「戦国の三英傑」と称される①「織田信長」・②「豊臣秀吉」・③「徳川家康」の3人のうち、最も複雑な関係にあったと言えるのが豊臣秀吉と徳川家康の2人です。共に織田信長の家臣であった同僚時代から、徳川家康が江戸幕府を開いて天下人となるまでに、両者がそれぞれの立場と関係性をどのように変化させていったのか、詳しく解説します。
豊臣秀吉と徳川家康は、両者とも織田信長に仕えていましたが、それぞれの立場は少し異なっていました。
豊臣秀吉は「小者」(こもの:住み込みで主に雑用を行う武家奉公人)から重臣に成り上がった、織田信長の正式な家臣でしたが、徳川家康は当初、織田信長とは「清洲同盟/清須同盟」(きよすどうめい)と称される軍事同盟を結び、1582年(天正10年)の「本能寺の変」で織田信長が横死するまで、名目上は対等な関係を継続。
しかし、「長篠の戦い」が勃発した1575年(天正3年)前後には、織田信長に臣従する立場にあったと伝えられているのです。
その根拠となっているのは、織田信長の一代記「信長公記」(しんちょうこうき/のぶながこうき)に見られる同合戦の記述。同書において徳川家康は、長篠の戦いの際に織田信長より、「国衆」(くにしゅう)として先陣を命じられたとしています。
つまり同合戦の時点で徳川家康は、織田信長が統治した一国内における在地領主のひとりとして認識されるようになっており、織田信長の配下にあったことが窺えるのです。
このように立場は違いますが、織田信長に仕えていた豊臣秀吉と徳川家康は、現代の会社などで言う「同僚」のような関係にありました。
しかし、両者の出会いについて、その詳細は分かっていないのが現状です。
ただ、1570年(元亀元年)に織田・徳川連合軍と、越前国(現在の福井県北東部)の「朝倉義景」(あさくらよしかげ)が対峙した「金ヶ崎の戦い」(別称「金ヶ崎の退き口」[かねがさきののきくち])で、豊臣秀吉(当時の名前は「木下藤吉郎」[きのしたとうきちろう])と徳川家康が同じ戦場にいた史実は伝えられています。
2人は同合戦において、織田信長を無事に撤退させるために、織田・徳川連合軍の後衛を務めていました。少なくとも豊臣秀吉と徳川家康は金ヶ崎の戦いまでには出会い、同じ合戦を経験していたと考えられているのです。
同僚であった豊臣秀吉と徳川家康の関係が変化する契機となったのは、織田信長が自身の重臣、「明智光秀」に急襲されて自刃した本能寺の変でした。
同事件が勃発したことで豊臣秀吉と徳川家康は、あと一歩のところで織田信長が逃した天下人の座を巡って争うことになりましたが、これに先手を打ったのが豊臣秀吉。
いわゆる「中国攻め」の最中に本能寺の変のことを知ると、すぐさま京に向かって引き返し(中国大返し)、織田信長に謀反を起こした明智光秀を討つことに成功します(山崎の戦い)。
さらにこの勢いで豊臣秀吉は、1583年(天正11年)4月の「賤ヶ岳の戦い」(しずがたけのたたかい)において、織田信長の家老「柴田勝家」(しばたかついえ)を自害に追い込みました。
柴田勝家は、織田信長の三男「織田信孝」(おだのぶたか/おだのぶなり:別称「神戸信孝」[かんべのぶたか])を擁立していましたが、織田信孝もまた、豊臣秀吉と連携していた兄「織田信雄」(おだのぶかつ/おだのぶお)に攻め込まれ、最終的には切腹させられたのです。
豊臣秀吉と徳川家康による織田信長の後継者争いは、この時点で豊臣秀吉がリードしているかに見えました。
しかし、豊臣秀吉との関係が次第に悪化してきた織田信雄が、織田信長の同盟者であった徳川家康に接近。徳川家康と相談した上で1584年(天正12年)3月6日に、「織田氏」の重臣3名を豊臣秀吉に内通していた疑いで殺害します。
そして、これが織田信雄・徳川家康陣営から豊臣秀吉への事実上の宣戦布告となり、同年3月13日より「小牧・長久手の戦い」(こまき・ながくてのたたかい)が勃発。豊臣秀吉と徳川家康によるたった1度の直接対決が始まったのです。
同合戦では、豊臣秀吉軍の兵力が約100,000人(80,000人の説あり)であったのに対し、織田信雄・徳川家康連合軍は約30,000人(16,000~17,000人の説あり)とかなりの差がありました。
しかし、徳川方が奮戦したことによって豊臣方は、単純な戦闘では織田・徳川連合軍を打ち負かせず、実際に豊臣方の「池田恒興」(いけだつねおき)や「森長可」(もりながよし)といった猛将が戦死するなど、手痛い敗北を喫します。その結果、豊臣秀吉は一連の戦いの途中であった1584年(天正12年)11月12日、織田信雄に講和を持ち掛けたのです。
織田信雄は、豊臣秀吉への伊勢(現在の三重県北中部)半国と伊賀国(現在の三重県伊賀地方)の割譲を条件としたこの講和を、最終的には受諾。徳川家康も自身の次男「於義丸」(おぎまる:のちの結城秀康[ゆうきひでやす])を養子の名目で、豊臣秀吉に人質として出しています。
しかし、豊臣秀吉と織田信雄が和睦を結んだことによって、徳川家康が豊臣秀吉を討つ理由が失われたため、徳川家康は三河(現在の愛知県東部)へ帰国。小牧・長久手の戦いは、休戦となったのです。
豊臣秀吉と徳川家康はこの小牧・長久手の戦いを通じて、お互いに軽く侮れない力量があることを痛感。
加えて当時、九州の「島津氏」(しまづし)や四国の「長宗我部氏」(ちょうそうかべし)、東国の「北条氏」(ほうじょうし:別称「後北条氏」[ごほうじょうし])、奥州(おうしゅう:現在の東北地方北西部)の「伊達氏」(だてし)など敵対勢力が多数いた豊臣秀吉は、総力を挙げて徳川家康を討ったとしても相当な損失を被ることになり、どちらかが潰れるまで戦いを続けることは得策ではないと考えます。
徳川家康と戦って体力を消耗している隙を突かれ、敵対勢力に「漁夫の利」(ぎょふのり:両者が争っていることに付け込み、第三者が利益を横取りすることの例え)を得られてしまう可能性が捨てきれないからです。
そのため豊臣秀吉と徳川家康は、「これ以上は下手に戦わないほうがお互いのためになる」と判断。講和を結ぶ結論に至ったのです。
小牧・長久手の戦いを通じて徳川家康の実力を認めるようになった豊臣秀吉でしたが、それでも何とか徳川家康を臣従させようと、様々な懐柔策を講じます。
それらのうちで最初に豊臣秀吉が考えたのが、朝廷と交渉して「官位」を得ること。その中でも豊臣秀吉は、成人の天皇を補佐する「関白」(かんぱく)を選択し、1585年(天正13年)に武士として初めて同職に就任します。
当時はすでに武家政権が確立されていたため、官位に実質的な意味はなくなっていました。しかし、それでもまだ官位には、朝廷=天皇に認められたことを示す権威があったことから、武士の序列を明確化する目的で用いられていたのです。
こうして豊臣秀吉は関白の座を活用し、徳川家康より従属を勝ち取ろうとしましたが、徳川家康がそれに応じる気配は一向に見られませんでした。
そこで次に豊臣秀吉は、実妹の「朝日姫/旭姫」(あさひひめ)を徳川家康のもとへ、継室として輿入れ(こしいれ)させることにします。
この「政略結婚」は1586年(天正14年)5月に行われ、豊臣秀吉と徳川家康は義兄弟となったのです。
加えて同年10月18日に豊臣秀吉は、朝日姫を見舞う名目で、実母である「なか」(漢字表記は「仲」、別称「大政所」[おおまんどころ])を岡崎へ人質として送っています。
これを受けて、とうとう徳川家康は重い腰を上げ、10月24日に浜松を出立。上洛して10月27日に「大坂城/大阪城」(大阪市中央区)へ赴き、諸大名の前で豊臣秀吉へ臣従の意を表したのです。
実はこの会見の前日に、豊臣秀吉が徳川家康の宿泊先である「豊臣秀長」(とよとみひでなが:豊臣秀吉の異父弟)邸を密かに訪ね、改めて臣従を求めていたことが、徳川家康の家臣「松平家忠」(まつだいらいえただ)による「家忠日記」などに記されています。
さらに「武徳編年集成」(ぶとくへんねんしゅうせい)によれば、同じく徳川家康のもとを訪れた際に豊臣秀吉は、「明日の会見ではあなたを家臣として扱うが、これは太平の世を作るために必要なこと。自分に対して丁重に挨拶をしてほしい」と徳川家康の手を取り、依頼したことが伝えられているのです。
前述した通り、豊臣秀吉と徳川家康は織田信長に仕える同僚ではありましたが、豊臣秀吉は織田信長の家臣、徳川家康は織田信長の盟友という異なる立場であったのも事実。世間から見れば2人の間には、やはり「格差」がありました。
そのため豊臣秀吉は、会見で徳川家康が自分を敬う姿勢を見せれば、諸大名が自分へ主君の礼を尽くすことに繋がると考えたのです。
「徳川実紀」(とくがわじっき)によると翌日の会見で徳川家康は、依頼通り丁重に挨拶をしつつ、豊臣秀吉が着ていた陣羽織を所望。
「今後は秀吉様に、陣羽織を着て戦場へ出陣いただくようなご苦労はお掛けしません。私が合戦の指揮を執ります」と言い添えて忠誠を誓い、諸大名に豊臣秀吉を天下人として認めさせるための「茶番劇」を演じたとされているのです。
ここまでご紹介した会見にまつわる逸話自体は後世になって創作されたものと考えられています。
しかしその内容からは、豊臣秀吉と徳川家康が主君と家臣の立場になるまでは微妙な関係であったことや、臣従することを決意した徳川家康の屈辱的な想いなどが読み取れるのです。
徳川家康を臣従させる前年の1585年(天正13年)に豊臣秀吉は、関白となったことで朝廷の権威を利用し、大名間の私闘を禁じる「惣無事令」(そうぶじれい)を発して、全国の戦国大名に臣従を要求していました。
しかし、東国の北条氏がこれに最後まで応じなかったため、豊臣秀吉は1590年(天正18年)の「小田原の役」(おだわらのえき:別称「小田原征伐」)によって同氏を降伏させ、遂に天下統一を果たしたのです。
一方で徳川家康は、小田原の役のあとに豊臣秀吉より、もともと領していた三河国や駿河国(現在の静岡県中部、及び北東部)などの5ヵ国を召し上げられ、武蔵国(現在の埼玉県、東京都23区、及び神奈川県の一部)をはじめとする北条氏の旧領「関八州」(かんはっしゅう:現在の関東地方)を与えられています。
このいわゆる「関東移封」(かんとういほう)を実施した豊臣秀吉の意図は様々に推測されており、定かにはなっていません。しかし、一説によると、豊臣秀吉は本拠としていた大坂から目が届きにくい関東地方を、徳川家康に監視させることでその安定を図ったとされています。
つまり、豊臣秀吉が家臣となった徳川家康の才能を認め、信頼を寄せていたということが窺えるのです。
1598年(慶長3年)、病床に伏した豊臣秀吉は自身の没後も豊臣政権を盤石にするため、まだ幼かった後継者の「豊臣秀頼」(とよとみひでより)を補佐する「五大老」(ごたいろう)の制度を設け、そのうちのひとりに徳川家康を任命しています。
これも豊臣秀吉が徳川家康を信頼していたことの表れだと言えますが、徳川家康は豊臣秀吉が亡くなると頭角を現し、天下人への道を選ぶようになったのです。
天下統一を実現させるため、徳川家康が最初に行ったのは、1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」。同合戦で勝利を収めた徳川家康は、五大老と共に豊臣政権の中核を担っていた「五奉行」(ごぶぎょう)筆頭の「石田三成」(いしだみつなり)を退くことに成功します。
次に徳川家康は1600年(慶長5年)12月、暗黙の了解で「豊臣家」が世襲することになっていた関白職に、「摂関家」(せっかんけ:公家の家格の頂点に立つ5つの一族)のひとつであった「九条家」17代当主、「九条兼孝」(くじょうかねたか)を任命。
自身が「征夷大将軍」となる手筈(てはず)を整え、徳川家康は1603年(慶長8年)、朝廷より同職に任ぜられて「江戸幕府」を開いたのです。そして徳川家康は、1614~1615年(慶長19~20年)の「大坂の陣」にて豊臣家を滅亡させ、日本全国を支配する体制を確立。
さらには、朝廷から豊臣秀吉に与えられていた「豊国大明神」(ほうこくだいみょうじん)の神号(しんごう)を、108代「後水尾天皇」(ごみずのおてんのう)の勅許を得て剥奪しています。
これには、豊臣家再興の希望を断つという徳川家康の狙いがあったと考えられており、徳川家康は、豊臣秀吉の没後もその影響力を危惧していたと推測が可能。つまり豊臣秀吉と徳川家康は、時勢によってお互いの立場に変化が見られても、生涯意識せざるを得ない関係であり続けたと言えるのです。