第88代「後嵯峨天皇」(ごさがてんのう)は、鎌倉幕府3代執権「北条泰時」(ほうじょうやすとき)によって天皇に選ばれた人物です。元々、23歳になるまで元服をしていなかった皇子で、天皇に即位したことは、当時の人々も予想外のことでした。後嵯峨天皇は、次代に皇位を譲ったあとも、院政を敷いて朝廷の政治体制を作り、幕府との緊密な関係を目指して熱心に政務に励んだことで知られています。また、仏教を深く信仰し、管弦や和歌などにも長じた多才な人物でした。しかし、次に続く皇統を曖昧にしたままこの世を去り、はからずも皇統を2つに分裂させる原因を作ってしまった天皇でもあります。
後嵯峨天皇は、1220年(承久2年)に「土御門上皇」(つちみかどじょうこう)の第2皇子として生まれ、「邦仁王」(くにひとおう)と呼ばれました。
1221年(承久3年)の「承久の乱」のあと、父親の土御門上皇が島流しとなったため、邦仁王は母方の大納言「源通方」(みなもとのみちかた)、祖母の「承明門院」(しょうめいもんいん)などに養育されました。
1242年(仁治3年)、12歳だった第87代「四条天皇」(しじょうてんのう)が事故により突然死去すると、次の天皇として、「順徳上皇」(じゅんとくてんのう)の皇子である「忠成王」(ただなりおう)が検討されます。
しかし、鎌倉幕府の3代執権・北条泰時は、大方の貴族の予想を裏切って、邦仁王を次の天皇として擁立。承久の乱で鎌倉幕府討幕を肯定した順徳上皇系の皇子を避け、中立的だった土御門上皇の皇子を選んだのです。
同年1242年(仁治3年)、23歳になってもまだ元服を済ませていなかった邦仁王は、急いで元服し、後嵯峨天皇に即位しました。
後嵯峨天皇は1246年(寛元4年)に、在位4年で息子の第89代「後深草天皇」(ごふかくさてんのう)に譲位し、後嵯峨上皇となりましたが、1259年(正元元年)に後深草天皇を譲位させ、その弟である第90代「亀山天皇」(かめやまてんのう)を即位させます。
後嵯峨上皇は、2人の息子のうち、兄の後深草上皇よりも弟の亀山天皇を好んだためです。そして、さらに次の天皇も後深草上皇の皇子ではなく、亀山天皇の2歳の皇子を即位させ、第91代「後宇多天皇」(ごうだてんのう)としました。
このような背景があり、持明院(京都市上京区)を院御所とした後深草天皇の血統「持明院統」と、大覚寺(京都市右京区)を院御所とした亀山上皇の血統「大覚寺統」とが、互いに対抗意識を持つようになります。
さらに後嵯峨上皇は、自分の嫡流を2人の息子のどちらにするのかを明言せず、鎌倉幕府に一任したまま死去。その結果、天皇の家系は持明院統と大覚寺統の2つに分裂してしまい、皇位と皇室領荘園をめぐる両統の抗争が始まったのです。
両統は、天皇交代のたびに自統から天皇を出そうと鎌倉幕府に工作しました。承久の乱以降、皇位継承に干渉してきた鎌倉幕府は、持明院統と大覚寺統から交互に天皇を即位させる「両統迭立」(りょうとうてつりつ)の協定を提案し、1317年(文保元年)には両統による協議の場を取り持ちましたが、双方の合意は得られません。
第91代・後宇多天皇から第96代「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)に至る6代の間は、両統から交互に天皇が輩出されましたが、対立は続いたままでした。後嵯峨上皇の皇統をめぐる対立から始まった抗争は、やがて朝廷を2つに分ける南北朝時代へと向かっていきます。
四条天皇の死後、多くの人々の予想に反して突然天皇に即位した後嵯峨上皇は、自分が正統な皇位継承者であることの証として、先の天皇達と同様に「勅撰和歌集」(天皇の命により編纂される和歌集)を世に送り出したいと思っていました。
1259年(正嘉3年)、後嵯峨上皇は当時の歌壇で活躍していた歌人「藤原為家」(ふじわらのためいえ)に、11番目の「勅撰和歌集」の撰集を命じました。
藤原為家は、「新古今和歌集」や「小倉百人一首」の撰者として知られる「藤原定家」(ふじわらのていか)の息子です。さらに、4人の撰者が追加され、1265年(文永2年)に「続・古今和歌集」(しょくこきんわかしゅう)が完成しました。
続・古今和歌集の代表的歌人は、後嵯峨上皇を含め、鎌倉将軍「宗尊親王」(むねたかしんのう)、太政大臣「西園寺実氏」(さいおんじさねうじ)、後鳥羽上皇、藤原定家など。
完成した翌年の1266年(文永3年)には竟宴(きょうえん:宮中で行われる勅撰集完成の祝宴)が行われ、後嵯峨上皇は一大事業の成功を喜びました。管弦や和歌などを好み、また深く仏教を信仰していた後嵯峨上皇は続・古今和歌集の完成後に嵯峨の亀山殿(現在の京都市右京区)で出家。1272年(文永9年)にその地で没しています。