しく冴えている箇所です。師匠の正宗以上に上手な鍛え方であり、良く詰んでいて肌立たず、青黒く澄んでいます。その深遠な地肌の美しさは、「貞宗肌」と称され、貞宗の作例における最大の魅力です。

正宗との相違は、貞宗肌だけではありません。例えば刃文を見てみると、正宗は波濤(はとう:大きな波)のように、豪壮な作風を得意としましたが、貞宗の刃文は、師匠ほどの豪壮さはなく、落ち着いた趣です。

また「」(にえ)の粒子は、正宗の場合は大小不揃いであるが故に目立ちますが、貞宗の作風では、細かい粒子が揃っていて目立ちません。刃中の働きも全体的に穏やかで静的です。

さらには、刀身彫も師匠との大きな相違点があると言えます。正宗もその作例に刀身彫を施しましたが、自身では手掛けていませんでした。

しかし貞宗は、自身が刀身彫の名手だったため、「梵字」(ぼんじ)や剣、「蓮台」(れんだい:蓮の花の形に造られた仏像の台座)など、自ら考案した独特な彫り方で、意匠濃厚な刀身彫を施しました。このように貞宗肌や刀身彫は、偉大なる師匠・正宗と自身を差別化するため、貞宗が考案したとも言われているのです。

現存刀の代表格は「東京国立博物館」(東京都台東区)所蔵で、重要文化財に指定された脇差である「石田貞宗」(いしださだむね)などがあります。

「石田三成」が所持していたことで知られるこの脇差は無銘ですが、貞宗の明らかな特徴が見て取れ、これこそが同工の凄みと言えるのです。

貞宗

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