「徳川四天王」(とくがわしてんのう)とは、「徳川家康」が若い弱小大名だった頃から仕え、天下取りを支えた腹心の家臣、4名のことです。この4名は、戦で武功を立て、また対外交渉や政策ブレーンとしても活躍し、徳川家康に貢献しました。徳川四天王の家系図をひもとき、4名のルーツや、その子らの活躍を紹介します。
また、酒井忠次の妻「碓井姫」(うすいひめ:於久/登与[おく、おひさ/とよ]とも呼ばれる)は、徳川家康の母「於大の方」(おだいのかた)の異父妹でしたから、徳川家康の叔母にあたります。
このように、酒井忠次は、早くに父親を亡くした徳川家康にとって、戦場経験の豊かな年長の家臣であり、義理の叔父でもある、頼りになる人物だったのです。
なお、酒井忠次には男子が4人おり、長男「酒井家次」(さかいいえつぐ)は家督を継ぎ、徳川家康から上野国高崎藩(こうずけのくにたかさきはん:現在の群馬県高崎市)を与えられ、その後、越後国高田藩(えちごのくにたかだはん:現在の新潟県上越市)に移り、100,000石の藩主になりました。
その他の子らは、名門武家に後継者として迎えられており、次男「本多康俊」(ほんだやすとし)は、徳川家臣団のひとり「本多忠次」(ほんだただつぐ)の養子になっています。また、三男「小笠原信之」(おがさわらのぶゆき)は、武田家の旧臣から徳川家康の配下になった「小笠原信嶺」(おがさわらのぶみね)の養子に、四男「松平久恒」(まつだいらひさつね)は、徳川家康のルーツ・松平一門のひとり「松平親俊」(まつだいらちかとし)の養子になりました。
「本多忠勝」(ほんだただかつ)は、あまたの武勇伝を誇り、戦功で徳川家康に貢献した徳川家臣最強の武者です。
本多家は代々、徳川家康の生家・松平家に仕えてきた家で、本多忠勝の祖父「本多忠豊」(ほんだただとよ)は、徳川家康の父・松平広忠が戦場で追い詰められた際に、その馬印/馬標(うまじるし:大将の所在を示す旗やのぼり)を奪い取って身代わりになり、討ち死にしました。
また、本多忠勝の父「本多忠高」(ほんだただたか)も戦死したため、本多忠勝は叔父の「本多忠真」(ほんだただざね)に育てられたのです。この叔父に武芸や学問、主君への忠節を教えられ、本多忠勝は強く忠実な徳川家康の家臣に成長しました。
その厚い忠誠心から、本多忠勝は「三河一向一揆」が起きた際に、一向宗(浄土真宗)から浄土宗に改宗してまで一揆の鎮圧に参戦しています。
また、姉川の戦いでの徳川軍は敗色濃厚でしたが、本多忠勝は単騎で敵陣に突入し、これに鼓舞された徳川軍が猛攻し、逆転勝利に導きました。
こうした本多忠勝の武勇は敵味方なく称賛され、小牧・長久手の戦いで徳川軍と対峙した「豊臣秀吉」は、「本多忠勝は討つな」と家臣に命じたほどです。
そして、徳川家康の天下取りを決定付けた「関ヶ原の戦い」が起きたとき、本多忠勝は53歳でしたが奮戦し、敵兵の首を90も獲ったと言われています。
その武功に対して、徳川家康から伊勢国桑名(現在の三重県桑名市)100,000石を与えられると、本多忠勝は壮大な「桑名城」を築城し、城下町の整備を行い、今も地元では「桑名藩創設の名君」と敬愛されているのです。
本多忠勝には娘が5人おり、長女「小松姫」(こまつひめ)は、徳川家康の養女になった上で、信濃国上田(しなののくにうえだ:現在の長野県上田市)の武将で「真田信之/信幸」(さなだのぶゆき)に嫁ぎました。
この結婚は、当時の真田家と徳川家康が反目していたため、両家と良好な関係を維持したい豊臣秀吉が取り持ったとも言われています。そうした背景があったとはいえ、小松姫と真田信之の夫婦仲は良く、2男2女が生まれました。
しかし、豊臣秀吉が亡くなると、再び真田家と徳川家の対立は深まります。その後の関ヶ原の戦いでは、真田信之は妻・小松姫の養父・徳川家康に付き、真田信之の父「真田昌幸」(さなだまさゆき)と弟「真田幸村」(さなだゆきむら)は豊臣派の「石田三成」(いしだみつなり)に付いたのです。
これは、一家が分裂した悲劇にも見えますが、どちらが勝っても真田家が滅びないようにリスクを分散したという説もあります。その結果、関ヶ原の戦いで敗けた真田昌幸は蟄居を科せられたまま亡くなり、真田幸村は、のちの大坂夏の陣で、再び豊臣方に付いて奮戦したものの討ち死にしました。
一方、徳川方に与した真田信之は、父が治めていた信濃国上田を受け継いでおり、小松姫がつないだ徳川家康との縁が、真田家を存続させたのです。
「榊原康政」(さかきばらやすまさ)は、先述の酒井忠次や本多忠勝のように、徳川家康の先祖の代から仕えてきた家の出身ではありません。榊原康政の祖父「榊原清長」(さかきばらきよなが)が伊勢国(現在の三重県北中部)から三河国(現在の愛知県東部)に移り住み、徳川家康の父・松平広忠に仕え始めた、家臣団のなかでは新参の家柄です。
また、祖父・榊原清長と父「榊原長政」(さかきばらながまさ)は、これといった功績が伝わっていないことから、榊原康政は有力な後ろ盾を持たず、自身の才覚で徳川四天王にまで出世したと考えられています。
榊原康政は13歳のとき、徳川家康の目に留まり、小姓に取り立てられました。小姓とは、武将の側近くに仕えた秘書兼ボディガードのような職分で、文武にすぐれた若い者が登用されます。
この職に榊原康政が抜擢されたのは、幼少時から学問好きで、字も上手かったのを見込まれたからでした。これを振り出しに榊原康政は、軍務と政務の両面で徳川家康を支える側近になっていきます。
軍務では、姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦いなどの主要な合戦で何度も死線をかいくぐって徳川家康を守りました。また政務では、徳川家臣の内紛の調停や、徳川家康と緊張関係にあった豊臣秀吉への使者を任され、交渉能力を発揮したのです。
榊原康政には3男2女がおり、長男「大須賀忠政」(おおすがただまさ)は、外祖父で徳川家の重臣だった「大須賀康高」(おおすがやすたか)の養子になりました。
その後、次男「榊原忠長」(さかきばらただなが)が早世したため、三男「榊原康勝」(さかきばらやすかつ)が家督を継ぎ、「加藤清正」(かとうきよまさ)の長女を正室に迎えましたが、26歳の若さで亡くなります。
このとき徳川家康は、大須賀忠政の子「大須賀忠次」(おおすがただつぐ)が榊原家を継ぐようにはからい、功臣・榊原康政の血筋を守りました。
また、榊原康政の長女は、徳川家臣のなかでも古参で名門の「酒井忠世」(さかいただよ)に嫁ぎ、次女は、江戸幕府第2代将軍「徳川秀忠」の養女になったのち、姫路藩420,000石の藩主「池田利隆」(いけだとしたか)に嫁いでいます。
どちらの嫁ぎ先も名家であり、この婚姻関係から、新興だった榊原家の家格が、榊原康政の働きで一気に高まったことが分かるのです。
「井伊直政」(いいなおまさ)は、徳川四天王のなかで唯一、三河国の出身ではなく、徳川家康の生家・松平家に仕えてきた家柄でもありません。井伊家は、遠江国(とおとうみのくに:現在の静岡県西部)で、この地の有力大名・今川家に仕える家でした。
しかし、井伊直政の父「井伊直親」(いいなおちか)が謀反を疑われ、今川家の当主「今川氏真」(いまがわうじざね)に殺害されます。このとき、2歳だった井伊直政は、親戚筋の「井伊直虎」(いいなおとら)にかくまわれて養育されました。
なお、井伊直虎と井伊直政は、どちらも曽祖父が「井伊直平」(いいなおひら)という関係です。この井伊直平の娘が生んだ子「瀬名姫」(せなひめ:結婚後の呼び名は築山殿[つきやまどの])は、徳川家康の正室になっており、井伊家は徳川家康と縁続きでもありました。
井伊直政は謀反人の子として命を狙われたこともありましたが、母親が徳川家臣と再婚した縁で、徳川家康に見出されて小姓に取り立てられます。 その後の井伊直政は、初陣で徳川家康を襲った刺客を撃退し、また、武田勝頼に奪われていた高天神城(たかてんじんじょう:現在の静岡県掛川市にあったとされる城)を奪還するなど、華々しい活躍を見せ、昇進していきました。
のちに徳川家康は、武田勝頼を攻め滅ぼすと、赤色の武装で「武田の赤備え」と恐れられた武田家の精鋭部隊を井伊直政の配下にします。これ以降、赤備え部隊は「井伊の赤備え」と呼ばれ、その先陣を切って激闘する井伊直政は「井伊の赤鬼」の名を轟かせました。
井伊直政が、年若い2男を遺して他界すると、正室の子で長男の「井伊直勝」(いいなおかつ)が家督を継ぎましたが、13歳の井伊直勝には、家臣を統率する力がなく、家中で派閥争いが起きます。
一方、次男「井伊直孝」(いいなおたか)は側室の子だったこともあり、後継者と目されておらず、徳川家康の子・徳川秀忠の近習(きんじゅ:側に仕える者)を務めていました。
この時期に徳川家康は、井伊直孝が有能であるのを知り、兄・井伊直勝に代わって、井伊家の家督を継ぐように命じたのです。この徳川家康の見込みは当たり、その後の井伊家は、江戸幕府の最高職・大老を6度も輩出して、幕末まで徳川政権を支えました。