「甲冑」は、「日本刀」と並び称される日本の代表的な美術品です。もっとも、その鑑賞方法は対照的。日本刀鑑賞では作られた場所や時代、作者の作風(特徴)を勉強し、目の前の作品でそれが実現していることを確かめる楽しみ方があるのに対し、甲冑では、形式の違いによって、作られた時代に着目することを除き、ほとんどそれがありません。その理由として甲冑は、日本刀とは異なり銘がないことが多く、作者が明らかな作品がほとんどないからです。
ここでは、「甲冑師」(流派)と甲冑等の古美術品を収録した江戸時代の図録集、「集古十種」についてご紹介します。
甲冑師の仕事は、その名の通り甲冑を作ること。刀を鍛えて作る刀工と同じだと思われるかもしれませんが、コトはそんなに単純ではありません。甲冑は、膨大な数の部品を組み紐などで繫ぎ合わせ、体を覆うようにして一領(着)ずつ作っていく物。その制作過程は、「仕立仕事(=デザイン)」をメインにして、各パーツを組み上げていく、チームによる作業が行なわれていたと言われています。甲冑師と呼ばれる人は、制作チームの「指揮監督」をする人を指すと考えられるのです。
甲冑師は、あくまで指揮監督者であり、制作にあたるチームが別にありました。それゆえ、細かい部品(材料)をすべて自前で作っていた訳ではなく、外部から仕入れていた物も相当数ありました。特に個性が重視された「当世具足」(とうせいぐそく)以前の作品において、同じ時代に作られた甲冑が類似した作風となっているのを、よく見かけるのもそのためです。ここが刀工や作刀地によって個性が表れる日本刀との相違点だと言えます。
このように、チーム作業であることから、甲冑師が甲冑に銘を切って、「自分の作品だ!」と言うことがはばかられた結果、多くの甲冑が作者不明となってしまったと理解することも可能でしょう。
甲冑師が出現したのは、古墳時代だと言われています。当時の国家体制である原始小国家(部落国家)に従属し、「部の民」(べのたみ)として一定数の職人が従事していましたが、甲冑師もヤマト王権の時代には、王権に従属。これに奉仕する体制のひとつである「部」(べ)の構成員として存在していたのです。
すなわち、この時代の甲冑師は個人ではなく、あくまでも部の民の中のひとりとして認識されているに過ぎませんでした。甲冑師のルーツが「部の民」にあること、従属していた王権が畿内(京都に近い国々)にあったことから、主な甲冑師は関西に分布していました。奈良時代後期に入ると、「挂甲」(けいこう)が大量生産されるように。「小札」(こざね:鉄や革の細長い板)を繫ぎ合わせて作る挂甲制作には、技術的に高度な物が要求され、これにより、甲冑師間の腕の良し悪しも鮮明になりました。
こうした経緯によって、甲冑師は部の民ではなく、個人として認識されていったのです。記録上最古の甲冑師は「金武史山守」(かなきのふひとやまもり)と言われています。
日本で最も有名な甲冑師のひとつ「明珍派」(みょうちんは)。元々は、京都を拠点として馬の轡(くつわ)を作っていた轡師でした。
明珍派の由来は、初代「増田宗介紀ノ太郎」が、「近衛天皇」に鎧と轡を献上したところ、これらの触れ合う音が、「音響朗々、光明白にして玉の如く、類い稀なる珍器」として、天皇から「明珍」の2文字を賜与されたことにあると伝えられています。
明珍派の甲冑が世の中で認知されたのは室町時代末期で、江戸時代になると江戸に拠点を移す者が出現。元禄・宝永年間頃には中興の祖と言われている「宗介」(むねすけ)が系図・家伝書などを整備して家元制度を整えると共に、弟子育成にも尽力しました。
具体的には、一人立ちした弟子に明珍を名乗ること、及び名に「宗」の文字使用を許可し、その弟子が明珍派の流れを汲む者であることを証明すると共に、「明珍ブランド」の権威付けを行なって勢力を拡大。こうした積み重ねによって、「甲冑と言えば明珍」との評価を得るに至ったのです。
現代においても明珍派は存続しており、黒澤明監督の映画「七人の侍」などにおいて、明珍宗家第25代当主の「宗恭」(むねゆき)が甲冑制作を指導。現代を代表する甲冑師として存在感を発揮しました。
大阪府八尾市にある「大聖勝軍寺」(だいせいしょうぐんじ)には、兜に甲冑師の銘が刻まれた甲冑が収蔵されています。それが「色々威胴丸」(いろいろおどしどうまる)。室町時代末期に作られた胴丸に付属する兜には「春田宗定作」の銘が切られているのです。宗定は、室町時代末期の甲冑師。同名で異なる字体の銘が切られている物が現存することから、複数名が春田宗定を名乗っていたと言う説もあります。
元々春田派は、鎧の「仕立仕事」のみを行なっていましたが、鍛冶も行なうようになったことで、兜の制作にも着手。これによって、兜の鉢裏に銘を切るようになったと言われています。室町時代末期に、春田派が兜に銘を切るようになったのをきっかけに、明珍派や、その分派とされている「早乙女派」なども追随。鉄地に甲冑師の銘を切るようになっていったのです。
甲冑師として活動したあと、刀工として名を上げた人物もいました。それが「長曽祢興里」(ながそねおきざと)です。日本刀ファンには「虎徹」(こてつ)の名前の方が馴染み深いかもしれません。江戸時代後期において、上流階級を中心に人気を博した、あの虎徹です。
興里は元々、金沢で甲冑師として活動。こちらでも名工として名を馳せましたが、50歳を超えたのち刀工に転身し、15年ほどの間に200振以上のハイペースで作刀を行ないました。年齢を重ねるほどに輝きを増した、異色の刀工でした。
「集古十種」(しゅうこじゅっしゅ)は、江戸時代に「松平定信」達が編纂して刊行された木版の図録集。定信が老中を失脚したあとの1800年(寛政12年)頃に完成しました。集古十種では、1,859点の古美術品等を10の部門に分類して、寸法、所在地、特徴に加えて模写図を添付した、言わば江戸時代版の古美術品カタログ。甲冑は兵器部の中で、12冊に亘って紹介されています。
徳川家による幕藩体制が確立された江戸時代においては、泰平の世が続きました。「関ヶ原の戦い」から約100年が経った江戸時代中期頃には、武士達の間で、昔の武家の儀式や慣わしなどを学ぶ「武家故実」(ぶけこじつ)などの学問が流行。
これにより、かつて制作され、使用されていた武器や武具の調査・研究が盛んになり、学者達も、全国各地の寺社などに収蔵されている武器・武具などを競って調査したのです。その際、学者達は絵師を同行させ、武器・武具などを精密に模写させていました。
集古十種の編纂の中心となったのは、松平定信。定信は、11代将軍・家斉(いえなり)の老中首座として質素倹約を説き、「貸本」(かしほん:当時高価だった洒落本などを庶民に貸し出す生業)など庶民の娯楽を積極的に取り締まるなどの寛政の改革を行なった人物です。
そんな「堅物」イメージの定信と、手間隙に加えてお金もかかる図録の編纂を行なう文化的な側面を結び付けるのは難しいかもしれません。
しかし、定信は老中在職中から全国各地の武器・武具類をはじめとした古器類の模本・拓本を作成する文化人としての側面を有していたのも事実。これらの活動が、定信の老中失脚後に完成することとなる集古十種の礎になりました。
集古十種の価値を高めている要因のひとつが、収録されている模写の正確さ。それを担ったひとりが、「谷文晁」(たにぶんちょう)です。
江戸時代中・後期を代表する絵師のひとりだった文晁は、松平定信の御用絵師を務め、定信の命により、古書画や宝物などの写生を行ないました。
文晁ら当時の代表的な絵師達は、北は東北から南は九州までの広範囲に亘って寺社に収蔵されている古書画・宝物などを写し取るなどの現地調査を行ない、ときには定信も同行したと言われています。このように文晁達は、全国を精力的に回っていましたが、それでも全国すべての古美術品をカバーするのは不可能。
そのため、現地調査と並行して模写対象物を取り寄せたり、模本や写本を利用したりするなど、様々な手法を用いて古美術品調査が行なわれていました。
膨大な古今東西の美術品を集めて編集した集古十種の評価はどんなものだったのでしょうか。明治~昭和初期まで活躍し、代表作に「裸体美人」「もたれてたつ人」がある洋画家の萬鉄五郎(よろず てつごろう)は、集古十種を絶賛しています。
「構図の構成が抜け目ない緊密さを持っている」、「はち切れるばかりの力がある」など高い評価を下しました。
一方で批判的な意見もあると同時に、集古十種に掲載された情報が絶対視されてしまう傾向もあるようです。
例えば、京都国立博物館に所蔵されている「騎馬武者像」は、集古十種で足利尊氏像として紹介されていることから、2000年代まで学校の教科書でも足利尊氏像として紹介されていました。
ところが、騎馬武者の馬具に描かれている輪違の紋が、足利家ではなく高家の家紋であるということが判明。このことから足利尊氏ではなく、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて足利尊氏に仕えた武将、高師直(こうのもろなお)か、その子である高師詮(こうのもろあきら)、高師冬(こうのもろふゆ)の可能性が高いとされました。
やがて学校の教科書でも、騎馬武者像を「足利尊氏像」として紹介することはなくなります。良い点も批判的な点も含め、集古十種が後世に与えた影響は非常に大きいと言えるでしょう。
集古十種が最初に出版されたのは1800年(寛政12年)。江戸時代における大規模な企画となり、当時は「版木」によって製本を行なっていました。
版木とは、江戸時代に普及していた「木版印刷」で用いる物です。当時は文字や絵を木の板に掘った版木にインクを乗せることで、ハンコのように紙に押して印刷する技術が一般的でした。
明治になると様々な出版社によって集古十種の刊行が行なわれますが、そのほとんどは写真製版であったと言われ、版木による木版印刷ではありませんでした。その中でも、明治から大正にかけて店舗を構えていた「青木嵩山堂」(あおきすうざんどう)は、松平家所蔵の版木を用いて、1899年(明治32年)に全85巻の大シリーズの再刊を行なったとして、大きな注目を集めています。
このとき使用された集古十種の版木は新聞1ページ大の大きさで、厚さは約2センチもあり、その数は1,451枚にもなりました。 また、材質は桜で、両面彫りがほとんどです。
この版木は現在、三重県桑名市にある鎮国守国神社(ちんこくしゅこくじんじゃ)にて保管。鎮国守国神社は、刊行当初の版木が多く収蔵されていますが、なかには後代に補彫されたものや、埋木で補修したものもあります。
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