日本史/合戦・歴史の基本

朝廷と幕府の戦い
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朝廷と幕府の戦い 朝廷と幕府の戦い
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日本の歴史には、美術や文学など美しいものが伝わるのと同時に、武士による勇ましい戦・合戦の歴史も数え切れないほど存在します。しかし武士が台頭し幕府を樹立させたことで、かつての権威を取り戻そうと朝廷が立ち上がった結果、対立を深めた戦もありました。ご紹介するのは、そんな朝廷と幕府の戦いとなる鎌倉時代初期の①「承久の乱」、鎌倉時代末期の②「元弘の乱」。そして③「建武の乱」、幕末の「戊辰戦争」による④「江戸城無血開城」です。

戦いの名称 起きた年代 できごと
①承久の乱 1221年(承久3年) 後鳥羽上皇が北条義時追討の兵を挙げる。
②元弘の乱 1333年(元弘3年) 後醍醐天皇が鎌倉幕府を滅亡させる。
③建武の乱 1335年(建武2年) 足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻す。
④戊辰戦争による
江戸城無血開城
1868年(慶応4年
/明治元年)
勝海舟と西郷隆盛の会談によって、武力行使せずに江戸城が開城される。

①承久の乱(後鳥羽上皇vs北条義時[鎌倉幕府])

後鳥羽上皇vs北条義時

後鳥羽上皇vs北条義時

1221年(承久3年)に起きた「承久の乱」は、「後鳥羽上皇」(ごとばじょうこう)率いる朝廷軍が、鎌倉幕府執権の「北条義時」(ほうじょうよしとき)に対して討伐の兵を挙げた動乱になります。

源頼朝」(みなもとのよりとも)が開いた鎌倉幕府は、日本初の本格的武家政権でしたが、天皇を中心とした政治の終焉を意味していました。これにより朝廷の影響力は低下。

しかし源頼朝が亡くなり、その息子達が跡を継ぐものの2代将軍「源頼家」(みなもとのよりいえ)と3代将軍「源実朝」(みなもとのさねとも)は、共に暗殺されてしまいます。

鎌倉幕府打倒を目指す後鳥羽上皇

鎌倉幕府の将軍が続けざまに亡くなる状況の中、後鳥羽上皇は、将軍の補佐役で事実上の権力者である執権・北条義時追討の「院宣」(いんぜん:上皇の意思を示す文書)を、全国各地の武士に対して発しました。つまり、鎌倉幕府打倒を目論んだのです。

鎌倉幕府を倒そうとした理由はいくつかあり、朝廷にとって最も大きな損害だったのが、全国にあった「荘園」(皇室・貴族が所有する領地)からの租税収入の激減でした。荘園は皇室や貴族にとって重要な経済基盤でしたが、源頼朝は荘園に配下の武士を「地頭」(じとう:管理者)として配置することで皇室・貴族などへの寄進(金銭や財物を寄付すること)を封じていました。

政治的権力だけではなく経済的基盤も失っていた折、源実朝が亡くなったことを好機とみて、後鳥羽上皇は鎌倉幕府への挙兵を決意したのです。

北条政子の演説で一致団結

北条政子

北条政子

後鳥羽上皇が発した北条義時追討の院宣によって、御家人(ごけにん:鎌倉幕府に従う武士)が多い東国には動揺が走ります。後鳥羽上皇と対峙することは、すなわち朝敵となることでした。

そこで、うろたえる御家人に対して「頼朝様の御恩に今こそ報いるべきだ」 と訴えかけたのが、源頼朝の正室「北条政子」(ほうじょうまさこ)でした。北条政子の演説によって御家人達は結束を強めます。

士気を上げたものの、鎌倉出発時の幕府軍は18騎ほど。それが後鳥羽上皇のいる京都へ前進する道中で190,000にまで膨れ上がり、対する朝廷軍はたった19,000。圧倒的な兵力差の前に朝廷軍は敗れ、後鳥羽上皇は現在の島根県にある隠岐島へと配流されることとなります。

また、承久の乱以降、幕府は武士間の諍いを取り締まるための京都守護の機能を強化。京都守護は、のちに朝廷の要請により寺社間の紛争解決や、悪党(あくとう:朝廷や幕府に従わなかった人々の総称)の鎮圧なども行うなど、独断で兵を動かす権限を与えられるようになります。鎌倉時代当時は単に六波羅と呼ばれていましたが、のちに六波羅探題と通称されるようになる鎌倉幕府の出先機関です。

②元弘の乱(後醍醐天皇vs鎌倉幕府)

後醍醐天皇vs鎌倉幕府

後醍醐天皇vs鎌倉幕府

源頼朝が開き約150年続いた鎌倉幕府は、14代執権「北条高時」(ほうじょうたかとき)の代で大きな社会的昏迷に陥っていました。

「文永の乱」と「弘安の乱」の2度に亘る「元冦」の恩賞も十分でなく、生活困窮者を救済しようと「徳政令」(とくせいれい:債権放棄させること)を発行したものの効果はなかったのです。さらに悪党によって民衆の年貢が奪われる事件が横行し、幕府や御家人の権威は低下。

1333年(元弘3年)、ついに鎌倉幕府は「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)率いる朝廷軍によって滅ぼされます。

権威回復を目指す後醍醐天皇

後醍醐天皇は、幼帝が続いたなか30歳という遅さで1318年(文保2年)に即位。政治に対して意欲的な天皇でしたが、当時は朝廷の皇位相続へも幕府の干渉がありました。

また、当時の天皇家は「持明院統」(じみょういんとう)と「大覚寺統」(だいかくじとう)の2つの派閥に分かれ、その派閥から交互に天皇の即位させる「両統迭立」(りょうとうてつりつ)の時代だったのです。そこで後醍醐天皇は、自らの系統である大覚寺統だけが皇位を継ぐようになることと、天皇の権威回復を目指し鎌倉幕府を倒すことを決意します。

失敗に終わる2度の倒幕計画

楠木正成

楠木正成

1321年(元亨元年)、後醍醐天皇は「無礼講」と称する宴会を開き、その裏で参加者らと倒幕の密談を行いました。綿密に計画していたものの、倒幕に賛同していた武士の妻が六波羅探題に密告。後醍醐天皇に対して鎌倉幕府からのお咎めはありませんでしたが、その側近らは処刑されてしまいます。のちに「正中の変」と呼ばれる倒幕計画は失敗に終わりました。

その後、後醍醐天皇は1331年(元弘元年)に再び倒幕を計画。しかし2度目の計画も幕府に露見してしまい、さすがに2度目となると幕府の処分も厳しいものになると考えた後醍醐天皇は御所を脱出しました。

幕府の追撃を出し抜いて、後醍醐天皇は「笠置寺」(かさぎでら:京都府相楽郡)に入ると挙兵を宣言。挙兵に呼応して各地から武士が集まり、河内国(現在の大阪府)の「楠木正成」(くすのきまさしげ)も後醍醐天皇の呼びかけにより蜂起しました。

笠置寺で籠城を続けた後醍醐天皇でしたが、関東から次々と援軍がやってくる幕府軍の前に敗北。その後、後醍醐天皇は「隠岐島」(おきのしま)に流刑となります。

鎌倉幕府の滅亡

1333年(元弘3年)2月、後醍醐天皇は密かに隠岐島を脱出。前年1332年(元弘2年/元徳4年) から続く「千早城の戦い」で幕府軍と楠木正成が戦っている隙を突いてのことでした。

後醍醐天皇は、綸旨(りんじ:天皇が発する命令書)を発して諸国の武士を召集。「新田義貞」(にったよしさだ)が上野国(現在の群馬県)で兵を挙げ、さらに幕府側の有力御家人だった「足利尊氏」(あしかがたかうじ)も後醍醐天皇側に寝返ります。

集まった数万にも及ぶ後醍醐天皇の大軍は、鎌倉を目指して進軍しました。「久米川の戦い」、「分倍河原の戦い」を経て鎌倉へ突入。こうして約150年にわたって栄えた鎌倉幕府は14代執権・北条高時の代で滅亡を迎え、天下は後醍醐天皇のものとなりました。

③建武の乱(後醍醐天皇vs足利尊氏[室町幕府])

後醍醐天皇vs足利尊氏(室町幕府)

後醍醐天皇vs足利尊氏(室町幕府)

「建武の乱」とは、後醍醐天皇を中心とする建武政権と、足利尊氏を支持する武士達との間で起こった動乱です。

鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇は、政治改革「建武の新政」に着手します。しかし、最大の功労者である武士よりも公家を優遇した政策だったため、武士の多くは不満を募らせていきました。

建武の乱が起きた背景

1335年(建武2年)、鎌倉幕府最後の執権・北条高時の子「北条時行」(ほうじょうときゆき)は、建武政権の関東統治機関である「鎌倉将軍府」を襲撃する「中先代の乱」(なかせんだいのらん)を起こします。このとき、鎌倉将軍府を守っていたのは足利尊氏の弟「足利直義」(あしかがただよし)でした。足利直義は京都にいた足利尊氏に救援を求めます。

足利尊氏は弟を助けるため乱鎮圧を志願しますが、後醍醐天皇は人望の厚い足利尊氏を活躍させたくなくて出撃を許可しませんでした。そのため足利尊氏は、後醍醐天皇の許可を得ずに鎌倉に向かいます。鎌倉に向かう道中、各地の武士が次々と加わり勢いに乗った足利尊氏軍は、北条時行軍を打ち破り中先代の乱を鎮圧しました。

反乱を鎮めた足利尊氏は、後醍醐天皇から帰還命令があったにもかかわらず、鎌倉に残留。その上、武功のあった将への論功行賞や戦後処理などを勝手に行ってしまいました。後醍醐天皇は、足利尊氏の勝手な振る舞いに怒り、謀反を起こしたと断定して、新田義貞に討伐を指示します。

建武の乱のはじまり

足利尊氏・新田義貞

足利尊氏・新田義貞

実のところ足利尊氏は、後醍醐天皇を裏切るつもりはありませんでした。無実を示そうと、足利尊氏は出家し「浄光明寺」(神奈川県鎌倉市)に籠もります。けれど後醍醐天皇の疑いを晴らすことはできず、全面対決に突入してしまいました。

当初、後醍醐天皇と戦ったのは弟・足利直義でしたが、朝敵となったことで士気の上がらない足利軍は、三河国(現在の愛知県東部)や遠江国(現在の静岡県西部)で次々と敗退。朝廷軍が鎌倉まであと少しというところで、ようやく足利尊氏は朝廷軍を任された新田義貞と戦うことを決意します。

1335年(建武2年)12月、足利尊氏は箱根方面となる足柄峠のふもと、竹之下(静岡県駿東郡小山町竹之下)に布陣。大将である足利尊氏が出陣したことで士気を上げた足利軍は、新田義貞軍に向かっていき、ついに「箱根・竹ノ下の戦い」で新田義貞軍を敗走に追い込みます。

朝廷軍は鎌倉の目と鼻の先である箱根周辺まで迫っており、もしこれ以上進軍されていたら足利軍は敗戦していました。つまり、箱根・竹ノ下の戦いにおける足利軍の勝利は、足利尊氏にとって起死回生の勝利だったのです。

建武の乱は、足利尊氏が室町幕府を開く1336年(建武3年/延元元年)に一旦終息しますが、それまでは足利軍と後醍醐天皇率いる朝廷軍との激しい戦いが待ち受けることとなります。

④江戸城無血開城(新政府軍[朝廷]vs江戸幕府)

新政府軍(朝廷)vs江戸幕府

新政府軍(朝廷)vs江戸幕府

江戸城無血開城とは、新政府軍と旧幕府軍の会談によって、武力行使を伴わずに「江戸城」の引渡しに成功した交渉過程を指します。

新政府軍からは「西郷隆盛」(さいごうたかもり)と薩摩藩士「村田新八」と「桐野利秋」など、そして旧幕府軍から陸軍総裁「勝海舟」(かつかいしゅう)と「大久保一翁」(おおくぼいちおう)が会談に参加。1868年(慶応4年/明治元年)3月13日と14日の2日間にかけて、現在の東京都港区にあった薩摩藩藩邸で行われました。

戊辰戦争が起こる

大政奉還

大政奉還

前年の1867年(慶応3年)10月に、15代将軍「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)は「大政奉還」によって政権を朝廷へ返上。これがもととなって勃発したのが「王政復古」のクーデターです。

薩摩藩や長州藩を中心とする勢力は、徳川家を排除し天皇中心の政治を行うため新政府を樹立しました。

1868年(慶応4年/明治元年)1月に、新政府軍と旧幕府軍が衝突する「戊辰戦争」が、京都の「鳥羽・伏見の戦い」を皮切りに始まります。京都から大阪へと転戦するなか、徳川慶喜が江戸へ向かったことで新政府軍も軍勢を江戸に進めました。 徳川慶喜は新政府に対して恭順の意を示す一方で、旧幕府方では徹底抗戦を唱える者がいるなど意見が割れていたと言います。

しかし江戸を戦場にしたくなかった勝海舟は、交流のあった新政府軍の重要人物、西郷隆盛に交渉を持ちかけようと考えました。江戸城総攻撃の予定は、1868年(慶応4年/明治元年)3月15日。その6日前となる3月9日に、静岡の大総督府にいる西郷隆盛のもとへ交渉に向けての使者を送りました。

勝海舟と西郷隆盛による交渉

3月13日、交渉に応じた西郷隆盛は、江戸の薩摩藩邸に勝海舟を招き会談を開始します。西郷隆盛は江戸城総攻撃の回避条件として、「徳川慶喜は故郷である水戸へ移り謹慎」、その他「江戸城を明け渡すこと」、「軍艦・武器をすべて引き渡すこと」といった「徳川処分案7ヵ条」を提示しました。西郷隆盛と勝海舟、双方が交渉の内容に同意。西郷隆盛は、翌日に控えていた江戸城総攻撃を中止したことで江戸城無血開城は実現したのです。

江戸城とその城下が焼け野原になる事態は避けることができましたが、戊辰戦争は旧幕府軍の主戦派によって「上野戦争」、東北の諸藩らによる「長岡城の戦い」、「会津戦争」と1年以上続くことになります。1869年(明治2年)の「箱館戦争」(五稜郭の戦い)にて終結。これにより、日本はようやく新政府によって統一され、新しい時代が始まることになるのです。

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