「堀川国広」は、江戸時代後期の刀剣書「古今鍛冶備考」(ここんかじびこう)の中で、「新刀の祖」と位置付けられた名工。日向国の綾地方(現在の宮崎県東諸県郡)で生まれています。この地は戦国時代、日向国を治める「伊東氏」と、薩摩国(現在の鹿児島県西部)を本拠とする「島津家」の勢力がぶつかり合う最前線であった場所。伊東氏は、ここに多くの刀工を配して鍛刀に当たらせました。国広の父親もそのうちのひとりです。
堀川国広も同地で刀を鍛造しますが、主家・伊東氏の没落後、山伏に転身。山岳修行に身を投じます。その間にも、刀工としての腕は磨いていたと伝わり、1584年(天正12年)2月、「日州古屋之住国広山伏之時作之 天正十二年二月彼岸」と銘を切った太刀を鍛造しています。これが、「山伏国広」と呼ばれる名刀です。
山伏国広を鍛刀後、堀川国広は諸国を遍歴し、下野国(現在の栃木県)「足利学校」に入学します。中世唯一の学校施設であり、学習内容は易学(えきがく)を中心に、漢学や医学、軍学など多岐に亘り、諸国から生徒が集まっていました。教授はすべて僧侶であり、生徒もほとんどが僧侶。山伏の国広には、恰好の学び舎だったのです。
堀川国広は、同校で学ぶ一方、在地の国人領主「長尾顕長」(ながおあきなが)に仕え、相模国・小田原(現在の神奈川県小田原市)に本拠を構える「後北条氏」(ごほうじょうし)との戦いに、足軽部隊を率いて出陣することもありました。
下野国・足利(現在の栃木県足利市)でも作刀は続け、1590年(天正18年)には、「豊臣秀吉」による「小田原征伐」に際し、長尾顕長の依頼により「九州日向住国広作」と銘を切った太刀を鍛えています。これが、後世に「山姥切国広」(やまんばぎりくにひろ)と呼ばれる名刀です。長尾氏没落後は京都に移住し、堀川の地で再び作刀に従事しました。
堀川国広が作刀にかかわったのは、1576~1613年(天正4年~慶長18年)の38年間です。このうち、天正期の作例を「古屋打ち」、慶長期の物を「堀川打ち」と呼んでいます。古屋は日向国、堀川は山城国の地名で、両方とも国広が鍛刀した場所。古屋打ちは末相州物や末関物(すえせきもの)における特色が見られ、鍛えは「板目」(いため)が際立っているのです。また刃文は、「湾れ」(のたれ)に「互の目」(ぐのめ)、刃中の働きは、匂口(においぐち)締まりごころに、「叢沸」(むらにえ)がつきます。
なお、堀川打ちの多くは、相州伝の上工を模範に作刀されており、刃文は大模様で、刃中の働きは匂深く沸付く(にえづく)作例と、匂口が沈みごころになる作例があります。肌合いはザングリ(地鉄[じがね]がよく鍛えられて、一見すると荒れ気味であるが、肌模様がよく見えること)としており、板目肌が立ちごごろなのが堀川打ちの特徴です。