日本の甲冑は、時代が移り変わるなかで、大鎧(おおよろい)や胴丸(どうまる)、腹巻(はらまき)に当世具足(とうせいぐそく)と、様々な種類が現れました。また、鎧下(よろいした)と呼ばれる、甲冑の下に着る装束(しょうぞく)も時代に合わせて変化。平安時代から室町時代にかけて、長い間着用された鎧下である「鎧直垂」(よろいひたたれ)について解説します。
鎧直垂は、「鎧」(よろい)と「直垂」(ひたたれ)を合わせた言葉になります。鎧は、現在では一般的に甲冑を指す言葉として使われることが多いですが、平安時代には、特に大鎧のことを鎧と呼んでいたことが、当時の史料から分かります。
直垂は、庶民の男性や武士が日常着ていた服で、動きやすいことが特徴。つまり鎧直垂は、大鎧を着るのに合わせて仕立てられた直垂ということになるのです。
なお、大鎧の下に直垂を着ることは、すでに平安時代末期には行われていたと考えられますが、当時の記録からは、上級武士達は直垂と同じく動きやすい「水干」(すいかん)を鎧下として着ていたことも知られています。
身分の低い人々の服装だった直垂は、「源頼朝」(みなもとのよりとも)が開いた「鎌倉幕府」により、武士の正式な服装に定められると、袖(そで)が大きくなるなどゆったりしたスタイルに変化し、格式が高くなります。
一方で、大鎧の下に着る直垂は動きやすさを重視して幅の狭い袖を保ちながら、戦場での晴装束(はれしょうぞく)として華やかな生地で仕立てることが増えます。地位の上昇に合わせて経済力も高めた上級武士は、錦(にしき)や綾(あや)の他、中国から輸入した高級織物の金襴(きんらん)や緞子(どんす)などで作った直垂を大鎧と合わせて着込んで身を飾ります。
これらの直垂は通常の直垂と分けて使用されるようになり、鎧直垂と呼ばれる装束として成立するのです。「平家物語」(へいけものがたり)などの軍記物語や、絵巻物の「蒙古襲来絵詞」(もうこしゅうらいえことば:三の丸尚蔵館所蔵[東京都千代田区])などには、様々な色や模様で彩られた鎧直垂が登場します。
鎧直垂に使用する生地は武士がその身を飾るため、地位や財力に応じて様々な布を用いました。記録や軍記物語に登場する生地を挙げると、錦、綾、練絹(ねりぎぬ)、練貫(ねりぬき)、糸葛(いとくず)、紗(しゃ)などで、鎌倉時代後期からは中国産の高級織物である金襴や緞子も加わるのです。
色や図柄については、1色のみの他にグラデーション表現の匂(におい)や村濃(むらご)、絞り染め、摺り染め(すりぞめ)技法で文様を染め出した物、刺繡(ししゅう)や金箔、銀箔を押して文様を表すことも行われたようです。2種類以上の生地を組み合わせた片身替(かたみがわり)などもありました。
とは言え、一般の武士は錦などの高級な布を遠慮しました。一軍を率いる大将がよく着たのは赤地錦の鎧直垂で、軍記物語や「有職故実書」(ゆうそくこじつしょ:宮廷や幕府などでの礼儀作法の解説書)にたびたび記されます。
騎射戦が盛んだった鎌倉時代までは、籠手は弓を扱いやすくするため、左手だけにはめる「片籠手」(かたごて)が主でしたが、刀剣などを振るう打物戦が南北朝時代から室町時代にかけて増えると、腕を動かしやすくするためと防御の観点から、両腕に籠手を付ける「諸籠手」(もろごて)が一般化。
すると、それまでの片籠手では鎧直垂の左袖を脱いで畳んでいたのが、諸籠手の場合では同じようにできないため、直垂から袖を省いた「肩衣」(かたぎぬ)を着たり、上着をやめて小袖だけで済ませたりすることが次第に広まります。同時に、室町時代には日常の装束でも、袖のある直垂や「素襖」(すおう)が着られなくなり、簡素な肩衣に代わられます。
室町時代後期には、鎧直垂の着方を含めて大鎧の着用手順を記した手引書がいくつか作られました。これは当時の武家の間で、すでに大鎧が特別な場合にしか使われない、いわば飾りの甲冑だったことを示し、同時に大鎧の鎧下として一緒に着られていた鎧直垂も、存在感が低下していたことが分かるのです。
さらに、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて、新たに「当世具足」(とうせいぐそく)という甲冑の様式が完成。これに合わせ、小袖を基本にした軽快な鎧下として「具足下着」(ぐそくしたぎ)が登場。鎧直垂は具足下着に追いやられ、名前はともかく、その形はしばらく忘れられてしまいます。
戦争が絶えた江戸時代中期、昔の武家の儀式や慣わしなどを研究する武家故実(ぶけこじつ)が盛んになる中で、平安時代から室町時代にかけて使用されていた武器や武具の調査も流行。
これらの動きは江戸幕府8代将軍「徳川吉宗」(とくがわよしむね)の時期から活発になり、調査にとどまらず実際に制作する例も出ます。
江戸時代中期以降には大鎧や胴丸、腹巻といった中世の甲冑を模作、復元した「復古調甲冑」(ふっこちょうかっちゅう)が現れ、ほとんど忘れ去られていた鎧直垂も一緒に再現が試みられます。はじめは研究が不十分で、例えば、直垂と水干の様式が混ざった物が鎧直垂として作られてしまった例もありますが、調査が進み「集古十種」(しゅうこじっしゅ)に実物図や寸法が掲載されるなどしたこともあり、大名家を中心に復古調の鎧直垂が多く仕立てられることになります。
そして幕末、日本国内では約250年ぶりに戦争が発生。この「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)の時期、程度の差はあるものの、全国的に軍制の西洋化が進みましたが、一方で武家故実の研究が深まったことで、古式にのっとった作法にあこがれる考えも強く存在していました。新政府側と旧幕府側の両方が当時最新の西洋兵器の確保に努めながらも、一部の大将や指揮官が自分の地位を示すために鎧直垂を着用した記録があるのです。
甲冑とともに戦場を飾り立てた鎧直垂は、近代化により武士の時代が終わったことで完全にその役目を失います。現代では、直垂や他の装束と同じく歴史的資料として扱われる他、祭りなどのイベントや演劇の衣装として制作、使用されています。
平安時代や鎌倉時代の衣服が現存する例は非常にまれで、当時の物とみられる鎧直垂は確認されません。
室町時代に作られた鎧直垂で現存する物は2点あります。ひとつは、「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)の皇子「護良親王」(もりよししんのう)が着用したと伝わる、牡丹唐草(ぼたんからくさ)文様を織り出した赤地錦(あかじにしき)の鎧直垂(東京国立博物館所蔵:東京都台東区)。もうひとつは、1560年(永禄3年)に室町幕府13代将軍「足利義輝」(あしかがよしてる)から「毛利元就」(もうりもとなり)へ与えられた、重要文化財の「紅地桐文散錦直垂」(べにじきりもんちらしにしきひたたれ、毛利博物館所蔵:山口県防府市)です。
現代作を除けば、最も多く残る鎧直垂は江戸時代中期以降に大名家などで復刻制作された物。これらは各地の博物館に所蔵され、常設展や企画展などで観ることができます。