戦闘に用いられる道具を総称して「武具」(ぶぐ)と呼びます。日本で武具と言えば、日本刀、弓、甲冑(鎧兜/かっちゅう)、火縄銃などを思い浮かべがちですが、武具はこれら攻撃用の道具ばかりではありません。例えば戦場で陣を敷くための「陣営具」(じんえいぐ)、戦場における最大の機動力である馬を最大限に活用するための「馬具」(ばぐ)など、戦闘に使われるすべての道具が武具と呼ばれます。こうした武具は、戦い方の変化とともに大きく進化を遂げてきたのです。
日本の武具に共通する特長は、美術的価値がきわめて高いということ。中世・近世に作られた日本の武具の美しさには特に定評があり、日本で作られた日本刀や甲冑(鎧兜)は、世界中で鑑賞品として高値で取引されています。
もちろんヨーロッパ中世・近世の剣や鎧にも美術的価値はありますが、ヨーロッパの武具が高い金工技術を駆使して作られているのに対し、日本の武具は金工の他に漆工(しっこう:漆を使った工芸)、染色、皮革など、様々な技術の集大成なのです。
2009年(平成21年)には米・ニューヨークのメトロポリタン美術館で、日本の武具を一堂に集めた「ART of the SAMURAI」展が開催されて大盛況となるなど、日本武具の芸術性は国際的にも高く評価されています。
武具の中でも、弓矢や銃は「飛び道具」と呼ばれる物です。
平安時代以降、戦場における戦い方は、1対1で互いに馬上から弓を射かけ合う「騎射戦」(きしゃせん)が中心でした。
当時の鎧は「大鎧」(おおよろい)と呼ばれる頑丈なタイプで、矢が当たっても致命傷を負ったり落馬したりする心配は少なかったのです。
ところが室町時代に入り、ひとつの軍勢が数千人から数万人単位になると、騎射戦ではなく両軍が入り乱れて戦う「徒歩戦」(とほせん)が主流になります。
すると機動性に欠ける大鎧に代わって、より軽い「胴丸」(どうまる)という鎧が登場。同時に、この軽量防具をまとって戦場を走り回る「足軽」(あしがる)と呼ばれる歩兵が誕生しました。
しかし、足軽は戦場で鉄製の重い日本刀を振り回さなくてはならず、鎧はさらに軽量さと防御力の高さという矛盾した条件を求められるようになります。その結果、室町時代後期に登場したのが、戦場での動きやすさと防御力をきわめた「当世具足」(とうせいぐそく)でした。「当世」とは「現在の」という意味で、戦国時代における最新の武具のこと。
このように、戦法が変わるとともに武具はより実用的・実戦的になり、進化した武具を戦に用いることにより、さらに新しい戦法・戦術を生み出していったのです。
戦国時代に入ると、金銀の豪華な装飾である「前立」(まえたて)を付けた「変わり兜」が登場するなど、実用性を犠牲にしてでも、武将が戦場で存在感を示すための甲冑(鎧兜)が登場します。この頃から、武具は「武将の魂」の象徴という意味を強く持つようになりました。
戦のない江戸時代に入ると、その傾向はさらに強まり、諸藩は甲冑師(かっちゅうし)といった専門の職人を域内に抱え、日本刀や甲冑(鎧兜)、馬具などにきらびやかな装飾を加えた物を作らせ、家宝として大切にするようになります。
武具に神聖な魂が宿るとする考え方そのものは古くから存在し、奈良時代には、遠征する武将に天皇が1振の日本刀を授けて無事を祈ったという儀礼がありました。また現代においても、全国の神社に日本刀や太刀、鉾などの武具が神宝として祀られています。
1561年(永禄4年)、甲斐国(現在の山梨県)の「武田信玄」(たけだしんげん)と越後国(現在の新潟県)の「上杉謙信」(うえすぎけんしん)が戦った第4次「川中島の合戦」(かわなかじまのかっせん)で、単騎で敵陣に乗り込んだ上杉謙信の太刀を、武田信玄が軍配で防いだというのは有名な話です。
合戦跡地の「川中島古戦場史跡公園」(長野県長野市)には、その一騎打ちシーンを再現した像が建てられています。
しかしこのエピソードが初めて文書に登場するのは江戸時代以降で、当時の資料に書かれていないため、史実であったかどうかは分かりません。
戦場で味方に情報を伝えるときに用いられたのが、法螺貝(ほらがい)や陣鐘(じんしょう)と呼ばれる「鳴り物」(なりもの)です。戦国時代はこうした鳴り物が警報として用いられており、この音が聞こえたときの対処法が厳密に定められていました。
1580年(天正8年)、「羽柴秀吉」(はしばひでよし:のちの豊臣秀吉)が「鳥取城」(鳥取県鳥取市)にたてこもる「吉川経家」(きっかわつねいえ)を攻めたとき、羽柴秀吉は城の周囲を取り囲んで食糧の供給を遮断。そして、夜には煌々(こうこう)と火を焚き、1日中法螺貝と陣鐘を鳴らし続けました。
1日中警報音が鳴り響く状態となり、城内は夜も眠ることができず、3ヵ月後に吉川経家が切腹して籠城戦が終わったと伝えられています。
戦国時代から江戸初期の武将で、茶人としても知られた「小堀遠州」(こぼりえんしゅう)は、「きれいさび」と呼ばれる、美意識の高い「遠州流」茶道を確立した人物。
そんな小堀遠州が戦場で甲冑(鎧兜)の上に着用した陣羽織が、「東京国立博物館」(東京都台東区)に伝えられています。
目を引くのは、背中に切付(きりつけ:アップリケ)で縫い付けられた「丸に左卍」(まるにひだりまんじ)の家紋と、鮮やかな赤の色。この色はメキシコ原産のサボテン科の植物に付くカイガラムシという虫から採った「コチニール」という色素で、作られてから400年を経た今でも色あせていません。
戦国時代を代表する「数寄者」(すきしゃ:茶の湯を趣味とする人物)であった小堀遠州が、戦場でも美意識を忘れなかったことが伝わる陣羽織です。