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大村加卜(おおむらかぼく)

多数いる刀工の中でも、「大村加卜」(おおむらかぼく)ほど異質な経歴を持つ人物は稀です。越後国・高田藩(現在の新潟県)で医者として働きながら、鍛刀も行っていました。

鍛刀は若い頃から趣味で行っており、その始まりは、1644年(寛永21年/正保元年)のこと。一説によると、現在の東京都八王子市を中心に活動していた「下原鍛冶」(したはらかじ)に技術を学んだとされています。

1681年(延宝9年/天和元年)に高田藩のお家騒動、いわゆる「越後騒動」が起こると、大村加卜は浪人となり江戸へ移住。その後、常陸国(現在の茨城県)の「徳川光圀」(とくがわみつくに)に招かれ水戸へ移り、「侍医」(じい:貴人に属する医者)、及び「御伽衆」(おとぎしゅう:大名などの側近として話し相手などを務める者)となりました。

その間も鍛刀は続けており、自著「剣刀秘宝」によれば、生涯で作刀したのは100振余り。これらの作例が、余技(よぎ:専門以外に身に付けた技術)で鍛えたとは思えないほど品質が高く、多くの偽物が流通するほど人気を博したのです。

作風は大きく系統分けすると、「沸本位」(にえほんい)となる「相州伝」(そうしゅうでん)と、「匂出来」(においでき)となる「備前伝」(びぜんでん)の技法が用いられており、自ら考案した「真之十五枚甲伏作」と称する鍛法を駆使して、日本刀が作られていました。

大村加卜(おおむらかぼく)が作刀した刀剣

  • 刀 銘 越後幕下士大村加卜安秀

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    刀 銘 越後幕下士大村加卜安秀
    刀 銘 越後幕下士大村加卜安秀
    無銘
    鑑定区分
    重要刀剣
    刃長
    71.1
    所蔵・伝来
    刀剣ワールド財団
    〔 東建コーポレーション 〕

武蔵国の地図

武蔵国の地図

「武蔵国」の刀工を見る;


大慶直胤

大慶直胤

「大慶直胤」(たいけいなおたね)は、「水心子正秀」(すいしんしまさひで)や「源清麿」(みなもときよまろ)と共に、「新々刀期」(しんしんとうき)の「江戸三作」に列せられる名工です。俗名として「荘司/庄司箕兵衛」(しょうじみのべえ)と名乗っていました。その生年は、1778年(安永7年)、もしくは1779年(安永8年)と推定されています。7月15日の月を「大慶の月」と呼ぶため、どちらかの年の7月15日に生まれたとの説が有力です。

出身は出羽国(現在の山形県、及び秋田県)で、鎌鍛冶を生業とする家に生まれました。しかし、若くして刀鍛冶を志して出府(しゅっぷ:地方から江戸へ出ること)。日本橋浜町(現在の東京都中央区)にある、山形藩(現在の山形県)藩主「秋元家」(あきもとけ)の江戸屋敷内で、同郷の水心子正秀から日本刀鍛造の技法を学びました。入門の明確な時期は定かではありませんが、23歳になった1801年(寛政13年/享和元年)の作例が現存しているため、1798年(寛政10年)前後には、水心子正秀の門下に入ったとされています。

大慶直胤が江戸在住のまま、秋元家に藩工として召し抱えられたのは、1812年(文化9年)頃。1821年(文政4年)、もしくは1822年(文政5年)に「筑前大掾」(ちくぜんのだいじょう)を受領します。

そして、1848年(弘化5年/嘉永元年)には上洛し、「鷹司家」(たかつかさけ)の太刀を鍛造したことで、「美濃介」(みののすけ)の官位を賜っています。大慶直胤の知名度が上がるにしたがって、招聘の要望が殺到。大慶直胤は、これらに応じて、各地で日本刀の鍛造を行いました。

大慶直胤による作例の大きな特長は、地方で鍛刀した際には、必ず地名を銘に切っている点。例えば、相模国(現在の神奈川県)での作刀は「サカミ」、伊豆国(現在の静岡県伊豆半島)では「イツ」という銘が見られるのです。

これらの他にも大慶直胤の作刀には、「ヲシテル」と切られた銘があります。ヲシテルとは、「難波」(なんば)という大坂の地名にかかる枕詞で、「万葉集」以降知られている言葉です。

なお、大慶直胤の弟子「韮山胤長」(にらやまたねなが)が、伊豆国・韮山(現在の静岡県伊豆の国市)において、代官を務めていた「江川太郎左衛門英龍」(えがわたろうざえもんひでたつ)のお抱え刀工として働いていました。

また、日本刀の歴史において、大慶直胤が重要視されている理由のひとつが、師匠・水心子正秀が提唱した「刀剣復古論」に基づき、古刀期(平安時代中期から安土桃山時代末期)に生まれた5種類の伝法「五箇伝」(ごかでん)の技法を用いた日本刀を再現したこと。

五箇伝は、その生産地別に、現在の岡山県東南部で興った「備前伝」(びぜんでん)、同じく京都府南部の「山城伝」(やましろでん)、神奈川県の「相州伝」(そうしゅうでん)、奈良県の「大和伝」(やまとでん)、そして岐阜県南部の「美濃伝」(みのでん)を指し、大慶直胤は、これらの伝法を巧みに操って作刀しました。

大慶直胤が、日本刀が実戦本位に作刀されていた古刀期の各伝を当代に蘇らせることができたのは、卓越した技術があったからこそ。師匠の水心子正秀が提唱者なら、弟子の大慶直胤は、刀剣復古論を実践した第一人者であったと言えるのです。

大慶直胤

法城寺正弘

法城寺正弘

相州伝」(そうしゅうでん)の名工「貞宗」(さだむね)には、「貞宗三哲」と称される高弟がいました。そのひとり「法城寺国光」(ほうじょうじくにみつ)が属した「但州法城寺派」の末裔が、「法城寺正弘」(ほうじょうじまさひろ)です。

本名は「滝川三郎太夫」(たきがわさぶろうだゆう)と名乗っており、但馬国(現在の兵庫県北部)から江戸に移住し、「江戸法城寺派」を打ち立てた人物です。「江戸新刀」の第一人者でありながら、派閥形成の手腕も発揮。数十名にも及ぶ刀工を束ねます。その権勢は江戸市中随一を誇り、江戸幕府のあらゆる鍛冶業務を許されるほど絶大でした。

一時は常陸国(現在の茨城県)の「徳川光圀」(とくがわみつくに)に招かれ、水戸でも作刀しています。作風は江戸新刀らしく、反りが浅い先細りの姿。その刃文は、同時代に活躍した「長曽祢虎徹」(ながそねこてつ)に似た「互の目乱」(ぐのめみだれ)や、「沸本位」(にえほんい)の「広直刃」(ひろすぐは)などが特長です。

法城寺正弘

大和守安定

大和守安定

江戸時代の刀剣格付書「懐宝剣尺」(かいほうけんじゃく)において、「良業物」(よきわざもの)と評された「大和守安定」は、紀伊国(現在の和歌山県、及び三重県南部)の一門「石堂派」の流れを汲む刀工です。本名は「飛田/冨田宗兵衛」(とんだそうべえ)と言います。

江戸に出た大和守安定は、幕府の「御用鍛冶」(ごようかじ)を務めた「2代 康継」(にだい やすつぐ)の門下となり、作刀の腕を磨きました。鋼に粘りを出すための「焼き戻し」の技術に長けていたため切れ味が良く、江戸幕府の「御様御用」(おためしごよう:試し切り役)にもたびたび献上。

それらのなかには、截断銘(さいだんめい:試し切りの結果を記録した銘)として、「天下開闢以来五ッ胴落」(てんかかいびゃくいらいいつつどうらく)と切られた作例もありました。これは、5体分の胴を一度に切り落としたことを意味しています。

大和守安定の作風は、反りが浅く先反りになった「江戸新刀」らしい姿。刃文は「沸出来」(にえでき)、または「互の目乱」(ぐのめみだれ)を豪快に焼き、江戸物の刀の中でも、地肌が最も黒ずんでいるのが特長です。

大和守安定

石堂是一

石堂是一

「石堂是一」(いしどうこれかず)は、「江戸新刀」の隆盛期に繁盛した「江戸石堂派」(えどいしどうは)を率いた刀工です。近江国(現在の滋賀県)出身で、備前国(現在の岡山県東南部)の「一文字助宗」(いちもんじすけむね)の末裔とされています。

江戸へ移住し、江戸石堂派と称される一大流派を築くと、1721年(享保6年)に江戸幕府のお抱え刀工に就任。以降、8代にわたり「是一」の銘が受け継がれました。初代が「懐宝剣尺」(かいほうけんじゃく)において「良業物」(よきわざもの)に格付けされている他、後継にも恵まれ、代々繁盛します。特に、幕末期に活躍した「7代 是一」、通称「運寿是一」(うんじゅこれかず)は、石堂派を代表する名工です。

1841年(天保12年)に「伊勢神宮」(いせじんぐう:三重県伊勢市)と「日光東照宮」(にっこうとうしょうぐう:栃木県日光市)、両宮の奉納刀鍛造を命じられ、「徳川家」の家紋である「葵紋」の切り添えを許されました。

また、1854年(嘉永7年/安政元年)にはアメリカへ送る日本刀を、さらに1859年(安政6年)には、イギリスへ送る薙刀(なぎなた)を作刀するなど、数多くの御用を江戸幕府から拝命したと伝えられています。

石堂是一

水心子正秀

水心子正秀

「水心子正秀」(すいしんしまさひで)は江戸時代後期、日本刀の作刀に一大変革をもたらした名工のひとりです。出身は出羽国(現在の山形県、及び秋田県)であり、本名は、「川部儀八郎」(かわべぎはちろう)と言います。

幼い頃に父親が亡くなると、母親の実家である赤湯町(現在の山形県南陽市)の「外山家」へ、母親や兄と共に移住。水心子正秀は、同家のもとで農具制作を始めて鍛冶の道に入り、その基礎を下長井小出(現在の山形県長井市)在住の「吉沢三次郎」(よしざわさんじろう)に学びました。

ほどなくして刀鍛冶への転身を決めた水心子正秀は、1771年(明和8年)、22歳で武蔵国八王子(現在の東京都八王子市)の「宮川吉英」(みやがわよしひで)に入門。「下原派」(したはらは)による作刀技術を学びます。同派は八王子を中心に、江戸時代後期から幕末にかけて繁栄した刀工の流派であり、実戦本位の日本刀を作刀することで知られていました。

出羽国に帰国すると、1774年(安永3年)、鍛刀の腕前を認められて、「山形城」(山形県山形市)城主「秋元永朝」(あきもとつねとも)のもとに出仕します。「水心子」の号は、このときから用い始めました。

1781年(安永10年/天明元年)に出府(しゅっぷ:地方から江戸へ出ること)し、日本橋浜町(現在の東京都中央区)にあった「秋元家」の中屋敷(なかやしき)に居を定めると、持ち前の旺盛な探求心を遺憾なく発揮。「古刀期」(日本刀の歴史において、平安時代中期から安土桃山時代末期に当たる時代区分)の「相州伝」(そうしゅうでん)と「備前伝」(びぜんでん)の作刀技術を学び始めます。

相州伝とは鎌倉時代、相模国(現在の神奈川県)において大成された鍛刀技術です。薄いながらも強度抜群の刀身と鋭い切れ味が特長であり、実戦向けの日本刀を必要とする、鎌倉武士の需要に合致していました。備前伝とは、備前国(現在の岡山県東南部)に伝承された作刀技術です。同国は良質な砂鉄が採取できたため、古くから日本刀の作刀が盛んであり、多くの流派が誕生。幾多の名工を輩出しました。

古刀期の鍛刀技術を学ぶ中で、水心子正秀は、その当時の華美で反りの少ない日本刀に対して、次第に物足りなさを感じるようになり、独自の刀剣理論である「刀剣復古論」を提唱します。これは、「日本刀は、すべからく古刀の昔に復するべき」と論じる考え方であり、提唱者の水心子正秀自身も、反りが深い棟区[むねまち]から鋒/切先[きっさき]までを直線で結んだ際に、とその線まで最も離れている部分が長いこと)、実用本位の日本刀作りに邁進します。この刀剣復古論が登場すると、刀鍛冶の多くがこれに共鳴。日本刀は、刀剣復古論の影響のもとに、作刀されることが主流となっていくのです。

そして現在では、1596年(文禄5年/慶長元年)頃から、水心子正秀ら刀剣復古論を推し進めた刀工達が登場する以前の日本刀を「新刀」(しんとう)、以後を「新々刀」(しんしんとう)と呼んで区別しています。

水心子正秀は、「刀剣実用論」や「刀剣武用論」などの著作を刊行するかたわら、門弟教育にも意を砕き、多くの門下生を育てました。なお、新々刀期における日本刀の中で、水心子正秀とその弟子「大慶直胤」(たいけいなおたね)、別系統出身の「源清麿」(みなもとのきよまろ)の3人の名工が鍛刀した作例を「江戸三作」と呼んでいます。

水心子正秀

源清麿

源清麿

「源清麿」(みなもときよまろ)は江戸時代後期、小諸藩赤岩村(こもろはん・あかいわむら:現在の長野県東御市)に、郷士(ごうし:半農半士の者)であった「山浦昌友」(やまうらまさとも)の次男として生まれました。

本名は「山浦内蔵助環」(やまうらくらのすけたまき)と言い、兄で刀工の「山浦真雄」(やまうらさねお)から日本刀の鍛造技術を学んだあと、江戸へ出ることに。撃剣(げっけん:刀や木刀などで相手を打ち、自分の身を守る武術)習得のために源清麿は、幕臣の武術家「窪田清音」(くぼたすがね)の門下に入ります。

しかし窪田静音は、源清麿が撃剣よりも鍛刀に優れた才能を秘めていることを看破し、屋敷内に鍛刀場を設けて「旗本から名刀を借り受け、研究せよ」と下命。これを受けて源清麿は、実戦本位に作刀された古(いにしえ)の名刀を直に(じかに)吟味しつつ、それに近い日本刀の作刀を始めたのでした。この「名刀から直に学ぶ」という経験が、のちに独自の立ち位置を確保し、源清麿は、名工としての地位を確立するのです。

1826年(文政9年)、同じく江戸で名を馳せていた刀工「水心子正秀」(すいしんしまさひで)が、「刀剣復古論」に基づく作刀を提唱します。「刀剣復古論」とは、実用性の観点から、「日本刀はすべからく鎌倉時代の昔に復するべき」と主張し、反りが深く棟区[むねまち]から鋒/切先[きっさき]までを直線で結んだ際に、棟とその線まで最も離れている部分が長いこと)、実用本位の日本刀を作刀しようとした動きです。源清麿も、この刀剣復古論に賛同。日本刀は刀剣復古論の影響を受けつつ、作刀されるようになりました。

このため日本刀の世界では、水心子正秀登場以前の日本刀を「新刀」、それ以後を「新々刀」(しんしんとう)と呼んで区別しているのです。源清麿は、水心子正秀とその弟子「大慶直胤」(たいけいなおたね)と共に、「江戸三作」のひとりに列せられています。

源清麿の腕前が広く知れ渡るようになると、1839年(天保10年)、窪田清音は「武器講」(ぶきこう)と呼ばれる、日本刀の販売システムを考案。これは、1振を3両(現在の貨幣価値で約390,000円)で作り、窪田清音の門下生達に売るという仕組みになっていました。すぐに100振もの依頼が殺到しますが、源清麿はすべて作刀し終えないうちに、長州藩(現在の山口県)における藩士の重鎮であった「村田清風」(むらたせいふう)の招聘(しょうへい)に応じ、萩(現在の山口県萩市)へ赴いてしまったのです。

この源清麿による長州藩行きは、通説では、「源清麿が窪田静音のもとを出奔(しゅっぽん:逃げ出して行方不明になること)した」と説明されていますが、村田清風の蔵刀控帳には「江戸より召し下され」とあり、源清麿を名工として特別に招いたことが分かります。

2年ほどで萩から戻った源清麿は、江戸の四谷(よつや:現在の東京都新宿区)に自身の鍛刀場を開設。ここで「相州伝」(そうしゅうでん)と「備前伝」(びぜんでん)を融合させた独自の作風を確立します。これにより源清麿は、南北朝時代から鎌倉時代にかけて活躍した名工、「正宗」(まさむね)再来との呼び声が高く、「四谷正宗」の異名で称えられるようになりました。

その後、源清麿は、深酒による心身の衰弱を悲観して42歳で自害してしまいますが、劇的な生涯と作例の見事さが相まって、現在でも、幕末の刀工中随一の人気を誇っています。

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源清麿

長曽祢虎徹

長曽祢虎徹

「長曽祢虎徹」は、江戸時代中期の江戸において、2代に亘って日本刀を鍛造した刀工です。この2刀工が鍛刀した時期は、日本刀の歴史区分では「新刀期」(しんとうき)に相当します。新刀期の中でも長曽根虎徹が鍛えた日本刀は、大変な人気を集めました。これは、時代背景と関係があります。

新刀期の初期は、「徳川将軍家」による幕藩体制の確立によって、日本刀を実戦で使用する機会が激減した時期です。これを受けて、腰に帯びた大小2振の日本刀は、武士の権威を象徴する、装飾としての側面を強めるようになったため、反りが少なく華美な様式が主流となりました。

しかし、使用頻度が大幅に減ったとは言え、江戸時代初期は、戦国時代の遺風(いふう:後世に残る古くからの風習や習慣)が強く残っていた時代。武士達は、日本刀において「武士の魂」としての様式美を有し、かつ抜群の切れ味を発揮する作例を求めました。この需要に最大限応えたのが、江戸で作刀に携わった長曽祢虎徹だったのです。人気ぶりは幕末期まで続き、「新選組」局長として知られる「近藤勇」(こんどういさみ)も、長曽祢虎徹の日本刀を愛用しています。

初代長曽祢虎徹は、当初の刀工名を「興里」(おきさと)と名乗っていました。「古今鍛冶備考」など、江戸時代に刊行された刀剣書の記述によれば、その出自は近江国(現在の滋賀県)とする説が一般的です。しかし、「本国越前住人」とを切った日本刀も現存しており、越前国(現在の福井県北東部)を生国とする説もあります。この他にも、近江国で生まれて越前国で育った可能性を指摘する声もあり、詳細は分かっていません。

長曽祢一族は元々甲冑師でしたが、初代長曽祢虎徹は、刀工への転身を決意して出府(しゅっぷ:地方から江戸に出ること)しました。当時の年齢は50歳。それから23年間に亘って、日本刀を鍛造しています。元来甲冑師であっただけあって、作刀する日本刀は、質実剛健で頑丈そのもの。無類の切れ味を誇っていました。

「石灯篭切虎徹」(いしどうろうぎりこてつ)と号する打刀(うちがたな)は、松の大枝を両断するのに用いた際、すぐ傍に置いてあった石灯篭にまで、勢い余って切り込んだという逸話から名付けられた1振です。2代長曽祢虎徹は、名を「興正」(おきまさ)、通称「庄兵衛」(しょうべえ)と呼ばれていました。初代の弟子であり、養子に入って2代目を継いでいます。

初代・2代共に、江戸時代の刀剣格付書である「懐宝剣尺」(かいほうけんじゃく)において最上大業物(さいじょうおおわざもの)に選ばれており、2代目もまた、切れ味に優れた作例を鍛刀する実力者だったことが分かります。

長曽祢虎徹

繁慶

繁慶

江戸時代初期の「新刀期」(しんとうき)に入ると、諸国の城下町が日本における作刀の中心となり、多くの優れた刀工が、各地から世に送り出されるようになります。そのほとんどは、大名のお抱え鍛冶であり、扶持(ふち:給与のこと)を給されて、鍛刀に従事していました。「繁慶」もそうしたお抱え鍛冶のひとりです。

通称「野田善四郎清堯」(のだぜんしろうきよたか)と名乗り、一般的には、その姓である「野田」を冠して「野田繁慶」(のだはんけい)と呼ばれています。一方で本名の姓である「小野」を用いて、「小野繁慶」(おのはんけい)とを切った作例も存在しているのです。繁慶は、通常「はんけい」と音読みしますが、正しくは「しげよし」と訓読みします。

生年は不詳ですが、生まれは三河国(現在の愛知県東部)、代々鉄砲鍛冶を務める家系でした。このため、繁慶も長ずると鉄砲鍛冶の道に入り、出府(しゅっぷ:地方から江戸に出ること)して、江戸幕府お抱えの鉄砲鍛冶「胝惣八郎」(あかぶりそうはちろう)に入門。独立後は「清堯」を工名とし、武蔵国・八王子(現在の東京都八王子市)に移り住み、鉄砲制作に従事し始めます。

八王子は、甲州街道の抑えの地であり、交通の要衝。当時は甲斐国(現在の山梨県)出身の旧武田家臣が、「八王子千人同心」(江戸幕府の職制のひとつで、八王子に配置された旗本などのこと)として配され、江戸防衛と、将軍の江戸脱出に備えて守りが固められていました。鉄砲鍛冶である繁慶が、毎年木炭1,000俵を給されて八王子に配属されたのも、同地の持つ軍事的重要性と関係あってのことだとされています。

1607年(慶長12年)に「徳川家康」が駿河国・駿府(すんぷ:静岡市葵区)に移住すると、師匠の推挙を受けて随伴。「駿府城」下で鉄砲の鍛造を行いました。この駿府在住時、繁慶は2代将軍「徳川秀忠」(とくがわひでただ)の命により、諸国の一之宮(いちのみや:ある地域において、最も社格が高いとされる神社)や大社に、鉄砲を奉納しています。繁慶が駿府にいた期間は、1610~1614年(慶長15~19年)頃。

鉄砲銘には、「野田善四郎清堯」や「日本善清堯」という表記を用いていました。作刀も駿府在住時に始まっていたと伝えられ、「清堯」と銘を切った作例が稀に見つかっています。ただし、駿府在住時の動向について詳しいことは分かっていないため、この当時に作刀技術を学んだ師匠に関しては不明です。

1616年(元和2年)に徳川家康が死去すると、繁慶は江戸に帰還。鉄砲町に居住して本格的に作刀に取り組みます。従来は清堯と名乗っていましたが、この時期から繁慶の名を用い始めました。作風は「古刀期」の「相州伝」(そうしゅうでん)を理想としており、俗に言う「ひじき肌」が大きな特徴です。

これは「大板目」(おおいため)が肌立って「地景」(ちけい)が入り、「松皮肌」(まつかわはだ)となった鍛えを指します。刃文は「小湾れ調」(このたれちょう)の「乱刃/乱れ刃」(みだれば)に、盛んに「砂流し」(すながし)がかかって「」(にえ)付いており、「匂口」(においぐち)が沈む作風です。「」(なかご)は「薬研形」(やげんがた)と称する独特な形状です。

繁慶

越前康継

越前康継

江戸時代前期に、武蔵国(現在の東京都23区、埼玉県、及び神奈川県の一部)と越前国(現在の福井県北東部)で作刀した刀工「康継」。このを用いた刀工は、武蔵国で12代、越前国で10代続いており、これらの康継の祖こそ、「越前康継」(えちぜんやすつぐ)です。同工は、通称「下坂市左衛門」(しもさかいちざえもん)とも呼ばれていました。

出身は近江国・坂田郡(現在の滋賀県米原市)。現在の岐阜県大垣市で作刀した「赤坂千手院派」(あかさかせんじゅいんは)の刀工であった父より、作刀の手ほどきを受けています。鍛刀術をひと通り習得後、諸国を遍歴して修行。文禄年間(1593〜1596年)には、官位「肥後大掾」(ひごだいじょう)を受領しており、この時期の作例には、「肥後大掾下坂」という銘が切られています。

関ヶ原の戦い」直後の1600年(慶長5年)9月、越前康継は、「福井城」(福井県福井市)城主として入国した「結城秀康」(ゆうきひでやす:徳川家康の次男)に作刀の腕を見込まれ、40石を給されてお抱え刀工になりました。1606年(慶長11年)には、結城秀康の推挙によって、江戸幕府の御用鍛冶に就任。徳川家康から「康」の字を賜ったのは、このときです。

そして「康継」が正式な刀工名となり、同時に「徳川家」の家紋である「葵の御紋」(あおいのごもん)を、作例に切ることを許されました。以後、越前康継は、「御紋康継」(ごもんやすつぐ)、もしくは「葵下坂」(あおいしもさか)と呼ばれるようになるのです。やがて越前国と江戸の間で隔年勤務が命じられますが、実際には江戸にいる期間の方が長かったと言われています。これにより、江戸と越前国の両方に、康継を名乗る刀工が生まれたのです。

現在では双方の康継を区別するため、同工について表記する際には、「江戸〇代」や「越前〇代」と、活動地と何代目であるのかを明記されていることが多く見られます。

初代越前康継は、類まれなる技量の持ち主であったため、「大坂の陣」で焼けた名刀の再刃にも携わっています。この名刀は、「豊臣秀吉」が収集した名品であり、同合戦において、「大坂城」(大阪市中央区)落城の折に焼かれていました。

粟田口吉光」(あわたぐちよしみつ)の「一期一振」(いちごひとふり)や「親子藤四郎吉光」(おやことうしろうよしみつ)、「相州貞宗」(そうしゅうさだむね)の「獅子貞宗」、「三条小鍛冶宗近」(さんじょうこかじむねちか)の「海老名宗近」(えびなむねちか)など、数々の焼けただれた名刀が、越前康継の手によって蘇ったのです。

なお、越前康継は再刃の際、名刀の模作も鍛造しています。また、南蛮貿易で入手した「南蛮鉄」を素材とした作例も存在しており、研究熱心な刀工であったことが窺えます。

越前康継

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