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河内守国助(かわちのかみくにすけ)

「河内守国助」は、「初代 和泉守国貞」(しょだい いずみのかみくにさだ)と共に、「大坂新刀」の創始者となった刀工として知られています。はじめは「亀山城」(三重県亀山市)城主「関一政」(せきかずまさ)のお抱え刀工でしたが、「関氏」滅亡後に京都へ移り、新刀期初期の名工「堀川国広」(ほりかわくにひろ)の門人となります。

その後、堀川国広が没すると、兄弟子「越後守国儔」(えちごのかみくにとも)のもとで学び、1630年(寛永7年)頃に大坂で独立。「小杢目肌」(こもくめはだ)の地肌(じはだ)に、「沸出来」(にえでき)の華やかな刃文が特長です。

河内守国助の銘は、3代にわたって受け継がれており、なかでも「2代 河内守国助」は、「中河内」(なかかわち)と称される名工として知られ、「拳形丁子」(こぶしがたちょうじ:連続した「丁子乱」が、握りしめた拳の形に似ている刃文)という独自の乱刃/乱れ刃(みだれば)を考案。初代に並ぶ人気を博しました。

河内守国助(かわちのかみくにすけ)が作刀した刀剣

  • 刀 銘 河内守国助

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    刀 銘 河内守国助
    刀 銘 河内守国助
    河内守国助
    鑑定区分
    特別保存刀剣
    刃長
    74.1
    所蔵・伝来
    刀剣ワールド財団
    〔 東建コーポレーション 〕
  • 薙刀 銘 河内守国助

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    薙刀 銘 河内守国助
    薙刀 銘 河内守国助
    河内守国助
    寛永三年二月
    吉日
    鑑定区分
    重要刀剣
    刃長
    49.6
    所蔵・伝来
    板倉家→
    刀剣ワールド財団
    〔 東建コーポレーション 〕
  • 槍 銘 河内守国助

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    槍 銘 河内守国助
    槍 銘 河内守国助
    河内守国助
    鑑定区分
    特別貴重刀剣
    刃長
    15
    所蔵・伝来
    刀剣ワールド財団
    〔 東建コーポレーション 〕

摂津国の地図

摂津国の地図

「摂津国」の刀工を見る;


大和守吉道

大和守吉道

「大和守吉道」は、「初代 大坂丹波守吉道」(しょだい おおさかたんばのかみよしみち)の次男で、関西における「丁子乱[ちょうじみだれ]の3名人」のひとりに数えられた名工です。生年は不詳ですが、延宝年間(1673~1681年)まで生き、80余歳で没しました。一時期、播磨国・姫路(現在の兵庫県姫路市)に駐槌していたことがあるため、俗に「姫路大和」とも呼ばれています。

大和守吉道が得意とした丁子乱とは、丁字の実が連なった形にみえる刃文のこと。後代になると、「薬焼刃」(くすりやきば)と呼ばれる技法によって、菊水や富士山、桜花などを交えた華やかな文様を描き、人気を博しました。切れ味も良く、江戸時代の刀剣格付書「懐宝剣尺」(かいほうけんじゃく)において、「良業物」(よきわざもの)の評価を得ています。

なお、大和守吉道の銘は3代続き、「2代 吉道」は寛文年間(1661~1673年)に、常陸国(現在の茨城県)の「徳川光圀」(とくがわみつくに)に招かれて駐槌しています。

大和守吉道

和泉守国貞

和泉守国貞

「和泉守国貞」は、江戸時代初期に隆盛を誇った「大坂新刀」創始者のひとりです。「西教寺」(さいきょうじ:宮崎県宮崎市)の跡取り息子でしたが、京都に出て「堀川派」の始祖「堀川国広」(ほりかわくにひろ)に師事し、作刀を学びます。

師匠の没後は「越後守国儔」(えちごのかみくにとも)の薫陶(くんとう:人徳や品格の力で感化し、立派な人に育てること)を受け、1620年(元和6年)頃に独立。大坂に移住し、同じ堀川一門の「河内守国助」(かわちのかみくにすけ)と共に、大坂新刀の礎を築きました。

飫肥藩(現在の宮崎市中南部、及び日南市)3代藩主「伊東祐久」(いとうすけひさ)からの信任も厚く、1623年(元和9年)には「和泉守」を受領。知行100石や、伊東祐久自筆の絵画なども与えられたと伝わります。

晩年は病に伏せるようになったため、次男である「2代 国貞」(通称:井上真改[いのうえしんかい]、別称[真改国貞]」)に代作させることが増えますが、2代 国貞もまた父親と同様に、日本刀の作刀における非凡な才能の持ち主。「相州伝」(そうしゅうでん)を確立した名工「正宗」(まさむね)になぞらえ、「大坂正宗」(おおさかまさむね)と称されました。

和泉守国貞

近江守助直

近江守助直

「近江守助直」は、1639年(寛永16年)に近江国(現在の滋賀県)に生まれ、大坂に出て「2代 助広」(にだい すけひろ)に作刀技術を学んだ名工です。1675年(延宝3年)頃に助広の娘婿となって「津田」姓となり、その後、故郷に戻って鍛刀に励みました。

1682年(天和2年)、助広が没すると再び大坂へ来住。津田一門の後継者となります。助広の特長である「互の目乱」(ぐのめみだれ)や「濤瀾乱」(とうらんみだれ)といった刃文を施す技法を受け継ぎ、一門の繁栄を支えました。

近江守助直の作風は、おおむね助広に似ていますが、身幅がやや狭く、先反り気味。また、濤瀾乱において助広が得意とした「玉焼」(たまやき)が、ほぼ見られないなどの違いがあります。

没年は不詳ですが、1693年(元禄6年)以降の作例が見当たらず、これより遠くない時期に没したと推定されているのです。

近江守助直

井上真改/真改国貞

井上真改/真改国貞

江戸時代前期から中期にかけて、摂津国(現在の大阪府北中部、及び兵庫県南東部)で「国貞」(くにさだ)の銘を使用していた刀工が、3代に亘って作刀に携わりました。

このうち2代目が、「井上真改」(いのうえしんかい)です。同工は、壮年期までは銘に「国貞」と切っていましたが、晩年になってからは「真改」を用いていました。父である初代国貞と区別しやすくするため、初代を「親国貞」、そして2代目を「真改国貞」(しんかいくにさだ)と呼ぶことがあります。

井上真改は、「津田越前守助広」(つだえちぜんのかみすけひろ)や「粟田口一竿子忠綱」(あわたぐちいっかんしただつな)と共に、「大坂新刀」の三傑に数えられる妙手であり、別名「大坂正宗」とも称される名工です。

初代国貞は、日向国・飫肥(おび:現在の宮崎県日南市)に生まれました。長じて京都へ移り、「新刀の祖」と称される「堀川国広」(ほりかわくにひろ)に師事。その門下には、津田越前守助広の父「ソボロ助広」の師匠となる、「初代河内守国助」(しょだいかわちのかみくにすけ)がいました。

独立した初代国貞は大坂に移り、大坂鍛冶の祖として「大坂新刀」の土台を築きました。官位「和泉守」(いずみのかみ)を受領したことから、「和泉守国貞」と称されることもあります。この初代国貞を継いだのが、のちに「井上真改」と名乗る2代国貞です。

2代国貞の本名は、「井上八郎兵衛」(いのうえはちろうべえ)。かつては、1630年(寛永7年)に初代と同じ飫肥の出身で、大坂に出てから初代に鍛刀術を学び、養子になったとする説が有力視されていました。しかし現在では、初代国貞の次男であったとされています。諱(いみな:人が亡くなったあとに、その人を尊んで贈る名前)は「良次」(よしつぐ)です。

少年期は学問に励んでおり、陽明学者「中江藤樹」(なかえとうじゅ)に師事し、「熊沢蕃山」(くまざわばんざん)からも影響を受けたと伝えられています。

初めて作刀したのは、1645年(正保2年)、数えで16歳のとき。父の国貞は、すでに隠居していたため、その高弟の指導を受けていました。1652年(慶安5年)、父が没したことにより24歳で家督を相続し、「国貞」を襲名。同年中、25歳で官位「和泉守」(いずみのかみ)を受領しました。

1672年(寛文12年)に、43歳で刀工名を「真改」と改名。この名前が意味するのは、「心身共に、真に改める」であり、かつて学んだ熊沢蕃山が名付け親。以後、2代国貞は、「井上真改」の名で作刀に携わったのです。

作刀初期の刃文は、「小沸」(こにえ)本位の「互の目乱」(ぐのめみだれ)が主体でしたが、中期になると、「大湾乱」(おおのたれみだれ)が現れるようになり、晩年近くには、「荒沸」(あらにえ)本位の「広直刃」(ひろすぐは)や、直刃に湾乱の交じる焼刃が出現。

古作である「五郎入道正宗」(ごろうにゅうどうまさむね)、「江義弘/郷義弘」(ごうのよしひろ)とよく似た作風になっていきます。井上真改による作刀は、正宗のように覇気が溢れ、この作風こそが、井上真改が「大坂正宗」と呼ばれる由縁(ゆえん)となりました。

大坂新刀を牽引した井上真改でしたが、1682年(天和2年)に53歳で急死。死因については諸説あり、詳しいことは分かっていません。3代和泉守国貞は、井上真改の嫡男「良忠」(りょうちゅう/よしただ)が継承しています。

井上真改/真改国貞

一竿子忠綱

一竿子忠綱

江戸時代初期から中期にかけて3代に亘り、摂津国(現在の大阪府北中部、及び兵庫県南東部)を拠点に作刀をした「忠綱」(ただつな)がいます。このうち「2代忠綱」は、「津田越前守助広」(つだえちぜんのかみすけひろ)、「井上真改」(いのうえしんかい)らと共に、「大坂新刀の三傑」と讃えられました。「一竿子」もしくは「合勝軒」と号したこともあり、初代や3代と区別する意味で、「2代忠綱」は「一竿子忠綱」(いっかんしただつな)と呼ばれています。

一竿子忠綱は1644年(寛永21年/正保元年)、「初代忠綱」の嫡男として生まれました。姓は「浅井」(あざい)と言い、戦国時代に近江国(現在の滋賀県)北部を支配した名族「浅井氏」の末裔であるとし、「粟田口国綱末葉浅井氏作之」などのを切っています。

最古の現存刀は、年紀銘によれば「寛文十二年」(1672年)、29歳での作例であり、最新は「正徳六年」(1716年)の作例です。享保年間(1716~1736年)中期頃、80余歳まで鍛刀したことも史料で判明しています。これらのことから、一竿子忠綱の作刀期間は、50年以上にも及ぶと推測されているのです。これは、「新刀期」を通じて屈指の長寿でした。

鍛刀の最盛期は元禄・宝永年間(1688~1711年)であり、一竿子の号は、この時期から用いていたと考えられています。その使用開始年については諸説ありますが、現存する作例から1689年(元禄2年)か、その翌年のいずれかとされているのです。

一竿子忠綱による作例の刀身は、長すぎず短すぎず、均整の取れた大坂新刀の特徴が顕著ですが、大坂新刀における他の作例と比較して、やや身幅が広くて先反りがあり、「平肉」(ひらにく)が付いています。

刃文は当初、初代忠綱の作風を踏襲して「匂出来」(においでき)の「丁子乱れ」(ちょうじみだれ)を採っていますが、次第に丁子乱れの頭が不揃いとなる、「足長丁子乱れ」を多用。晩年には、華美の点において独自色を強め、津田越前守助広が創始した「濤瀾乱」(とうらんみだれ)に似た刃文や、「互の目」(ぐのめ)風の「湾れ乱」(のたれみだれ)の刃文を焼きました。

このうち互の目風となる湾乱の刃文は、「大乱」(おおみだれ)となる「乱刃/乱れ刃」(みだれば)の中に、互の目足が4~5本入り、太く長い「沸足」(にえあし)が順に小さく細くなっていく形であり、一竿子忠綱の晩年における作例の特徴となっています。

初代や3代と区別するために、2代忠綱が一竿子忠綱と呼ばれるのは、初代、3代と決定的に異なる特徴があることがその理由。その違いとは、一竿子忠綱は、初代、3代には見られなかった、彫物を最も得意としていたところです。

一竿子忠綱最大の持ち味とも言える彫物は、完全な鑑賞対象として制作されており、日本刀の美術品としての価値を一層高めています。刀身そのものを損ねずに、絶妙な調和を見せる腕前は他に類を見ず、「彫刻のない一竿子忠綱は購入すべきでない」とまで評されました。

一竿子忠綱

津田越前守助広

津田越前守助広

江戸時代中期、摂津国(現在の大阪府北中部、及び兵庫県南東部)で、作刀に携わった「2代助広」。「津田越前守助広」とも呼ばれていた2代助広は、「井上真改」(いのうえしんかい)とほぼ同時代を生き、「大坂新刀」における双璧と称されました。

津田越前守助広の師であった「初代助広」は、本名を「津田弥兵衛」(つだやへえ)と言います。寛永年間(1624~1644年)、「初代河内守国助」(かわちのかみくにすけ)に師事し、作刀を学びました。

師匠の没後、「2代国助」を後見し、1648年(正保5年/慶安元年)に独立。その作風は、こずんだ(刃文が密集している様子)「丁子乱れ」(ちょうじみだれ)で、刃文が際立つのが特徴。「備前伝」(びぜんでん)における、「一文字派」(いちもんじは)の伝法による作刀を得意としました。

そんな初代助広には、「そ不ろ」、あるいは「そ不路」と「添」(そえめい)が切られた作刀があり、それらの読み方である「ソブロ」を転化させて、「ソボロ助広」の異称でも呼ばれています。

「ソボロ」という言葉が、初代助広の異称に用いられるようになった由来には諸説ありますが、そのうちのひとつが、初代助広と家族が着古した服を身に着けて、真面目に働いていたからとする説。「ソボロ」は、漢字では「総襤褸」と表記することができ「粗末な衣服」という意味があります。

この他にも、古代中国の哲学書「中庸」(ちゅうよう)に記された表現「霜路の墜つる所」から、「霜路」(そふろ:霜柱や霜露のこと)という言葉を採ったとする説などがありますが、その真偽のほどは定かではありません。

2代助広は、本名を「津田甚之丞」(つだじんのじょう)と言います。1636年(寛永13年)に摂津国・打出村(兵庫県芦屋市)で生まれた、初代助広の実子とする説や、1637年(寛永14年)に打出村で生まれ、初代助広の門下に入って養子となったとする説などがあり、研究者の間でも、見解が分かれているのです。官位「越前守」を受領(ずりょう)した年についても、1657年(明暦3年)とする説と、1658年(明暦4年/万治元年)とする説があり、現在も結論が出ていません。

1667年(寛文7年)には大坂城代「青山宗俊」(あおやまむねとし)のお抱え刀工となり、日本刀の鍛造に従事。同年から、自身の作例に「津田」の姓を切るようになります。この銘切をもって、「津田越前守助広」が正式に誕生したのです。

作例は身幅が広めで「物打」(ものうち)がやや細くなっており、典型的な大坂新刀の姿が見られます。美しい刀身には、京で評判の「琳派」(りんぱ:江戸時代における絵画や書など、装飾芸術の一流派)風の波濤(はとう:大きな波)を再現しました。「濤瀾乱」(とうらんみだれ)と呼ばれる刃文であり、津田越前守助広の独創です。「旭瀾」(あざなみ)とも呼ばれる、緩やかな波濤のような美しい刃文であり、合戦のない平和な江戸時代初期における空気感を反映していることも相まって、一世を風靡しました。

大坂新刀を牽引した津田越前守助広は、1682年(天和2年)に、46歳、もしくは47歳で没します。奇しくも、大坂新刀の双璧とされた井上真改と同じ年に亡くなりました。

生涯を通じて約1,700点もの作例を残したと言われ、とりわけ延宝年間(1673~1681年)に作られた通称「丸津田」銘の日本刀は秀逸。なお、江戸時代の刀剣格付書「懐宝剣尺」(かいほうけんじゃく)において、津田越前守助広は、「大業物」(おおわざもの)に選ばれています。

津田越前守助広

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