影武者(かげむしゃ)とは、権力者や武人が身の安全を守るため、あるいは敵に動向を知られないために利用する替え玉のことです。洋の東西を問わず、影武者を使ったと言われる歴史上の人物は数多く、また、現代でも影武者がいるとささやかれる政治指導者がいます。影武者はどのような働きをするのか、また、著名な戦国武将とその影武者の関係を紹介しましょう。
影武者には、身分の高い人物に戦死や暗殺の危険がある場合に、死を覚悟で身代わりを務める者というイメージがあります。
確かにそれは影武者の重要な任務のひとつで、戦場で影武者がおとりになって敵を誘導し、その間に本物が逃走したり、あるいは本物が思いがけない方向から攻撃を仕掛けたりすれば、影武者が討たれるリスクは大いにありました。
しかし、影武者の役目はそれだけでなく、本物の重病や死去を隠すために使われることもあり、この場合、影武者の使命は壮健で生きていることです。
影武者を題材にしたドラマや映画は、影武者と本物が見分けられないほど似ているという設定で、1人の俳優が影武者と本物の2役を演じることがあります。
実際に歴史上の人物の影武者には、本物によく似ていたと伝わる者もいますが、写真やマスメディアのなかった時代には、著名な人物でも顔を知られていないことがあったのです。その場合、影武者は本物らしい装束や武具を身に着けて敵をあざむきました。つまり、古い時代の影武者は容貌が本物そっくりである必要はなく、情報化が進んだ現代よりも、影武者作戦は容易で有効だったと考えられます。
そのためか、影武者伝説は古くから世界中にあり、また「死んだのは影武者で、本物は生き延びて、その後は別人として活躍した」という伝承も数多いのです。
日本の戦国武将にも、影武者を使ったと言われる者がいます。なかには信頼性の乏しい影武者伝説もありますが、それは承知の上で、影武者らの正体や生涯を紹介しましょう。
「徳川家康」は、幼少時に誘拐されたり、成人してからは戦に敗れて命からがら逃げたりと、前半生に何度か命の危機に遭いました。
このため、徳川家康には「天下統一の前に死んでおり、江戸幕府を開いたのは別人だった」とする影武者伝説がいくつかあります。
なかでも有名なのが、「世良田二郎三郎元信」(せらだじろうさぶろうもとのぶ)という人物が、徳川家康の影武者を経て、征夷大将軍にまで上り詰めてしまったという説です。
これは、明治時代に教師をしながら歴史研究を続けた村岡素一郎(むらおかそいちろう)が、1902年(明治35年)に出版した著書「史疑徳川家康事蹟」(しぎとくがわいえやすじせき)で唱えました。
村岡素一郎によると、世良田二郎三郎元信は、駿府(すんぷ:現在の静岡県静岡市)出身で、祈祷師の父と身分の低い母親の間に生まれた人物です。幼い頃、駿府の寺に入門したものの素行が悪く破門になり、少年時代は放浪生活を送ったとされています。
やがて、世良田二郎三郎元信は武装集団を従えるようになり、1560年(永禄3年)の「桶狭間の戦い」では、徳川家康の国元・三河国(現在の愛知県東部)に攻め入るほど暴れました。一方、このとき本物の徳川家康は、戦の混乱に乗じた家臣の1人に暗殺されてしまい、これを隠そうとした遺臣らが世良田二郎三郎元信を身代わりにしたと言うのです。
さらに村岡素一郎は、その後の徳川家康(実は世良田二郎三郎元信)が、正室「築山殿」(つきやまどの)と嫡男「松平信康」を殺害させたのは、本当の妻子ではなかったからだと推察。そして、築山殿と松平信康の死は、世良田二郎三郎元信が徳川家康に成りすましてもうけた子、「徳川秀康」(とくがわひでやす)や「徳川秀忠」(とくがわひでただ)を後継者にするために実行したと主張しています。
この村岡説は、発表当時から批判が多く、現在も学術的には否定されている一方で、多くの作家が創作のヒントにしました。その1人で、作家・脚本家の「隆慶一郎」(りゅうけいいちろう)は、世良田二郎三郎元信が主人公の小説「影武者徳川家康」を1989年(昭和64年/平成元年)に刊行しています。この小説はたびたびドラマ化され、また、人気漫画家「原哲夫」(はらてつお)が漫画化しました。
「武田信玄」(たけだしんげん)は、戦国最強と言われながら病に倒れ、死期を悟ると「自分の死を3年間、隠せ」と遺言して、1573年(元亀4年)に亡くなります。
この頃の武田信玄は「織田信長」と敵対しており、自分の死が知れ渡ったら、織田信長をはじめとする周辺勢力が武田家に襲いかかると考えたからです。
この遺言に従い、武田信玄が生きていると見せかけるために、同母弟の「武田信廉」(たけだのぶかど)が影武者を務めました。武田信廉は、兄・武田信玄より11歳も年下でしたが、兄の側近でさえ見間違えるほど、2人は似ていたのです。
当時、武田家と同盟関係にあった「北条氏政」(ほうじょううじまさ)は、家臣の「板部岡江雪斎」(いたべおかこうせつさい)を武田信玄の見舞いにやりましたが、板部岡江雪斎は、武田信廉が影武者だと見抜けなかったと言われています。
しかし、当時の戦国武将は間諜(かんちょう:スパイのこと)を使って敵情を探らせていたため、やがて武田信玄の死は知られ、この強大な当主を失った武田家は衰退していきました。
そして、1582年(天正10年)、武田家は織田信長・徳川家康の連合軍に攻められて滅亡し、武田信廉はこの戦いで織田軍に捕らえられて殺害されたのです。
武田信廉は、偉大な兄・武田信玄に比べると華々しい武功は伝わっていませんが、武田信玄と対立して追放された父「武田信虎」(たけだのぶとら)を引き取っており、親思いだったことが分かります。
また、書や画が上手かったと言われており、山梨県甲府市の大泉寺(だいせんじ)が所蔵する武田信虎の肖像画は、武田信廉の作です。
なお、映画監督「黒澤明」(くろさわあきら)は、1980年公開の作品【影武者】で、武田信玄の影武者として生きた男を主人公にしました。この映画の武田信廉(山崎努)は、兄・武田信玄亡きあとの武田家を守るため、武田信玄と瓜二つの盗人(仲代達矢)を影武者に仕立て上げる策略家として描かれています。
「明智光秀」(あけちみつひで)は、1582年(天正10年)に「本能寺の変」を企て、織田信長を自刃に追い込みましたが、わずか12日後、織田家臣だった豊臣秀吉が仕掛けた弔い合戦「山崎の戦い」に敗れました。
敗走した明智光秀は落武者狩りに遭い、殺されたと言われていますが、このとき死んだのは、明智光秀の身代わりを買って出た家臣「荒木行信」(あらきゆきのぶ)だったという伝承があります。
この話には続きがあり、明智光秀は荒木行信に深く感謝し、その名から1字を取って「荒深小五郎」(あらふかこごろう)と名乗り、美濃国の中洞(なかぼら:現在の岐阜県山県市)に隠れ住んだと、この地域では語り継がれてきました。
さらに、荒深小五郎として雌伏し続けた明智光秀は、1600年の「関ヶ原の戦い」に参戦しようと出陣したものの、洪水に流されて命を落としたとも言われているのです。
この他にも、明智光秀は江戸時代まで生き延びて、徳川家康を政治顧問として支えた天台宗の高僧「天海」(てんかい)になったという説があります。
この奇説が流布した背景には、天海の前半生がよく分からないことに加えて、徳川家康が豊臣家を滅ぼした「大坂の陣」の発端になった「方広寺鐘銘事件」(ほうこうじしょうめいじけん)に、天海が関与していた経緯がありました。
つまり、天海こと明智光秀は、自分を討った豊臣家に、徳川家康が攻め込む口実を作ったことになり、このストーリー性が共感を呼び、現在も小説や歴史ゲームの設定に使われています。
また、天海の正体については異説があり、それは明智光秀の娘婿「明智左馬之助」(あけちさまのすけ)だったという説です。
この明智左馬之助は、別名の明智秀満(あけちひでみつ)や明智光俊(あけちみつとし)でも知られる武将で、本能寺の変では先鋒隊を率いて活躍しています。しかし、明智光秀が山崎の戦いに敗れたため、明智家の本拠・坂本城(現在の滋賀県大津市にあった城)を守りに向かいました。
その途上の琵琶湖畔で、豊臣方の「堀秀政」(ほりひでまさ)に包囲され、進退きわまった明智左馬之助は、騎乗のまま琵琶湖を渡り切り、坂本城に入ったという「湖水渡り」の伝承があります。
この奮闘もむなしく、坂本城は堀秀政に攻め落とされて、明智左馬之助は自害しましたが、実は比叡山に逃げ込み、やがて僧・天海となり、徳川家康に仕えたという説があるのです。
こう言われるのは、先述のように明智光秀が天海だったとすると、明智光秀が110歳を過ぎても活動していたことになり、現実味がないのに対して、明智光秀より若い明智左馬之助なら辻褄が合うから、という程度で、それほど強い根拠ではありません。
しかし、明智家ゆかりの武将らに多くの影武者伝説があるのは興味深いことです。これは、明智光秀が織田信長に信頼された有能な人物であり、領国では善政を敷いたことから、謀反人とされるのを惜しむ人々が「生き延びて活躍してほしかった」と望んだ結果だとも考えられます。
「上杉謙信」(うえすぎけんしん)は、北信濃(現在の長野県北部)の覇権をめぐり、生涯のライバル・武田信玄と「川中島の戦い」で何度も対戦しました。この戦いは、1553年(天文22年)から1564年(永禄7年)の12年間で、5度にわたって繰り広げられましたが、勝敗はついていません。それは上杉謙信と武田信玄が、互いに認め合う戦上手だっただけに、激突を避けて、毎回小競り合いや、にらみ合いに終始していたからです。
ただし、1561年(永禄4年)の第4次合戦だけは激戦に至り、また、上杉謙信と武田信玄の直接対決があったと言われていることもあり、一般的に川中島の戦いとは、この第4次合戦を指します。
この第4次合戦での直接対決は、上杉謙信が馬上から斬りつける太刀を、武田信玄が軍配で受けとめる名場面が武者絵や銅像になっていますが、実は確実な史料がありません。しかも、このとき武田信玄に斬りかかったのは上杉謙信ではなく、その影武者に任命された家臣「荒川長実」(あらかわながざね)だったとする説があるのです。
荒川長実の出自や晩年についてはよく分かっていませんが、上杉謙信の功臣17名を指す「越後十七将」に名を連ねており、川中島の戦い・第4次合戦では、名誉ある先陣を任されています。
この戦いの模様を武田家の記録「甲陽軍鑑」(こうようぐんかん)は、大乱戦のなか、白頭巾の騎馬武者が武田本陣に突入し、武田信玄に3度斬り付けたと伝え、この騎馬武者が敵将・上杉謙信だったとしています。一方、上杉家が江戸時代に編纂した史料「上杉家御年譜」(うえすぎけごねんぷ)は、この騎馬武者は荒川長実だったと書いているのです。
しかし、これらはどちらも後世に成立した記録で、逸話の粋を出ません。そして、この合戦で槍傷を負ったとされる荒川長実の行方は分からないままです。