山城国(現在の京都府南部)で生産された刀は、「京物」(きょうもの)と呼ばれています。この京物を作った最古の刀鍛冶とされるのが、平安時代中期に同国・三条(京都市中京区)を拠点として作刀し、「三条派」の開祖となった「三条小鍛冶宗近」(さんじょうこかじむねちか)です。
京都の名門鍛冶「埋忠明寿」(うめただみょうじゅ)家の家系図によれば、宗近は、従四位下「橘仲遠」(たちばなのなかとお)の次男となっています。当初の宗近は、「仲宗」(なかむね)と名乗り、続いて宗近に改名。従六位上「信濃大掾」(しなのだいじょう)に任じられた公卿(くぎょう)でありながら、三条の自宅において、公務の余暇に鍛刀を趣味として行っていました。
その技量が抜群であったため、刀鍛冶として著名となりましたが、1033年(長元6年)に77歳で没しています。しかし、これはあくまで一説に過ぎず、詳しい生涯は明らかになっていません。出自や作刀技術の修得場所も、河内国(現在の大阪府東部)から上洛したとの説や、薩摩国(現在の鹿児島県西部)に下向した際、当地の刀工「波平行安」(なみのひらゆきやす)に師事したとする説など、諸説紛々です。
三条宗近を祀る「鍛冶神社」(京都市東山区)を始めとして、同工に関する遺跡が全国に点在している観点からも、伝説化された刀鍛冶のひとりとされています。ただし、室町時代に創作された謡曲「小鍛冶」では、「三条宗近が、一条天皇の勅命で太刀を鍛えた」という設定になっており、このことから三条宗近は、986年(寛和2年)から1011年(寛弘8年)に在位していた、66代天皇「一条天皇」(いちじょうてんのう)の御代(みよ)に生きたとの説が有力です。
三条宗近の作刀は、太刀と短刀がわずかに現存しています。このうち「天下五剣」(てんがごけん)の1振として、国宝にも指定されている「三日月宗近」(みかづきむねちか)や、名物「海老名小鍛冶」(えびなこかじ)、同じく名物の「鷹の巣宗近」(たかのすむねちか)といった作例が有名です。また、史実か否かは定かではありませんが、82代天皇「後鳥羽上皇」(ごとばじょうこう)や、貴族であり僧侶でもあった「信西」(しんぜい)、「武蔵坊弁慶」(むさしぼうべんけい)など、著名な人物の愛刀を鍛えたとも伝えられています。
三条宗近の作風は、「優美」の一言に尽きます。反りの深さや、雅趣が顕著な「地鉄」(じがね)と刃などは、洗練された京物の代表格です。三条宗近の作刀時期が、平安時代の女流文学隆盛期と重なると指摘する研究者も存在し、現存する作例からは、全体的に温和であった平安時代における空気の反映を、確かに観て取ることができます。
三条宗近一門からは、その子孫であった「兼永」(かねなが)や「国永」(くになが)などが出ています。両人とも山城国・五条(京都市下京区)を拠点として鍛刀に従事していたため、それぞれ「五条兼永」、「五条国永」と呼ばれていました。山城国における平安時代中期の作刀は、三条派と五条派が牽引していたのです。