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康光(やすみつ)

「康光」(やすみつ)は、室町時代初期、備前国(びぜんのくに:現在の岡山県)で3代にわたって作刀した刀匠。
初代を「右衛門尉(うえもんのじょう)康光」、2代目を「左京亮(さきょうのすけ)康光」、3代目を「右ェ門尉(うえもんのじょう)康光」と言います。
盛光、師光とともに「応永三光」に挙げられるほどの名工。3代の作例が室町時代初期に集中しているのは、2代目・3代目とも各先代が活動している時期に作刀を開始したためです。
このうち3代目康光は、2代目の名声に隠れて影の薄い観がありますが、作例を観る以上、2代目に勝るとも劣らない技量の持ち主であったことが判明しています。

備前国の地図

備前国の地図

「備前国」の刀工を見る;


友成

友成

「友成」は平安時代、備前国(現在の岡山県東南部)で作刀に携わった刀工です。通称として「平三郎」(へいざぶろう)や、「権太夫」(ごんだゆう)とも名乗っていました。活動期は、「備前伝」(びぜんでん)の中でも古い時期に当たる「古備前」の頃。

友成は、古備前の代表刀工であり、山城国(現在の京都府南部)の「三条小鍛冶宗近」(さんじょうこかじむねちか)、伯耆国(現在の鳥取県中西部)の「安綱」(やすつな)と並んで、「日本最古の三名匠」と称されています。備前国にあっては、名工「正恒」(まさつね)と共に双璧とされており、「備前鍛冶の祖」、あるいは、同国における「長船[おさふね]鍛冶の祖」などに位置付けされているのです。初代 友成の作刀時期は永延年間(987~989年)の頃。しかし、現存刀で最も古い友成の作例は、康治年間(1142~1144年)、及び仁平年間(1151~1153年)の刀です。

さらに友成の作刀には、二字銘の「友成」や三字銘の「友成作」、「備前国友成」、「備前国友成造」など、異なる銘振りが複数見られます。これらの物証から友成は、同銘の刀工が数代続いていたことが分かるのです。江戸時代の書物「古今銘尽」(ここんめいじんづくし)によると、その具体的な人数は、平安時代後期に2人、鎌倉時代初期に2人の計4人。多少の差異はありますが、作風はほとんどの点で共通しています。

また友成は、日本史上における著名人物の佩刀(はいとう)を多数鍛造したことで有名です。「源義経」や「平教経」(たいらののりつね)、「平宗盛」(たいらのむねもり)、「北条貞時」(ほうじょうさだとき)といった人々が、友成の鍛えた太刀を佩用しています。また、現在の皇室に「御物」(ぎょぶつ)として秘蔵されている「鶯丸」(うぐいすまる)の太刀も、友成によって作刀されました。

さらには、「厳島神社」(いつくしまじんじゃ:広島県廿日市市)の社宝である太刀も友成が手掛け、平教経が奉納しています。同太刀は「鎬造り」(しのぎづくり)の「庵棟」(いおりむね)で、腰反りが高く、踏張りのある堂々たる太刀姿が特徴。平家一門にあって、豪勇で鳴らした平教経の雄姿を彷彿とさせます。

友成の作風は、古備前の中で最も古調であり、刀身は細身で、鋒/切先(きっさき)は小鋒/小切先の形状を採用。地鉄(じがね)は小板目がよく詰む作例と、やや肌立つ作例があり、地中の働きは「地沸」(じにえ)が付いて「地景」(ちけい)が入り、「沸映り」(にえうつり)が立っています。前述した正恒による作刀の明るさとは対照的に、黒味を帯びた地鉄が友成の持ち味です。

刃文は「沸出来」(にえでき)の「小乱」(こみだれ)と、「小湾れ」(このたれ)調の「直刃」(すぐは)に、小乱の入る場合があります。年代が下ると、焼幅に高低の差が見られるようになり、「小丁子」(こちょうじ)が交じるなどして、刀身全体に華やかさが加味されるのが友成の特徴です。

友成

正恒

正恒

「正恒」(まさつね)は、友成(ともなり)と共に、古備前派を代表する刀工です。同銘が何代か続きました。
古伝書によると「七種の正恒」として古備前派に「古備前正恒」を含む5人、「青江派」(あおえは)にひとり、「筑前国」(ちくぜんのくに:現在の福岡県北西部)にひとりと、異なる7人の正恒がいたとされています。
太刀姿は反りが浅く身幅尋常なしっかりとした姿。地鉄が小板目精緻(せいち)に詰んで美しく、乱れ映り鮮やかに立ち、刃文は焼幅に広狭のある小丁子乱を焼き、刃中には「金筋」(きんすじ)や「稲妻」(いなづま)などの「働き」(はたらき:沸出来[にえでき]や匂出来[においでき]の中に時折現れる様々な動き)が見られます。
「焼出し」は、正恒独特の直刃風の小丁子乱。友成よりも華やかな作風です。

正恒

包平

包平

「包平」(かねひら)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて作刀した古備前派の刀匠です。「高平」(たかひら)、「助平」(すけひら)と共に、「三平」に数えられる名工でもあります。
かつては、単独の存在と考えられていましたが、の刻み方や作風に若干の相違点があることから、現在では同名を名乗る複数の刀匠が、備前国(びぜんのくに:現在の岡山県)や、河内国(かわちのくに:現在の大阪府)で活動したものと考えられています。
作風は、上品ななかにも強みの感じられる太刀姿が特徴。地鉄(じがね)板目に杢目(もくめ)が混じっており、刃文は小乱や丁子乱れが多く、刃中の働きには、砂流しや金筋が見られます。
銘は、「包平」もしくは「包平作」と切っています。

包平

基近

基近

「基近」(もとちか)は、鎌倉時代に備前国(びぜんのくに:現在の岡山県)で作刀した刀匠であり、古備前派に属し、「法華太郎」(ほっけたろう)を称しました。

室町幕府第13代将軍で、剣を塚原卜伝(つかはらぼくでん)に学んで免許皆伝を得た「足利義輝」が愛した日本刀として知られています。

作風は、古備前の伝統をよく伝えており、腰反りが深く踏ん張りのある太刀姿。鋒/切先(きっさき)は猪首風なのが特徴。刃文直刃か、小乱に小丁子が混じるものがあります。

地中の働きもよく、備前刀特有の丁子映り丁子乱れ刃に沿って現れた映り)も見事です。は「基近造」(もとちかつくる)。

基近

恒光

恒光

「恒光」(つねみつ)は、備前国(びぜんのくに:現在の岡山県)で作刀した刀匠で、古備前派に属し、平安時代に「奥州太郎」(おうしゅうたろう)を称した「正恒」の孫と伝えられています。

活動時期については諸説唱えられてきましたが、の切りかたなどから、「鎌倉時代初期から同時代末まで複数工が作刀した」との説が有力です。

地鉄(じがね)は、小板目(こいため)に杢目(もくめ)が混じって地沸(じにえ)が付き、肌起つ気味が見られます。刃文直刃(すぐは)調に小乱を加え、丁子の際立つものが多いです。

銘は「恒光」に加え、「正安二二年四月日恒光」と作刀時期を明記した物があります。「正安」は、鎌倉時代末期の年号です。

恒光

則宗

則宗

「則宗」(のりむね)は、後鳥羽上皇の「正月番鍛冶」をつとめた刀匠で、「備前大夫」(びぜんだゆう)もしくは「刑部丞」(ぎょうぶのじょう)を称しました。

鎌倉時代中期に栄えた「福岡一文字」の祖とされており、太刀身幅は狭く、腰反り踏張りが強いのが特徴。

地鉄(じがね)は小板目がつんで地沸がつき、地中の働き地景が交じり映りが立っていて、直刃(すぐは)調の小乱に小丁子が交じり、刃中の働き小沸がよくつき、金筋や砂流しが顕著です。

福岡一文字の祖ですが、古備前の伝統を継承しており、地刃が明るく冴えていて美しい作風。は「則宗」と二字に切ります。

則宗

吉房

吉房

吉房(よしふさ)は、「福岡一文字」を代表する名工です。鎌倉時代を通じて複数の刀匠が「吉房」を称しました。このうち「藤次郎」、「久五郎」、「左近三郎」の3工が最も著名になります。

刀工によって多少の個人差はありますが、身幅が広く、腰反りが高く、鋒/切先(きっさき)が猪首の堂々たる太刀姿は共通しています。

また、乱(みだれ)映りが鮮やかな地中の働きや、華麗な重花丁子乱刃(じゅうかちょうじみだれは)の刃文も、この流派の共通点にして特徴です。

いずれの作例も備前刀の秀逸さを雄弁に物語る銘品ばかりで、多くが「国宝」に指定されています。有名な「岡田切吉房」は、久五郎の作例。銘は「吉房」と二字に切っています。

吉房

助真

助真

助真(すけざね)は、鎌倉時代中期に作刀した刀匠で、「助成」の子もしくは「助房」の子と言われています。

備前国(びぜんのくに:現在の岡山県)に生まれ、福岡一文字派の作刀を学んだあと、一門を伴って相模国(さがみのくに:現在の神奈川県)鎌倉に下向し、鍛刀に励んだため「鎌倉一文字」と呼ばれていました。

身幅広く、腰反りが高く、鋒/切先(きっさき)が猪首の堂々たる太刀姿は、鎌倉時代中期の典型例を現代に伝えています。

刃文は、丁子乱に蛙子丁子(かわずこちょうじ)を交え、焼幅に高低の変化があって、じつに華麗。銘は「助真」、「助真造」の2種です。

助真

宗吉

宗吉

宗吉(むねよし)は、「則宗」の娘婿とされていますが、「延房」の弟とする伝もあります。同じ「福岡一文字」に属する「吉平」の父親。「後鳥羽上皇」の番鍛冶中、「七月番鍛冶」を務め、「左近将監」(さこんしょうげん)に任じられました。「左近太郎」に加え、「刑部丞」(ぎょうぶのじょう)を自称した鎌倉時代初期の刀匠です。

地鉄(じがね)は板目がつんで、地中の働きは乱映りが目立ちます。刃中の働きは、匂出来(においでき)が顕著であり、刃文は丁子が多いです。作例によって刃中の働きが沸づく物や、金筋の観られる日本刀も作刀。作風や銘振(めいふ)りが数種類あることから、「宗吉」を称した複数の刀匠がいたと考えられています。

宗吉

菅原為遠

菅原為遠

菅原為遠(すがわらためとお)は、鎌倉時代に備前国(びぜんのくに:現在の岡山県)で作刀した刀匠。「福岡一文字」の末流と言われています。
は「備前国唐河住左兵衛尉菅原為遠」(びぜんのくにからかわじゅうさひょうえのじょうすがわらのためとお)の他、「一為遠」や「備前国住為遠」と切られました。
銘中の「唐河」とは、現在の岡山県岡山市一宮西辛川、及び辛川市場のある場所が該当します。
刃文は、直刃(すぐは)を多く採用。まれに丁子刃(ちょうじは)もあり、刃中の働きでは、(にえ)や(におい)が、刃縁から刃先に向けて筋状に差し込んだ「足」が短い「小足」(こあし)が多く観られます。

菅原為遠

貞真

貞真

貞真(さだざね)は、鎌倉時代中期に備前国(びぜんのくに:現在の岡山県)で作刀した刀匠です。
古一文字派の刀工であった「宗忠」の子とされており、他に古備前派の「高綱」を父とする伝もあります。
刃文、直刃(すぐは)仕立ての日本刀と、小乱を主体とした日本刀が存在。これに加えて、小乱刃に小丁子を交えた作品も多いのが特徴です。

貞真は、「福岡一文字派」の刀工に位置付けられていますが、古調の物も多いことから「古備前派」とする声もあり、判別が難しい刀工に数えられています。は「貞真」の二字です。

貞真

助光

助光

吉岡一文字の開祖は、一文字の開祖である則宗の孫「助吉」(すけよし)。「助光」(すけみつ)は、助吉の子とされるが、弟とする説もあり、一門随一の名工とされました。生没年不詳。
作風は、腰反り深く、元先の差も少なくしっかりとした出来。焼き幅広い匂出来の刃文は、丁子に互の目乱れが混じるのが特徴。匂出来で広い焼幅に丁子乱や大丁子乱の刃文が見られ、地鉄は細かい杢目肌に、地沸付き、乱れ映りが立ちます。
助光の作は、一門の中でも群を抜いており、「阿部豊後守忠秋」(あべぶんごのかみただあき)が、将軍徳川家光の命により大洪水の隅田川を馬で乗り越えた際、その功績を讃えられ、助光の太刀が拝領されたという逸話があります。

助光

光忠

光忠

備前国(現在の岡山県東南部)は、中国山地で良質な砂鉄が採取でき、炭の供給や瀬戸内海の利便性があったため、古くから作刀が行われてきました。同国内において、刀の一大産地となったのが、吉井川下流域に広がる「長船」(おさふね)の地です。

同地は吉井川の水運や良質な湧水に恵まれていたこともあり、高品質の刀を多数生産。鎌倉時代中期から室町時代末期まで、「長船派」の刀工は、日本刀剣界を牽引する存在となりました。この長船派の始祖が「光忠」です。通常、流派名を冠して「長船光忠」(おさふねみつただ)と呼ばれます。光忠の生没年に関しては諸説あり、詳しいことは分かっていません。

ただし、作刀開始時期は、1238年(嘉禎4年/暦仁元年)であることが有力視されています。「近忠」(ちかただ)を父親とし、近忠を長船派の祖とする説もありますが、その現存刀は確認されていません。このため現在は、長船光忠を実質的な長船派の祖としているのです。光忠の作例は、身幅が尋常で、鋒/切先(きっさき)が中鋒/中切先の刀と、身幅が広く「猪首鋒/猪首切先」(いくびきっさき)の刀があります。

そんな光忠の作例で特筆すべきは、その切れ味の鋭さです。鎌倉時代末期の1313年(正和2年)、鎌倉幕府が「注進物」(ちゅうしんもの)を作成したことがありました。これは、諸国の最優秀刀工を一覧にした書であり、「諸国の物の勝れて切れたること」との文言があることから、切れ味本位で刀工を選んだことが分かります。

光忠は、この注進物の中に名を連ねていたのです。光忠による作例の切れ味のほどは、鎌倉武士も認めるところだったことが窺えます。実戦本位に鍛えられた光忠の刀を武士達が放っておくはずもなく、戦国時代には、諸大名はこぞって光忠の作刀を求めました。

江戸時代に記された「常山紀談」(じょざんきだん)によると、「織田信長」は光忠の作刀を25振も所有。「本能寺の変」の折には、「実休光忠」(じっきゅうみつただ:古くは「三雲光忠」とも呼ばれた)を得物(えもの:最も自分が得意とする武器)として奮戦したと言われています。織田信長所有の光忠は、やがて「豊臣秀吉」に継承され、このうちの1振が「伊達政宗」に与えられたのです。

その後、「伊達家」を経て「水戸徳川家」に伝来しました。これが有名な「燭台切光忠」(しょくだいきりみつただ)です。この他にも、中国地方に覇を唱えた(武力などで国を統一すること)「毛利家」の重鎮「小早川隆景」(こばやかわたかかげ)が、「高麗鶴光忠」(こまづるみつただ)を佩用(はいよう)。

さらには、江戸時代中期に8代将軍「徳川吉宗」(とくがわよしむね)の命で作成された名刀リスト「享保名物帳」(きょうほうめいぶつちょう)にも、「福島光忠」(ふくしまみつただ)や「池田光忠」(いけだみつただ)が掲載されています。戦国武将が競って求めた光忠は、まさに武人が所有するにふさわしい刀を鍛造した名匠だったのです。

光忠

長光

長光

「長光」は、「備前伝」(びぜんでん)の1流派「長船派」(おさふねは)を開いたと伝わる「光忠」(みつただ)の子です。「備前長船長光」(びぜんおさふねながみつ)と呼ばれ、官位「左近将監」(さこんしょうげん)を受領(ずりょう)した名工。備前長船長光には、1代のみとする説、もしくは、2~3代続いたとする説もあります。

さらには、江戸時代に記された「校正古刀銘鑑」(こうせいことうめいかん)では、応永年間(1394~1428年)に見られた同銘の刀工を加えて、長光が4代目までいた説を提唱していますが、3代目に当たる建武年間(1334~1338年)以降は、長光の作刀が激減するのも事実。このため備前長船長光と言えば、通常、鎌倉時代後期の初代と2代を指します。

備前長船長光に複数代説が唱えられるようになったのは、作刀期間の長さが要因でした。最古とされるのが「長船長光 文永十一年十月廿五日」と年紀銘を切った作例であり、最後の作とされる年紀銘が「元応二年」です。文永11年は西暦1274年、元応2年は1320年ですが、年数にして46年。1人の刀工としては、作刀期間が長すぎるのです。

このため室町時代中頃から、2代目の存在が考えられ始めました。最初に2代説を唱えたのは、室町幕府の「足利将軍家」に仕えた鑑定家の「能阿弥」(のうあみ)です。

初代は「直刃」(すぐは)に「小足」(こあし)が入る、2代は「地鉄」(じがね)の色が浮やか(うきやか)で、焼刃が乱れるという両者における作風の違いに着目し、初代と2代の存在を主張。同説はこのあとも継承され、江戸時代初期に編纂された「古今銘尽」(ここんめいづくし)が刊行されるに及び、定説化しました。

初代備前長船長光の作は身幅(みはば)が広く、「鋒/切先」(きっさき)は、「猪首鋒/猪首切先」(いくびきっさき)の太刀姿をした、豪壮な作例が多くを占めます。これは、父・光忠による作刀の特徴を継承した作風ですが、稀に細身の太刀も現存しているのです。両方とも完成度は極めて高く、その作刀は、備前長船長光が「名工」と呼ばれる理由を余すところなく語っています。

華やかな「丁子乱」(ちょうじみだれ)を焼く刃文は光忠と同じですが、備前長船長光の場合、同じ丁子乱でも焼幅に高低の差が少ないため、「互の目」(ぐのめ)が際立って鋭さを増している点が、光忠とは異なります。

父・光忠は、字数の多い長銘を切ることが少なかったのに対し、備前長船長光は、「備前国長船住長光」や「備前国長船住左近将監長光造」といった、長銘を好みました。長光による作例全体の約3割は長銘になっているのです。

初代備前長船長光は、長船鍛冶の基礎を確立したばかりでなく、多くの名刀を世に送り出したことでも知られています。数が多い鎌倉時代に活躍した刀工の中で、初代・備前長船長光ほど、多くの作例を残している刀工はいません。また、初代による現存刀の中には、国宝指定の「大般若長光」(だいはんにゃながみつ)も含まれていますが、2代目の作例は稀少です。

長光

景光

景光

「景光」は、「備前長船長光」(びぜんおさふねながみつ)の子と伝わる刀工です。備前国(現在の岡山県東南部)で繁栄した「長船鍛冶」は、「光忠」(みつただ)を実質上の祖として発生し、長光から景光、そして景光の子「兼光」(かねみつ)へと継承されていきました。

景光は、「長船派」の嫡流における3代目に当たります。官位である「左兵衛尉」(さひょうえのじょう)や「左衛門尉」(さえもんのじょう)を称していました。景光の作刀時期は、1304~1345年(嘉元2年~貞和元年)。年数にして41年にも及びます。鍛造した日本刀は比較的多く、太刀短刀を中心に、薙刀(なぎなた)などの作刀にも当たりました。

太刀は、父の備前長船長光ほど華やかな「丁子乱」(ちょうじみだれ)ではなく、「中丁子」(なかちょうじ)や「小丁子」(こちょうじ)のに、「互の目」(ぐのめ)を交えた作例がほとんど。なかには、「直刃」(すぐは)に「小足」(こあし)の入った作例も見られるのです。また景光は、「片落ち/肩落ち互の目」(かたおちぐのめ)と称される、特徴的な「乱刃/乱れ刃」(みだれば)を創始したことでも知られています。

父親の作例に比べると、豪壮さはありませんが、格調と品格の高さにおいては定評があり、特に「地鉄」(じがね)の美しさについては、長船鍛冶の中でも第一級と評されています。

短刀には、「片切刃造」(かたきりはづくり)の作例がありますが、これは、父・長光には見られません。景光の独創性と個性が窺える1振です。この短刀に限らず、景光には偉大な父と自身を差別化しようと試みた形跡が、作例の随所に散見されます。

例えば、景光の作刀に施された刀身彫。父・長光は、どちらかと言えば簡素な彫物を施していましたが、景光は、彫物の名手としても鳴らしており、「密教」の守護神「不動明王」(ふどうみょうおう)を描いた「立不動」(たちふどう)や、不動明王の変化神である「倶利伽羅龍王」(くりからりゅうおう)など、精緻な刀身彫を施しています。

銘も同様で、父・長光が作例全体の約3割に長銘を入れたのに対し、景光は、それを上回る割合で長銘を切りました。その例としては、「備前長船住景光」や「備前国長船住左衛門尉景光」、「備前国長船住左兵衛尉景光 作者進士三郎景政」などが挙げられます。景光の作例はいくつか現存しており、それらの多くが「国宝」や「重要文化財」などに指定されています。

このうち国宝指定の「小竜景光」(こりゅうかげみつ)は、最上級の出来栄えです。「」(ひ)の中に、倶利伽羅龍の彫物があるため、このような号が付きました。また、小竜景光には、「楠木正成」(くすのきまさしげ)の佩刀(はいとう)であったとする伝承もあるため、「楠公景光」(なんこうかげみつ)との異称もあります。

さらに景光には、嫡流の他に傍流(ぼうりゅう:嫡流から分かれて出た系統や流派)も存在します。嫡流である兼光の門人であった刀工が独立し、「景光」の名を称したのです。その作例には、「応安元年」(1368年)と「永徳三年」(1383年)の年紀銘を刻んだ日本刀があり、1代限りではなく、同銘を用いた刀工が複数存在した形跡が見られます。

景光

景依

景依

「景依」(かげより)は、伊達政宗の愛刀「くろんぼ斬り」を作刀した景秀の子で、鎌倉時代中期に備前国(びぜんのくに:現在の岡山県)で作刀。「左近将監」(さこんしょうげん)、「左衛門尉」(さえもんのじょう)を称しました。
地鉄(じがね)は、板目(いため)に杢目(もくめ)がまじったものが多く、刃文は互(ぐ)の目まじりの丁子小乱、直丁子乱(すぐちょうじみだれ)などが見られます。

は「景依」、「景依造」、「備前国景依造」、「備前国住人左衛門尉景依」、「備前国住人左近将監景依造」などがあり、まれに「景依弘安八十月五」と年月日を刻したものもありました。

景依

長船近景

長船近景

「長船近景」(おさふねちかかげ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて、備前国(びぜんのくに:現在の岡山県)で作刀した刀匠で、長光の子とも近恒(ちかつね)の子ともされ、「三郎左衛門」を称しました。明智光秀の愛刀である「明智近景」を鍛えたことでも世に知られる名工です。

長船近景の銘は「備前国長船住近景」、「備州長船住近景」などと切ります。

作刀は太刀短刀の両刀。両刀とも鎌倉時代末期の様式を今に伝えている貴重なものばかり。地鉄(じがね)は、小板目(こいため)詰んで杢目(もくめ)交じり、鮮やかな乱映りが立ちます。

刃文は、匂出来(においでき)の直刃(すぐは)に小互(ぐ)の目交じり足の入った地味な傾向が強いですが、最晩年の1347年(貞和3年)に制作された太刀は、南北朝期の影響を受けたと考えられる丁子が目立つ華やかな刃文を焼いた作例があります。

長船近景

倫光

倫光

「倫光」(ともみつ)は、南北朝期の刀匠で、備前長船派の名工「景光」の三男とされるが、「景光」の門人とする伝もあります。大和鍛冶の友光と区別する意味で、通常は「倫」の字を音読みして「リントモミツ」と呼んでいました。
太刀短刀の作刀に携わっており、両刀とも幅広で重ねが薄く、鋒/切先(きっさき)の延びた作例が多いのが特徴です。

地鉄(じがね)は、板目(いため)がつんで杢目(もくめ)がまじり、地中の働き地沸(じにえ)がついて、地景が入り、乱れ映りが立っています。刃文互(ぐ)の目に丁子が入り、湾れ(のたれ)気味が顕著。刃中の働きは小沸がつき、鋒/切先の刃文は、その多くが乱込帽子(みだれこみぼうし)です。
銘は「備州住長船倫光」、「備州長船住倫光」の2種になります。

倫光

兼光

兼光

「兼光」(かねみつ:1328~1360年[嘉暦3年~延文5年]頃に活躍)は、景光(かげみつ)の子。
兼光の初期である鎌倉時代末期は、父・景光に似た匂本位の肩落互の目や「丁子刃」(ちょうじば)でしたが、南北朝時代に入ると作風が変わります。
当時、一世を風靡(ふうび)していた相州正宗の相州伝備前伝に取り入れた「相伝備前」という作風で、地刃ともにの強い覇気ある作品が特徴になりました。

兼光

長義

長義

「長義」は、備前国(現在の岡山県東南部)の「長船派」(おさふねは)に属した刀工です。作刀時期は南北朝時代中期。

備前国ではこの時期、鎌倉時代に相模国(現在の神奈川県)で発展した、「相州伝」(そうしゅうでん)に影響を受けた「相州備前」(そうしゅうびぜん)の鍛法が盛んになっており、その代表格が長義です。「備前にあって、最も備前離れした刀工」と評されていた長義は、相州伝を完成させたことで知られる名工「正宗」(まさむね)に強く影響された10人の刀工、「正宗十哲」(まさむねじってつ)のひとりにも数えられています。

長義による太刀は、幅広で豪壮な作りが多く、短刀は小振りの物が目立ちます。「地鉄」(じがね)は「板目肌が詰む」(いためはだがつむ)作例と、やや肌立つ作例があり、地中の働き(じちゅうのはたらき)は、「地沸」(じにえ)が強く「地景」(ちけい)が現れ、「映り」(うつり)の立たない作例が多く見られるのが特徴。刃文は「湾れ」(のたれ)に「互の目」(ぐのめ)を交え、「刃中の働き」は、よく「」(にえ)付く物が多く、匂勝ち(においがち)となる作例も見られるのです。

については、「備州長船長義」や「備州長船住長義」、「備前国長船住長義」などがあります。長義は一般的に、音読みで「ちょうぎ」と呼ばれることが多いですが、訓読みで「ながよし」と呼ばれることもある刀工です。

長義の刀で最も有名な1振は、「本作長義」(ほんさくちょうぎ)の名称が付けられた打刀。別名「山姥切」(やまんばぎり)とも呼ばれています。相模国・小田原(現在の神奈川県小田原市)を本拠とした「後北条氏」(ごほうじょうし)が所有し、下野国(現在の栃木県)の国人領主「長尾顕長」(ながおあきなが)が、同氏に臣従する際に贈られました。1586年(天正14年)、敵対していた両氏の間で和平交渉がまとまり、長尾顕長が「小田原城」(現在の神奈川県小田原市)を訪れたときに授けられたのです。

本作長義は元々、刃長が約90.9㎝ある長大な日本刀でしたが、後世になってから「」(なかご)を磨上げた(すりあげた)ため、刃長は約74.2cmになっています。これを裏付けるように力強い「大/大切先」(おおきっさき)が施されており、その姿は、見るからに豪壮な雰囲気。刃文には、「大互の目乱」(おおぐのめみだれ)が際立っています。

「豊臣秀吉」による後北条氏討伐戦「小田原征伐」が迫ると、長尾顕長は、名工「堀川国広」(ほりかわくにひろ)に、自身の命運を託す1振を打たせました。その際に参考とさせたのが、すでに「山姥切」の異称を持っていた「本作長義」だったのです。このことから、長尾顕長の命により、堀川国広が手掛けたこの打刀は、「山姥切国広」と呼ばれることになりました。

本作長義には1677年(延宝5年)に、「本阿弥光常」(ほんあみこうじょう)によって「代金子十五枚」の折紙(おりがみ)が付けられ、1681年(延宝9年/天和元年)6月、尾張藩(現在の愛知県名古屋市)2代「徳川光友」(とくがわみつとも)が、152両1分(現在の約15,000,000円相当)で買い上げて以降、「尾張徳川家」に伝来。

現在は、「徳川美術館」(名古屋市東区)が所蔵しています。

長義

成家

成家

「成家」(なりいえ)は、南北朝期に備前国(びぜんのくに:現在の岡山県)で作刀した刀匠です。「伊達政宗」の愛刀「くろんぼ斬り」を鍛造した初代「景秀」(かげひで)の孫とされています。

刃文互(ぐ)の目や丁子乱を多用する他、刃中の働きで、刃文全体が匂主調になる「匂出来」(においでき)が顕著な点が特徴。小反備前の一派でもあります。

先端が反りあがった短刀が作例として多いですが、まれに長刀や小ぶりの太刀を作刀しました。
銘は「備州長船成家」と切られています。

成家

元重

元重

「元重」(もとしげ)は、「貞宗」(さだむね)の弟子とされ、「貞宗三哲」(さだむねさんてつ)のひとりに数えられます。
また、青江鍛冶と関係が深かったとも考えられているのです。
元重は、切れ味にも定評があり、「山田浅右衛門」が刀匠ごとに切れ味を分類した「懐宝剣尺」(かいほうけんじゃく)に、最も切れ味が良いとされる「最上大業物」(さいじょうおおわざもの)のひとりとして挙げられています。

元重

盛光

盛光

「盛光」(もりみつ)は、南北朝期から室町時代初期にかけて、備前国(びぜんのくに:現在の岡山県)で3代にわたって作刀にあたった長舩(おさふね:[長船]とも)派の刀匠。
初代・盛光は、倫光(ともみつ)の子とされていますが作例がないため、実質的には2代目・盛光をもって初代としています。2代目・盛光は、名を「修理亮」(しゅりのすけ)と言い、鍛造した太刀は、太刀姿が尋常なのが特徴です。
地鉄(じがね)は板目に杢目が交じり、応永備前特有の棒映りが立つ。刃文互(ぐ)の目丁子が交わり、互の目の頭が丸くなることに盛光の特色があります。
鋒/切先の刃文となる帽子は、先がわずかに尖って返る特徴があり、康光と並び称される応永備前の名工です。

盛光

祐定

祐定

「祐定」(すけさだ)は、備前国(びぜんのくに:現在の岡山県)で栄えた長舩(おさふね:「長船」とも)派の刀匠です。室町時代初期から同時代末期まで、複数の刀匠が「祐定」を称して、作刀にあたりました。
この数いる祐定の中で、室町時代末期に活動した与三左衛門尉(よそうざえもんのじょう)祐定が、最高の名手とされています。

この名工の打ち出す互(ぐ)の目乱刃は、焼頭(やきがしら)が2つに割れた独特の形状。蟹の爪をイメージさせることから「蟹の爪刃」と俗称されています。
作例には、当時としては珍しい両刃造の名品も多いです。同じ室町末期に作刀した彦兵衛祐定が、この与三左衛門尉に次ぐ名工に挙げられます。

祐定

忠光

忠光

「忠光」(ただみつ)は、備前国(びぜんのくに:現在の岡山県)で栄えた長舩(おさふね:長船とも)派の刀匠です。
南北朝期から室町時代末期まで、複数の刀工が忠光を称して作刀にあたりました。
数いる忠光の中、上手をもって知られるのが、室町時代中期に活動した「彦兵衛忠光」。
得意とする刃文は、直刃(すぐは)と乱刃。このうち直刃は、地鉄(じがね)がよくつんで、地沸(じにえ)が一面について華麗な趣き。乱刃は華やかさこそないが、刃中の働きに足と葉がよく入り、全体として明るい印象です。

この彦兵衛忠光の他に、「彦三郎忠光」、「平右衛門忠光」、「修理亮忠光」、「九郎左衛門忠光」などがいます。

忠光

雲生

雲生

「雲生」(うんしょう)は、鎌倉時代後期から南北朝時代初期にかけて、備前国(びぜんのくに:現在の岡山県)津高郡宇甘(うかい)で作刀した刀匠。
「雲」を冠する刀工は、この「雲生」(うんしょう)の他に、「雲重」(うんじゅう)、「雲次」(うんじ)などがいます。
これら雲派は、細身で姿が京風な山城伝が強く現れている物が多いです。
地鉄(じがね)は指で押したような黒く澄んだ肌が特徴であり、刃文直刃(すぐは)に小乱のまじった物が多く、鋒/切先の刃文となる帽子は、小丸で京風。
銘は「備前国住雲生」、「備前国宇甘郷住人雲生」、「雲生」などに切られています。

雲生

雲重

雲重

「雲重」(うんじゅう)は、南北朝時代に、備前国(びぜんのくに:現在の岡山県)津高郡宇甘(うかい)で作刀した刀匠。「雲次」(うんじ)の子とされています。
雲重の作風は、地鉄(じがね)が板目に小杢目がまじっており、刃文直刃(すぐは)に小足が入り、互(ぐ)の目が交じり、鋒/切先の刃文となる帽子は、小丸に返り京風です。
雲生同様、作風は山城国(やましろのくに:現在の京都府)の来派に似ており、同時代の備前刀工とは一線を画していました。
銘は「備前国住雲重」、「備前国宇甘郷住人雲重」、「雲重」などに切られています。

雲重

畠田真守

畠田真守

「畠田真守」(はたけださねもり)は、鎌倉時代中期に備前国(びぜんのくに:現在の岡山県)で作刀した刀匠であり、名は弥次郎。畠田派を起こした守家の子と伝えられています。
作刀初期の刃文は、大丁子乱(おおちょうじみだれ)に蛙子丁子(かわずこちょうじ)のような派手な作例が多いですが、時代が下がるにつれて、互(ぐ)の目まじりが主体となり、さらに直刃(すぐは)を採用したのです。

刃文が全体的におとなしくなっていく印象ですが、これは全国的に共通した時代的変遷で、長船長光などにも同様の変化がありました。

畠田真守

則房

則房

「則房」(のりふさ)は、鎌倉時代初期から同時代中期に作刀した刀匠です。
初代・則房は高津(現在の岡山県北区吉宗)に生まれ、福岡一文字派の刀工として活動したあと、備中国(現在の岡山県西部)の片山に移ったとされています。ただ、片山移住に関しては、2代目・則房とする説が有力。いずれにしても片山に移った則房は、「片山一文字」と呼ばれています。
身幅が広く、腰反りが高く、鋒/切先が猪首となった豪壮な太刀姿は、鎌倉時代の太刀の様相を現在に伝えています。地鉄(じがね)は板目詰み明るい。地中の働きは地沸(じにえ)がついて、地景が入りますが、映りは目立たない物が多いです。刃文は、丁子刃が逆がかるのが特徴で、刃中の働きは金筋が顕著。
銘は、初代・2代とも「則房」の二字に切っています。

則房

三郎国宗

三郎国宗

「三郎国宗」は、鎌倉時代後期に活躍した刀工です。「古備前派」(こびぜんは)の流れを汲む「福岡一文字派」(ふくおかいちもんじは)に属していた「直宗」(なおむね)の子、あるいは孫とされていますが定かではなく、「備前国真」(びぜんくにざね)の嫡男や次男、三男、もしくは、「備前国貞」(びぜんくにさだ)の弟など、その出自には諸説があります。

三郎国宗による作刀のなかには、「備前国長船住 正和」と銘を切った1振が存在するため、備前国(現在の岡山県東南部)の福岡地域で生まれ育ったあと、同国の長船(おさふね)に移住したと考えるのが通説。なお、「三郎」という通称は、備前国真の三男を意味しているとの説もあります。

三郎国宗は、大量注文を引き受けないという点において、長船の地に住みながらも、他の長船鍛冶とは一線を画していました。個別注文に応じて作刀する生産方式を堅持し、豪壮な作風から、細身の優雅な作風まで幅広い作例を残しています。

技量の高い刀工としてその名を知られていた三郎国宗は、相模国(現在の神奈川県)に下向して鎌倉に移住。「鎌倉鍛冶」の草分け的存在となりました。

相州伝」(そうしゅうでん)の基礎を築いた「新藤五国光」(しんとうごくにみつ)の師になったとも言われており、日本における日本刀史上でも、重要な刀工のひとりです。

鎌倉下向時の三郎国宗は、18歳の青年刀工であり、1238年(嘉禎4年/暦仁元年)に、58歳で故郷の長船に帰国しました。

ところが1261年(文応2年/弘長元年)に、鎌倉幕府5代執権「北条時頼」(ほうじょうときより)の命により、82歳という高齢で再び鎌倉へ下向。そこで再び作刀に当たったとされています。

しかし、青年の頃から作刀を始めた刀工が、82歳になってもなお続けているというのは、1人の刀工による作刀期間としては長すぎます。そのため三郎国宗には、1代限りであったとする説と、2~4代続いたとする説があり、現在も結論は出ていません。

なかでも3代とする説では、初代と2代が父子関係にあり、近い血縁者が同名を用いて、3代目として長船の地で鍛刀を続けたと考えられています。作刀時期の長さとの辻褄が合うこと、そして、この期間に作風の変化が見られることなどから、現在は3代説が有力です。

三郎国宗の太刀は、刀身身幅が広く、元幅と先幅の差が少なく、「鋒/切先」(きっさき)は「猪首鋒/猪首切先」(いくびきっさき)になっています。鎌倉時代独特の力強い太刀姿をしており、「丁子乱」(ちょうじみだれ)に「蛙子丁子乱」(かわずこちょうじみだれ)を交えるなど、焼幅の激しい華麗な刃文が見事です。

三郎国宗の作刀は、時代が下がるほど、こうした華麗さや豪壮さは希薄となりますが、これにより、三郎国宗の特徴とされる「刃染み」(刃中に小さく現れる白染み)が顕著になり、独特の枯れた味わいを醸し出されています。

刀 折返銘 国宗
重要刀剣「刀 折返銘 国宗」(備前三郎国宗)をご覧いただけます。

三郎国宗

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