江戸時代中期、摂津国(現在の大阪府北中部、及び兵庫県南東部)で、作刀に携わった「2代助広」。「津田越前守助広」とも呼ばれていた2代助広は、「井上真改」(いのうえしんかい)とほぼ同時代を生き、「大坂新刀」における双璧と称されました。
津田越前守助広の師であった「初代助広」は、本名を「津田弥兵衛」(つだやへえ)と言います。寛永年間(1624~1644年)、「初代河内守国助」(かわちのかみくにすけ)に師事し、作刀を学びました。
師匠の没後、「2代国助」を後見し、1648年(正保5年/慶安元年)に独立。その作風は、こずんだ(刃文が密集している様子)「丁子乱れ」(ちょうじみだれ)で、刃文が際立つのが特徴。「備前伝」(びぜんでん)における、「一文字派」(いちもんじは)の伝法による作刀を得意としました。
そんな初代助広には、「そ不ろ」、あるいは「そ不路」と「添銘」(そえめい)が切られた作刀があり、それらの読み方である「ソブロ」を転化させて、「ソボロ助広」の異称でも呼ばれています。
「ソボロ」という言葉が、初代助広の異称に用いられるようになった由来には諸説ありますが、そのうちのひとつが、初代助広と家族が着古した服を身に着けて、真面目に働いていたからとする説。「ソボロ」は、漢字では「総襤褸」と表記することができ「粗末な衣服」という意味があります。
この他にも、古代中国の哲学書「中庸」(ちゅうよう)に記された表現「霜路の墜つる所」から、「霜路」(そふろ:霜柱や霜露のこと)という言葉を採ったとする説などがありますが、その真偽のほどは定かではありません。
2代助広は、本名を「津田甚之丞」(つだじんのじょう)と言います。1636年(寛永13年)に摂津国・打出村(兵庫県芦屋市)で生まれた、初代助広の実子とする説や、1637年(寛永14年)に打出村で生まれ、初代助広の門下に入って養子となったとする説などがあり、研究者の間でも、見解が分かれているのです。官位「越前守」を受領(ずりょう)した年についても、1657年(明暦3年)とする説と、1658年(明暦4年/万治元年)とする説があり、現在も結論が出ていません。
1667年(寛文7年)には大坂城代「青山宗俊」(あおやまむねとし)のお抱え刀工となり、日本刀の鍛造に従事。同年から、自身の作例に「津田」の姓を切るようになります。この銘切をもって、「津田越前守助広」が正式に誕生したのです。
作例は身幅が広めで「物打」(ものうち)がやや細くなっており、典型的な大坂新刀の姿が見られます。美しい刀身には、京で評判の「琳派」(りんぱ:江戸時代における絵画や書など、装飾芸術の一流派)風の波濤(はとう:大きな波)を再現しました。「濤瀾乱」(とうらんみだれ)と呼ばれる刃文であり、津田越前守助広の独創です。「旭瀾」(あざなみ)とも呼ばれる、緩やかな波濤のような美しい刃文であり、合戦のない平和な江戸時代初期における空気感を反映していることも相まって、一世を風靡しました。
大坂新刀を牽引した津田越前守助広は、1682年(天和2年)に、46歳、もしくは47歳で没します。奇しくも、大坂新刀の双璧とされた井上真改と同じ年に亡くなりました。
生涯を通じて約1,700点もの作例を残したと言われ、とりわけ延宝年間(1673~1681年)に作られた通称「丸津田」銘の日本刀は秀逸。なお、江戸時代の刀剣格付書「懐宝剣尺」(かいほうけんじゃく)において、津田越前守助広は、「大業物」(おおわざもの)に選ばれています。