「村正」は、室町時代後期から江戸時代中期にかけて、伊勢国・桑名(現在の三重県桑名市)で6代以上に亘り日本刀を鍛造しました。初代から2代にかけての作刀時期は、戦国時代です。この時代に村正は、安価ながらも切れ味の鋭い日本刀を大量生産。求めやすい価格である上に実戦向きとあって、村正の作例は一世を風靡しました。
こうして村正により、桑名は戦国時代に日本刀の一大生産地となりますが、元来この地に作刀の地盤があったわけではありません。桑名は「伊勢神宮」(三重県伊勢市)に近いこともあり、平穏な土地柄です。長い間、商人達の自治によって運営されていた地域でした。
しかし、室町時代後期になって戦乱が全国に及ぶと、事情が激変。桑名でも土豪(地方豪族)が台頭し、「桑名城」の起源である「東城」(桑名市吉之丸)、「西城」(桑名市吉津屋町)、そして「三崎城」(桑名市太一丸)のいわゆる「桑名三城」が築かれると、たちまち戦乱の嵐に包まれてしまいます。こうした時勢の中で、村正が登場したのです。
「千子派」(せんごは)を称していた村正は、江戸時代の刀剣書では、室町時代に3代続いたことが明記されていますが、その年代に該当する現存刀はありません。「文亀元年」の年紀銘を刻んだ作例が最古であり、これが、「初代村正」による1振であると考えられています。文亀元年は、西暦では1501年で室町時代後期。つまり村正は、戦国時代真っ只中の動乱期に、突如出現した刀工なのです。
作刀の歴史がなかった桑名が、急激に日本刀の一大産地に変貌した点を考慮すると、他国の刀工が武器需要を見込んで、桑名に乗り込んで来たことが考えられます。あるいは、桑名の農具鍛冶が武器需要を見込んで転身したという説もあり、いずれにしても村正の作例は、美術品としての価値よりも、実戦で用いることを重視した日本刀でした。
現存する作例も、「国宝」や「重要文化財」に指定された日本刀は皆無であり、「重要美術品」が1振あるのみ。しかし戦国時代当時、安価で切れる日本刀を鍛えた村正は、武士達にとって頼りになる刀工だったのです。
初代村正は、二字銘の「村正」や「勢州桑名住村正作」、「勢州桑名住右衛門尉藤原村正」などの銘を切っています。作風は初代、2代とも「互の目」(ぐのめ)が尖るなど鋭さが際立っています。なお、6代以上続いた村正の中で、最も上手とされたのが2代目であり、打刀以外に短刀や槍も多く鍛造しました。
村正は、「徳川家康」の祖父「松平清康」(まつだいらきよやす)の暗殺に使われたことや、徳川家康の父「松平広忠」(まつだいらひろただ)が、村正の脇差で家臣に刺されたことなどから、「徳川家に仇なす妖刀」とも言われています。しかしこれらの伝承は、端的に言えば「こじつけ」。なぜなら村正は、大量生産された日本刀であり、無数に存在した村正のうちの数振が、たまたま徳川家にとって不吉な事例に絡んでいたに過ぎないと考えられています。