「国俊」には、「二字国俊」(にじくにとし)と「来国俊」(らいくにとし)がいます。いずれも「来派」で、前者は国俊の2字銘のみを切り、後者は来国俊の3字銘、または「来源国俊」(らいみなもとのくにとし)などと銘を切る刀工です。この二者を別人とするか、同一人物と考えるのかという問題は、室町時代末期から考察の対象となってきました。
「2字銘が切られているのは、その多くが太刀であり、現代まで伝わる短刀は1振だけであった一方で、3字銘には短刀が複数見られる」という点などから、別人説を推す声が有力視されていますが、結論は出ていません。また、別人説が推される大きな理由のひとつとして、作風の違いも挙げられます。二字国俊の太刀は、堂々たる太刀姿をしており、刀身が幅広く、「鋒/切先」(きっさき)は「猪首」(いくび)であり、刃文は「丁子」(ちょうじ)が主体です。
これに対して来国俊の太刀は、優美な姿をしていて刀身は細目、鋒/切先は小さく、刃文は「直刃」(すぐは)が主体で、「小互の目」(こぐのめ)や「小乱」(こみだれ)交じりの穏やかな雰囲気となっています。
一方で、戦国時代後期の書物「元亀本刀剣目利書」(げんきぼんとうけんめききしょ)には、来国俊が85歳で手掛けた作例があり、90歳まで生きたことが記されていました。
また、江戸時代に書かれた「古刀銘尽大全」(ことうめいづくしたいぜん)にも、105歳まで存命していたことが記載されています。当時の平均寿命が24歳ぐらいであったことを考えると、国俊は、かなり長寿であったことが指摘されているのです。
さらには「正和四年 歳七十五」という年紀銘を刻んだ作例や、81歳のときに作刀されたと考えられる遺作も現存しているため、国俊は高齢になってからも作刀に励んでいたと推測されています。
二字国俊と3字銘を切る来国俊には、それぞれの作風に相違が見られますが、国俊が長寿であったことや、75歳以降の作例が確認されていることを踏まえると、その相違は、経験値や年齢による変化と考えることも可能。そのため、2字銘の国俊による刀を初期作、3字銘の来国俊による刀を壮年期以降の作刀と見なして、同一人物であるとする声もあります。
このように、二字国俊と来国俊、両者は別人であるのか、それとも同一人物であるのかという点についてはいまだに結論が出ておらず、今もなお、議論の的となっているのです。
来国俊の通称は「孫太郎」(まごたろう)と言い、父は「来国行」(らいくにゆき)、祖父は来派の始祖「来国吉」(らいくによし)とされています。太刀、及び短刀とも数多く現存しており、精緻(せいち:極めて綿密なこと)な「地鉄」(じがね)と格調高い直刃の刃文が、同工による作例の見どころです。
特に「区」(まち)から鋒/切先の先端まで寸分の狂いもなく、直刃が走る様は、刀に実戦重視の機能美が要求された鎌倉時代中期の緊張感を余すところなく語っており、鎌倉武士の矜持を体現しています。このような刃文を焼いた刀工は、来派の中では来国俊以外になく、同派の発展と隆盛の原動力となりました。
来国俊は、81歳、もしくは85歳で鍛刀したのを最後に、後事を息子の「来国光」(らいくにみつ)に託し、刀工としての第一線から退きました。来国俊による現存作のほとんどが国宝や重要文化財、重要美術品などに指定されていることからも、その腕前の確かさが窺えます。