平安時代初期まで、武装して甲冑を着る人は「高級武官」が中心でした。ところが、平安時代中期に「武士」が誕生すると、社会体制が変化。武士は武士団を結成し、互いに闘争をはじめます。朝廷は、武士団の実力を認め反乱を抑えようと、宮中や地方などの警護・警備を任せ、治安維持に当たらせるようになるのです。さらに武士は「上級武士」、「一般武士」、「下級武士」へと細分化。ここでは、上級武士が着用した「大鎧」に代替する甲冑として注目された「胴丸」、「腹当」、「腹巻」について詳しくご紹介します。
「胴丸」とは、胴を守るための防具。誕生したのは大鎧とほぼ同じ平安時代中期です。はじめは全く注目されなかったものの、やがて一般武士や下級武士が着用するための、大鎧に代わる防具として、上級武士にも評価されます。大鎧が完成していたにもかかわらず、なぜ胴丸は注目されたのでしょうか。
平安時代中期、上級武士は「胴」を守る防具として、豪華で重量のある大鎧を装着していました。大鎧は上級武士が「一騎打ち」をする「騎乗戦」(弓射戦)で着用するために作られた防具。つまり「馬上で弓を引きやすいこと」、「敵の矢から身を守れること」を目的として、貴重な「鉄」をふんだんに使用し制作された、たいへん高価な代物だったのです。
やがて、戦闘スタイルが変化。平安時代後期になると、上級武士が正々堂々と闘う一騎打ちから、奇襲攻撃をも行なう「集団戦」へと変わります。これにより上級武士だけでなく、一般武士や下級武士も「徒歩武者」(打物戦)として、参戦するようになりました。
しかし、一般武士や下級武士が徒歩戦で武装する場合、防具が大鎧では重くて動きにくく、着脱もひとりではできず不便なこと。さらには高価で費用が掛かり過ぎることが欠点でした。そこで、一般武士や下級武士が徒歩戦の打物戦で着用する防具として「軽くて動きやすい」、「着脱がしやすい」、「低コスト」の胴丸が注目され進化したのです。
元々、胴丸は、奈良時代の豪族が着用した「胴丸式挂甲」(どうまるしきけいこう:一枚胴前引合せ鎧)をもとに開発されたと言われています。
最大の特徴は、胴の全体がひと続きになっているところ。ぐるっとひと回りして「右脇」で引合わせ(紐で結んでサイズ調節)ができます。つまり、体を入れて右側から出ている紐を結べば良いだけ。他人による手伝いなしで、ひとりでも簡単に着脱ができたのです。これこそ、胴丸が注目されたいちばんの理由。胴丸の採用により「着脱もひとりではできず不便」という大鎧に生じていた問題が、まず解消されました。
さらに胴丸は進化することで「重くて動きにくい」、「高価過ぎる」という問題を解決するようになるのです。
小札(こざね:または本小札)とは、甲冑を構成する材料で細長い小板のこと。小札には、鉄製の「鉄札」と革製の「革札」があります。大鎧のように、すべて鉄製で制作すれば強度は高く安心なのですが、重量が重くなるため動きにくく、何と言っても鉄はとても高価。
よって胴丸では「一枚交」(いちまいまぜ)と呼ばれる、鉄札と革札を1枚ずつ交互に配置した物や、「金交」(かなまぜ)と呼ばれる、革札が主体で胸や腹など要所に鉄札を交ぜる製法を採用。軽量化と費用削減に成功した物があります。
胴丸は、大鎧には必須だったいくつかのアイテムを取り除くことで、費用を抑えることにも成功しました。原則として「兜」や「袖」を装備しないのはもちろん、装飾も削減しました。
草摺(くさずり)とは、現代の「スカート」のように見える、大腿部を守る防具。はじめは大鎧と同じ4間でしたが、進化した胴丸では8間(のちに7間)になりました。こちらにも小札が使用され、たいへん重かったのですが、数を増やしたことで1間あたりの重さが分散され、足さばきがよくなり、軽快に動くことができるようになったのです。
平安時代後期、胴丸は身分の高くない一般武士や下級武士が、安い費用で武装する目的で作られたことから、ほとんど単体で着られていました。
手には薙刀または弓を所持し、基本は髷(まげ)に烏帽子を巻き付ける髪型。ちなみに烏帽子なしは恥とされ、身分に関係なく、寝るとき以外は常にかぶっていたようです。
兜や籠手を着けることはありましたが、脛当(すねあて)、大袖は着けないのが正式なスタイル。袖の代わりには「杏葉」(ぎょうよう:肩先を防御する物)を付け、足は脛巾(はばき:脛に付ける服飾品)に裸足でした。兜を着けないときは、額と頬を保護する「半首」(はっぷり)を付けました。
また、この頃「打紐」(うちひも)の技術が発達。色糸が揃い「紫威」(むらさきおどし)や「赤絲威」(あかいとおどし)など、華やかな威(おどし:鎧に札を結ぶ糸や革のこと)が作られました。主に大鎧に用いられていましたが、胴丸にも使われるように。色鮮やかで個性豊かな胴丸が作られたのです。
現存する日本最古の胴丸は、平安時代末期に制作された重要文化財「熏紫韋威胴丸」(ふすべむらさきかわおどしどうまる)です。所蔵されているのは、「大山祇神社」(おおやまづみじんじゃ)。「山の神、海の神、戦いの神」として、昔から武士の尊崇を集め、国宝や重要文化財など多くの武具が奉納されています。
熏紫韋威胴丸は「源平の争乱」で活躍した「源義仲」(みなもとのよしなか:木曽義仲)が奉納したと言われる物。義仲が伊予国の豪族「河野通信」(こうのみちのぶ)に、源氏に味方するようにと言付けをして、社前に奉納したことが伝えられています。
構成は、前立挙(まえたてあげ)2段、後立挙3段、長側4段、大袖付で、草摺は8間4段下り。肩上は鎧と同じく押付とひと続きで、まだ押付板がありません。立挙と草摺は革札、胴まわりは比較的大型の平札と、革札を1枚交替で使用し、黒漆で塗った物を紫革で威(おどし:綴り合わせ)ています。茶褐色に色が褪せ、とても地味に見えますが、元々はシンプルなデザインが映える鮮やかな紫色だったことが記録されているのです。
なお、大山祇神社では、源義経が奉納したと伝えられる、大鎧から胴丸への移行形と推測される「紅威の胴丸鎧」も所蔵しています。
鎌倉時代後期の1274年(文永11年)、1281年(弘安4年)に「元寇」が襲来すると、戦闘スタイルがさらに変化。動きやすい胴丸は、一般武士や下級武士に留まらず、上級武士も着用するようになり、室町時代には胴丸が一般的な防具となりました。
元寇の襲来で言葉も武士道の精神も通じない「外国人」が敵となり、言わば「殺す」か「殺されるか」だけの容赦ない集団戦が繰り広げられることになりました。鎌倉時代後期はまだ、上級武士たちの正式の鎧は大鎧でしたが、胴丸なら落馬しても軽くて立ち上がりやすいと認識されるようになり、上級武士の間で動きやすい胴丸が着用されはじめます。
鎌倉時代後期から威の配色にも変化が現れ、「紅裾濃」(くれないすそご)など、2色以上を配する威が作られるようになります。南北朝時代には、「色々威」(いろいろおどし)や「妻取威」(つまどりおどし)など3色以上の威毛が流行し、華麗な胴丸が現れます。
また、室町時代には裾広がりの姿から、腰がややくびれた姿へと改良。このくびれにより、肩にかかっていた甲冑の重みを腰で支えることができ、肩の負担を軽減できるようになったのです。
南北朝時代になると、上級武士の間でも大鎧が廃れて胴丸が定着。兜、大袖、広袖、脛当、籠手を付け、重武装するようになります。喉元を防御するための「喉輪」(のどわ)や大腿部を強力に防御するための「佩楯」(はいだて)が加わるなど、上級武士が着用するのにふさわしい威厳と装飾性が伴うようになるのです。
また、一般武士や下級武士の胴丸も南北朝時代からパワーアップ。兜、大袖、籠手、脛当を伴う重武装となります。大袖が付属した影響で、杏葉が肩の上部から肩の前面に移動する等の変化をとげます。最終的には腕ではなく胸板に付ける物となるのです。
鎌倉時代後期になると技術の発達により、従来の小札ではなく、「伊予札」(いよざね)が開発されます。これは、伊予国(現在の愛媛県)の職人が考案した、それまでの鉄製の小札に代わる物。鉄製ですが左右の両端を少し重ねて閉じ合わせる物で、小札よりも少ない枚数で面積の広い武具が制作できるようになったのです。
しかも、それまでの鉄製の小札は日本刀と同じ玉鋼が使用されたたいへん重い物だったので、伊予札の採用により、「軽量」の防具ができあがりました。
さらに、室町時代末期には「板札」(いたざね)が誕生。これは、叩いて延べた鉄板1枚の板札で、「板物」(いたもの)と呼ばれました。材料費の節約、強度の向上、作業能率の向上をもたらしたのです。
室町時代初期に作られた代表的な胴丸は、国宝の「黒韋威矢筈札胴丸」(くろかわおどしやはずざねどうまる)。南北朝時代に活躍し「悪党」とも呼ばれた武将「楠木正成」(くすのきまさしげ)が奉納したとされ、奈良県の「春日大社」に所蔵されています。
楠木正成と言えば、後醍醐天皇と共に鎌倉幕府の倒幕に尽力した人物。武士でありながら後醍醐天皇に忠誠を誓って、最期は足利尊氏によって自害に追い込まれます。
「黒韋威矢筈札胴丸」は、「兜」と「大袖」が揃った「三物」(みつもの)。後醍醐天皇と行動を共にした正成使用の威厳と風格を感じます。胴の部分には、黒韋(黒く見えるまでに藍染をした鹿革)を使って「黒漆盛上小札」(くろうるしもりあげこざね:黒漆による盛上がある小札)と「矢筈頭切付小札」(やはずがしらきっつけこざね:伊予札の矢筈頭切付小札)が1枚交替に使用され、見事に威されているのです。
腹当(はらあて)とは、文字通り「腹」にあて、胸腹部を防御するための防具のこと。鎌倉時代後期から室町時代にかけて、下級武士、下級兵士が徒歩戦で装着しました。胴丸と一体どこが違うのでしょうか。
鎌倉時代後期に元寇が襲来してから、戦の規模が拡大し、一般武士はもちろん足軽などの下級武士や、農兵などの下級兵士も戦闘に参加するようになりました。兵の数が強さを表した時代。雇う側の武将は、大人数を確保して人数分武装させるとなると、胴丸の費用が馬鹿になりません。
そのため、例え防御力が弱くても最小限度の軽武装ができて、胴丸よりも費用が安い防具が必要になりました。それが腹当です。
腹当は、鎧の中でも最軽量で最小コスト。胴の前面(胸から腹、大腿部)とわずかに左右を防御する物で、前面は胸板と立挙2段、左右脇に至る長側と小型の草摺で構成されています。草摺は、3間3段下り。背中にガードが何もないというのが、いちばんの特徴です。
「武士は敵に背中を向けない」と言うモットーがあったため、意識的には問題がなかったようですが、のちに腹当が衰退し、背中部分までガードのある腹巻へと進化しているので、実用的には問題がでていたのかもしれません。
腹当は、身分の低い者が着用する防具と言うことができ、奉献の対象にもならなかったので、遺物はほぼなし。
しかし、室町時代になると上級武士もその軽量さと手軽さから、装束(しょうぞく:衣服)の下に腹当を着用するようになりました。今で言う「防弾チョッキ」(前面のみ)のように、護身用として、腹当を着用していたのです。そのため、着籠腹当(きごめはらあて)とも呼ばれています。
腹当は胴体の前面のみを保護し、背中部分はなし。草摺も胴丸が8間だったのに対し、腹当は3間と少ないことから、材料費自体、胴丸よりも費用削減ができています。
材料として胴丸と同様小札ではなく、室町時代にできた安価な伊予札を使用。また、室町時代末期からは板札も使用しています。
鎌倉時代の下級武士は小袖、小袴の上から腹当を装着しました。正装は侍烏帽子、脛巾(はばき)、素足に足半(あしなか)と呼ばれる草履、手に薙刀、腰に打刀を所持。下級兵士のなかには素肌の上から、腹当を装着した者もいたようです。
室町時代になると「射手の足軽」と言う集団化した雇兵が現れます。原則として、集団で矢を射るのが任務。腹当を装備し脛当などは付けず、鉄や練革を鉢巻きに綴じ付けた「額鉄」(ひたいがね)で武装しました。
腹巻とは、下級武士や下級兵士が使用した軽武装用の防具で、腹当が進化した物だと言われています。胴丸や腹当とは、一体どこが違うのでしょうか。
腹巻は、鎌倉時代後期に誕生しました。胴丸に続いて出現した腹当が進化した物です。腹当ての両端を1間ずつ増していった物が、腹巻の始まりと考えられています。
胴丸のように胴の前面、背面を防御し、背中で引き合わせ(開閉)できるのが特徴。胴丸は重武装用、腹当は軽武装用に作られましたが、腹当ではあまりにも武装が弱すぎたため、もう少し防御の高い中武装用として腹巻が生まれたのだろうと考えられています。
また、南北朝時代は全国的に戦乱の世になり、大鎧や胴丸の生産が間に合わず、腹巻が流行したとも考えられます。
腹巻は、胴丸の次に防御力が高く、軽い防具と言うことができます。いちばんの特徴は、背中から体を入れて引合わせるところ。引合わせの緒が後ろ首元にだけあるため、胴は締まらず真ん中部分にパカっと隙間が開いてしまい防御面では致命的な欠点に。室町時代には背板が考案され、高級な腹巻には取り付けられるようになりました。ですが、敵に背中を向けることを想定して作られていることから「臆病板」(おくびょういた)と卑しまれるのです。
しかし、隙間が開いているぶん、着脱は簡単。重量も胴丸よりも軽くて動きやすいのが特徴です。また、鎧の中で最も形が良く、腰細裾広がりのスタイルがスマート。南北朝時代に徒歩戦が主流になると、動きやすさと格好良さから上級武士も着用するようになりました。「兜」などを具備して重層化し威しの色も増え、上級武士にふさわしい豪華な物となったのです。
現存する最古の腹巻は、南北朝時代の物しかありません。重要文化財の滋賀県兵主神社所蔵の「白綾包腹巻」は、初期的形式を備えた物で、前立挙2段、後立挙1段、草摺5間。肩上に大袖付の装置はなく、衣服の下に着込む物だったと考えられます。
この南北朝時代を境に、腹巻は急速に改良。かつて、軽武装として誕生した胴丸が重武装となったように、腹巻もまた重武装のタイプが誕生します。重武装化した腹巻は、後立挙が前立挙とともに2段になり、草摺も7間に。また、肩上に袖や杏葉を付けられるよう装置が施されるのです。
腹当には及びませんが、背中の真ん中が開いていること、初期の物は草摺が5間だったことなど、胴丸よりも材料費自体が抑えられています。
胴丸や腹当と同様に材料は小札ではなく、室町時代にできた安価な伊予札を使用。また、室町時代末期には板札も使用しています。
南北朝時代には、腹巻は胴丸と共に重装備化されます。兜、袖、面頬、籠手、佩楯を付け、完全武装しました。室町時代には「色々威」(いろいろおどし)など、3色以上の威毛の腹巻が流行しカラフルになり、上級武士にふさわしい格調高い物になりました。
ちなみに、現代の人にくらべて室町時代後期の男性の身長は160cm前後と低いため、大鎧、胴丸共に丈の短い物が人気に。背中の引合わせ部が絞れるタイプの腹巻も登場し、スリムに見えてかっこよくなるのです。
また、佩楯が発達し、重武装するときには必ず佩楯を付けるようになるのです。
胴丸から腹当、腹巻へと人気は移り変わりましたが、それぞれが江戸時代まで存続し、やがて衰退します。優れた機能と合理的な構造は、当世具足へと踏襲されることになるのです。