「竹崎季長」(たけざきすえなが)は、鎌倉時代中期の武士です。2度にわたる元寇襲来の際に戦った御家人のひとりであり、日本にとって不利な戦況の中でも大きな功績を挙げました。この元寇で、自分が戦う様子を描かせた絵巻物が「蒙古襲来絵詞」(もうこしゅうらいえことば)。そんな竹崎季長の生涯や関係する絵巻物、墓についてご紹介します。
竹崎季長が誕生したのは、1246年(寛元4年)のこと。肥後国竹崎郷(現在の熊本県宇城市松橋町)出身で、肥後国を本拠地とする菊池氏の一族でした。しかし、同族の領土争いに敗れて家は没落します。
土地を失い生活が苦しい状況でしたが、没落した生活を挽回するチャンスが到来。それが「文永の役」(ぶんえいのえき)、つまり元寇です。モンゴル帝国が日本に侵攻してきたため、鎌倉幕府は対抗すべく武士を動員。恩賞を手に入れようと考えた竹崎季長は、文永の役に参戦します。
竹崎季長が戦った場所は、博多湾の息浜(おきのはま)という海岸線。日本軍の総大将は「少弐景資」(しょうにかげすけ)でした。竹崎季長とともに参戦したのは、竹崎季長の姉婿「三井資長」(みついすけなが)や旗指(はたさし:戦場で、主人の旗を持って供奉[ぐぶ]する武士のこと)の「三郎二郎資安」(さぶろうじろうすけやす)、郎従(ろうじゅう:主家の一族や従者)の「藤源太すけみつ」(とうげんたすけみつ)、中間(武士の最下級)一騎。竹崎季長はたった5騎で参戦したのです。
この戦では、元軍が赤坂(現在の福岡市中央区)から博多に押し寄せてきた場合、一気に攻撃するという計画。しかし、竹崎季長は少弐景資の許可を取り、先駆けて元軍に攻撃を仕掛けます。
一方、赤坂ではすでに日本軍が勝利を収めており、元軍の多くが敗走。竹崎季長を含む5騎はその元軍を追いかけ、もっと先まで進軍していた元軍へ先駆けを仕掛けます。さらに肥後国の御家人「白石通泰」(しらいしみちやす)らが到着して応戦。戦闘不能と判断した元軍は博多湾から撤退し、日本軍の勝利が確定したのです。
文永の役で先駆けを成功させた竹崎季長でしたが、手柄は認められず恩賞もありませんでした。なお、これには少弐景資が竹崎季長の功績を報告し忘れたという説があります。
不満に思った竹崎季長は鎌倉に出向き、幕府の重鎮である「安達泰盛」(あだちやすもり)へと直訴。恩賞が認められた竹崎季長は、肥後国海東郷(現在の熊本県宇城市海東地区)の地頭に就任します。1281年(弘安4年)、竹崎季長は2度目の蒙古襲来である「弘安の役」(こうあんのえき)においても活躍して、多大な恩賞を受けました。
1293年(永仁元年)には、元寇で活躍した自身の姿などを絵巻物の蒙古襲来絵詞に描かせて、甲佐神社(熊本県上益城郡甲佐町)に奉納。竹崎季長は同年に出家しますが、どのような最期だったのかは謎のままです。
2度も襲来してきた元寇の様子が具体的に分かる書物が、蒙古襲来絵詞。前後2巻で構成された書物を合わせた長さは40mにもわたるほどです。
この絵巻物には、2度の元寇襲来における竹崎季長の出兵から帰還までの様子が、絵と説明文で描写されています。1度目の襲来では竹崎季長が赤坂に向かい、元軍と奮戦する様子。2度目の襲来では竹崎季長が舟に乗り込み、元軍を倒す様子などが克明に記されています。
竹崎季長の死因は不明ですが、1894年(明治27年)に竹崎季長の墓が見つかっています。墓のある場所は、熊本県宇城市小川町北海東の平原。墓の周辺は平原公園として整備されており、1916年(大正5年)に記念碑が建てられました。
1951年(昭和26年)に、同じ宇城市小川町に竹崎季長を主祭神とする竹崎神社が創建されましたが、1965年(昭和40年)の台風で崩壊。鳥居や祠のみが現存しています。
元寇という日本のピンチを利用して、出世を成し遂げた竹崎季長。チャレンジ精神や高いバイタリティを持つ人物だったことが窺い知れます。また、蒙古襲来絵詞を描かせた理由には「恩義を受けた人を弔うため」という説が存在。このことからも、真面目で義理人情に厚い一面を持ち合わせていたと推測されています。
【国立国会図書館ウェブサイトより】
- 「蒙古襲来絵詞」の一部