「源清麿」(みなもときよまろ)は江戸時代後期、小諸藩赤岩村(こもろはん・あかいわむら:現在の長野県東御市)に、郷士(ごうし:半農半士の者)であった「山浦昌友」(やまうらまさとも)の次男として生まれました。
本名は「山浦内蔵助環」(やまうらくらのすけたまき)と言い、兄で刀工の「山浦真雄」(やまうらさねお)から日本刀の鍛造技術を学んだあと、江戸へ出ることに。撃剣(げっけん:刀や木刀などで相手を打ち、自分の身を守る武術)習得のために源清麿は、幕臣の武術家「窪田清音」(くぼたすがね)の門下に入ります。
しかし窪田静音は、源清麿が撃剣よりも鍛刀に優れた才能を秘めていることを看破し、屋敷内に鍛刀場を設けて「旗本から名刀を借り受け、研究せよ」と下命。これを受けて源清麿は、実戦本位に作刀された古(いにしえ)の名刀を直に(じかに)吟味しつつ、それに近い日本刀の作刀を始めたのでした。この「名刀から直に学ぶ」という経験が、のちに独自の立ち位置を確保し、源清麿は、名工としての地位を確立するのです。
1826年(文政9年)、同じく江戸で名を馳せていた刀工「水心子正秀」(すいしんしまさひで)が、「刀剣復古論」に基づく作刀を提唱します。「刀剣復古論」とは、実用性の観点から、「日本刀はすべからく鎌倉時代の昔に復するべき」と主張し、反りが深く(棟区[むねまち]から鋒/切先[きっさき]までを直線で結んだ際に、棟とその線まで最も離れている部分が長いこと)、実用本位の日本刀を作刀しようとした動きです。源清麿も、この刀剣復古論に賛同。日本刀は刀剣復古論の影響を受けつつ、作刀されるようになりました。
このため日本刀の世界では、水心子正秀登場以前の日本刀を「新刀」、それ以後を「新々刀」(しんしんとう)と呼んで区別しているのです。源清麿は、水心子正秀とその弟子「大慶直胤」(たいけいなおたね)と共に、「江戸三作」のひとりに列せられています。
源清麿の腕前が広く知れ渡るようになると、1839年(天保10年)、窪田清音は「武器講」(ぶきこう)と呼ばれる、日本刀の販売システムを考案。これは、1振を3両(現在の貨幣価値で約390,000円)で作り、窪田清音の門下生達に売るという仕組みになっていました。すぐに100振もの依頼が殺到しますが、源清麿はすべて作刀し終えないうちに、長州藩(現在の山口県)における藩士の重鎮であった「村田清風」(むらたせいふう)の招聘(しょうへい)に応じ、萩(現在の山口県萩市)へ赴いてしまったのです。
この源清麿による長州藩行きは、通説では、「源清麿が窪田静音のもとを出奔(しゅっぽん:逃げ出して行方不明になること)した」と説明されていますが、村田清風の蔵刀控帳には「江戸より召し下され」とあり、源清麿を名工として特別に招いたことが分かります。
2年ほどで萩から戻った源清麿は、江戸の四谷(よつや:現在の東京都新宿区)に自身の鍛刀場を開設。ここで「相州伝」(そうしゅうでん)と「備前伝」(びぜんでん)を融合させた独自の作風を確立します。これにより源清麿は、南北朝時代から鎌倉時代にかけて活躍した名工、「正宗」(まさむね)再来との呼び声が高く、「四谷正宗」の異名で称えられるようになりました。
その後、源清麿は、深酒による心身の衰弱を悲観して42歳で自害してしまいますが、劇的な生涯と作例の見事さが相まって、現在でも、幕末の刀工中随一の人気を誇っています。