「大和伝」(やまとでん)の一派「尻懸派」(しっかけは)。その実質上の祖とされる刀工が「則長」です。「実質上」と見なされているのは、父「則弘」(のりひろ)が開祖とされているものの、現存刀が残っていないことが、その理由です。
1275年(文永12年/建治元年)頃、「東大寺」(奈良県奈良市)の裏手に則弘が移転し、同寺院のお抱え鍛冶となったことで「尻懸派」と称する流派が生まれ、長男の則長へ受け継がれました。
作風で特に目を引くのが、「尻懸肌」(しっかけはだ)と呼ばれる地肌。鎬寄り(しのぎより)の箇所が「杢目肌」(もくめはだ)に、同じく刃縁寄り(はぶちより)が「柾目肌」(まさめはだ)に流れているのが最大の特長です。
刃文は「直刃」(すぐは)調で「小乱」(こみだれ)が交じった作例や、「玉垣刃」(たまがきば)と言う「互の目乱」(ぐのめみだれ)が揃った作例などが見られ、いずれも「二重刃」(にじゅうば)や「掃掛け帽子」(はきかけぼうし)などを交えています。