「三郎国宗」は、鎌倉時代後期に活躍した刀工です。「古備前派」(こびぜんは)の流れを汲む「福岡一文字派」(ふくおかいちもんじは)に属していた「直宗」(なおむね)の子、あるいは孫とされていますが定かではなく、「備前国真」(びぜんくにざね)の嫡男や次男、三男、もしくは、「備前国貞」(びぜんくにさだ)の弟など、その出自には諸説があります。
三郎国宗による作刀のなかには、「備前国長船住 正和」と銘を切った1振が存在するため、備前国(現在の岡山県東南部)の福岡地域で生まれ育ったあと、同国の長船(おさふね)に移住したと考えるのが通説。なお、「三郎」という通称は、備前国真の三男を意味しているとの説もあります。
三郎国宗は、大量注文を引き受けないという点において、長船の地に住みながらも、他の長船鍛冶とは一線を画していました。個別注文に応じて作刀する生産方式を堅持し、豪壮な作風から、細身の優雅な作風まで幅広い作例を残しています。
技量の高い刀工としてその名を知られていた三郎国宗は、相模国(現在の神奈川県)に下向して鎌倉に移住。「鎌倉鍛冶」の草分け的存在となりました。
「相州伝」(そうしゅうでん)の基礎を築いた「新藤五国光」(しんとうごくにみつ)の師になったとも言われており、日本における日本刀史上でも、重要な刀工のひとりです。
鎌倉下向時の三郎国宗は、18歳の青年刀工であり、1238年(嘉禎4年/暦仁元年)に、58歳で故郷の長船に帰国しました。
ところが1261年(文応2年/弘長元年)に、鎌倉幕府5代執権「北条時頼」(ほうじょうときより)の命により、82歳という高齢で再び鎌倉へ下向。そこで再び作刀に当たったとされています。
しかし、青年の頃から作刀を始めた刀工が、82歳になってもなお続けているというのは、1人の刀工による作刀期間としては長すぎます。そのため三郎国宗には、1代限りであったとする説と、2~4代続いたとする説があり、現在も結論は出ていません。
なかでも3代とする説では、初代と2代が父子関係にあり、近い血縁者が同名を用いて、3代目として長船の地で鍛刀を続けたと考えられています。作刀時期の長さとの辻褄が合うこと、そして、この期間に作風の変化が見られることなどから、現在は3代説が有力です。
三郎国宗の太刀は、刀身の身幅が広く、元幅と先幅の差が少なく、「鋒/切先」(きっさき)は「猪首鋒/猪首切先」(いくびきっさき)になっています。鎌倉時代独特の力強い太刀姿をしており、「丁子乱」(ちょうじみだれ)に「蛙子丁子乱」(かわずこちょうじみだれ)を交えるなど、焼幅の激しい華麗な刃文が見事です。
三郎国宗の作刀は、時代が下がるほど、こうした華麗さや豪壮さは希薄となりますが、これにより、三郎国宗の特徴とされる「刃染み」(刃中に小さく現れる白染み)が顕著になり、独特の枯れた味わいを醸し出されています。