「鎌倉幕府」の成立は、日本初の本格的武家政権の誕生を意味していました。これにより、天皇を中心とした政治は、事実上終焉。朝廷の影響力は低下していきます。朝廷にとって特に大きなダメージとなったのは、全国にあった「荘園」からの租税収入の激減。そのような状況の中「後鳥羽上皇」(ごとばじょうこう)は、全国各地の武士に対して幕府の実質的トップだった執権「北条義時」(ほうじょうよしとき)追討の「院宣」(いんぜん:上皇の意思を示す文書)を発し、鎌倉幕府打倒を目論んだのです。
平安時代において、朝廷・貴族などの収入源となっていたのは荘園でした。全国各地にあった私有地である荘園からの献上品(=租税)は、朝廷・貴族などの経済的な基盤となっていたのです。
鎌倉幕府が成立すると、初代将軍「源頼朝」(みなもとのよりとも)は、西国の旧平家の荘園に「地頭」(じとう:管理者)を配置。他方、幕府が拠点としていた東国では、多数の荘園が幕府の保護下に入ったことで、朝廷・貴族などへの新たな荘園の寄進がほとんどなくなったと言われています。
東国からの荘園寄進を期待できなくなったことはもちろんですが、朝廷・貴族などの影響力が比較的強く残っていた西国についても、幕府から送り込まれた地頭のいる荘園では、これまでのような租税収入を期待することはできません。
朝廷・貴族などにとって、鎌倉幕府が成立したことで、自分達の経済的基盤が沈下してしまう危険性が増大したのです。政治的権力だけではなく、経済的基盤もなくなってしまいそうな先細りの状況に、朝廷・貴族などの間には焦燥感が漂い始めます。
そんな折、鎌倉幕府においても、大きな転換期を迎えていました。初代将軍・源頼朝が死去すると、2代将軍「頼家」(よりいえ)、3代将軍「実朝」(さねとも)が共に早世。「清和天皇」(せいわてんのう)を祖とする源氏本流の血筋が途絶えてしまったのです。
千載一遇の「大逆転」のチャンス。朝廷の実質的な頂点に君臨していた「後鳥羽上皇」(ごとばじょうこう)が動きます。全国各地の武士に対して、幕府の実質的トップである執権・「北条義時」(ほうじょうよしとき)追討の院宣(いんぜん:上皇の意思を示す文書)を発したのでした。
鎌倉幕府に反旗を翻した後鳥羽上皇は、文武両面で優れた才能を有していた人物。「土御門天皇」(つちみかどてんのう)に譲位したのち、3代、23年間に亘って「院政」を行ない、朝廷の頂点に君臨していた上皇には、全国各地から後ろ盾を求めて荘園の寄進が相次ぎます。そのため、上皇は屈指の荘園保有数を誇っていたのです。
前述したように、鎌倉幕府の施策によって従来通りの荘園収入が得られない事態に陥ることは、朝廷・貴族らにとって経済的なダメージが大きいものでした。これに加えて「治天の君」(ちてんのきみ:事実上の君主として君臨した天皇または上皇)として、権力のトップであることを自負していた後鳥羽上皇にとって、鎌倉幕府によって自らの権限が制限されることは、我慢ならない事態。源氏本流の血筋が途絶え幕府内が混乱していたことで、上皇は武力による幕府打倒を決意します。
後鳥羽上皇の行動は迅速でした。「流鏑馬揃い」(やぶさめぞろい)と称し、西国を中心とした諸国の武士を集めると、北条義時追討の院宣を発します。居合わせた大多数はこれに呼応。幕府に近い立ち位置にあった貴族の「西園寺公経」(さいおんじきんつね)、「西園寺実氏」(さいおんじさねうじ)の身柄を確保して幽閉すると共に、命令を拒んだ京都守護の「伊賀光季」(いがみつすえ)の屋敷を攻撃して討ち取りました。
僧兵に対抗するために創設されていた「北面の武士」に加えて「西面の武士」も創設するなど、朝廷の軍事力が増強したことと相まって、当初は上皇側が優勢でした。
後鳥羽上皇が発した義時追討の院宣によって、東国武士の間に動揺が走ります。上皇と対峙することは、朝敵となること。
当時、武士の間には、天皇は日本を創造した神の系譜を継ぐ存在であると広く信仰されており、朝廷の権威に対する畏れ(おそれ)が残っていたのです。
そんな中、いち早く動いたのが初代将軍・頼朝の妻だった「北条政子」(ほうじょうまさこ)。政子は鎌倉の御所に集まった「御家人」(ごけにん:鎌倉幕府と主従関係を結んだ武士)を前に、次のような言葉で叱咤激励しました。
「皆さん、心をひとつにして聞いて下さい。これは私の最後の言葉です。頼朝様が関東に武士の政権(幕府)を樹立したのち、皆さんの生活も向上したでしょう。すべては頼朝様のお陰。その恩は山よりも高く、海よりも深いのです。
しかし、今その恩を忘れて天皇や上皇を騙し、私達を滅ぼそうとしている者が現れました。名を惜しむ者は(朝廷側についた)藤原秀康(ふじわらひでやす)、三浦胤義(みうらたねよし)らを討ち取り、3代将軍の恩に報いてほしいのです。もし、この中に朝廷側に付こうと言う者がいるのなら、まず私を殺し、鎌倉中を焼き尽くしてから京都に向かいなさい」。
政子の言葉を聞いた御家人達は、一致団結して戦うことを誓います。なかには目に涙を浮かべている者もいました。戦うべき相手は、後鳥羽上皇をはじめとした朝廷ではなく、藤原秀康や三浦胤義ら幕府に弓を引く武士。この論理によって、御家人達の気持ちを和らげると共に、闘争心をかき立てたのです。
政子の異名は「尼将軍」(あましょうぐん)。御家人の心を奮い立たせた巧みな人身掌握術を見ると、こう呼ばれた理由を理解することは可能です。
平静を取り戻した東国武士達でしたが、当初、鎌倉を出発し、東海道から西に向かったのは、18騎にすぎなかったと言われています。もっとも「東海道」、「東山道」、「北陸道」の3ルートに分かれて京を目指すうち、勢力はみるみる拡大。最終的には3道合わせて約19万まで膨れ上がりました。
道中、幾つかの戦いがありましたが、幕府方がことごとく勝利し、その勢いは止まるところを知りません。幕府方が一団となって京を目指していると言う情報に、慌てた朝廷方は「美濃国」(現在の岐阜県)と「尾張国」(現在の愛知県)の国境付近にあった「木曽川」に防衛線を構えて迎え撃つことを画策します。
しかし、この戦いにおいても幕府方の勢いは衰えることはなく、わずか1日で決着。朝廷方は敗走を余儀なくされました。敗色濃厚となった情勢に、朝廷方は最終決戦の地として京の「宇治川」を選びます。豪雨の影響で宇治川が増水していたことに加え、朝廷方が京へと渡るための「宇治橋」を破壊していたことで、幕府方は当初、苦戦していましたが、強引に川を渡って防衛線を突破。京になだれ込み一気に勝負を決めたのです。
鎌倉幕府が編纂したと伝わる歴史書「吾妻鏡」(あずまかがみ/あづまかがみ)によると、後鳥羽上皇は、1221年(承久3年)5月14日に北条義時追討を掲げて、武士達を御所に招集しています。
そしてその翌日、この招集に応じなかった鎌倉幕府の京都守護「伊賀光季」(いがみつすえ)と伊賀光季の子の「伊賀光綱」(いがみつつな)を、官軍に襲わせて自害に追い込みました。
同日に、後鳥羽上皇の院宣に基づく北条義時追討の宣旨(せんじ:天皇や上皇の命を伝える文書のこと)が、正式に発されたのです。承久の乱について記された本「承久記」には、この宣旨の内容が書かれています。
そのなかで後鳥羽上皇は、「北条義時が天皇や朝廷の支配下にあり、勅(ちょく/みことのり:天皇の命令、または言葉)を下しているのにもかかわらず、鎌倉や京都において傍若無人に裁断を下している」とし、北条義時によるこのような政治は、「天皇や朝廷に対する謀反である」ことを明確にしていたのです。
そして上皇から送られた使者が、同年5月19日に討伐宣旨を持って東国へと潜入します。さらには、「三浦義村」(みうらよしむら)など複数の有力御家人にも、宣旨の内容を伝えるために上皇の使者が遣わされました。
このときの北条義時は、上皇や朝廷による倒幕/討幕の動きについて、薄々気付いていたのではないかと言われています。その理由には、北条義時がいた伊豆国(現在の静岡県伊豆半島)には、多くの罪人が配流されて来たこと、また同国は、京都と通じる東海道が近かったため、朝廷関連の情報を容易に入手できていたことなどが挙げられるのです。
そのため北条義時は、幕府が討たれることを覚悟していたと推測されています。この宣旨の内容を知った北条義時は、自身のみならず鎌倉幕府に対しての宣戦布告であると受け取り、朝廷に向けて返書を送ることにしました。
吾妻鏡には、1221年(承久3年)5月27日に、宣旨を携えて鎌倉に潜入し、捕まっていた後鳥羽上皇の使者である「押松丸」(おしまつまる)に返書を持たせて京都へ戻らせた記述があるのです。この北条義時による返書については、鎌倉幕府の年代記「北条九代記」(ほうじょうくだいき)に詳しく書かれています。
同書に記述があるのは、「私はこれまで上皇に忠誠を尽くして参りましたのに、勅命に背いた罪人とされてしまったのは誠に遺憾です。そのため、私の長男「北条泰時」(ほうじょうやすとき)を始めとする190,000人の軍勢をそちらにお送りいたします。
それでもお考えを改めていただけない場合は、私の子である「北条政村」(ほうじょうまさむら)や「北条重時」(ほうじょうしげとき)と共に200,000人の軍勢を率いて、私自身が上皇のもとへ参上いたします」という内容です。この返書からは、毅然とした態度で真っ向から戦おうとする北条義時の強い意志が窺えます。
首謀者である後鳥羽上皇は隠岐へ、「順徳上皇」(じゅんとくじょうこう)は佐渡へと流され、さらに後鳥羽上皇の計画に反対していた「土御門上皇」(つちみかどじょうこう)は自ら望み土佐へ配流。こうして承久の乱は鎌倉幕府の勝利で幕を閉じました。
その勝敗の分かれ目は、後鳥羽上皇方の油断にあったと言えます。上皇には、義時追討の院宣を出したことで、全国の武士が鎌倉幕府打倒に向けて立ち上がるだろうという目論見がありました。確かに、院宣が出されたことによって、御家人を中心とした東国武士の間に動揺が走ったことから、院宣に大きな影響力があったことは事実。
しかし、その効果は、鎌倉幕府方の迅速・的確な対応によって、限定されたものになったのです。幕府方の迅速・的確な対応を可能にしたキーマンは伊賀光季でした。光季は、朝廷方の襲撃を受けて討ち死にしたことは前述した通りですが、それに先立って、勝敗を左右する重要な行動に出ていたのです。
それが幕府方に後鳥羽上皇による挙兵の動きを知らせたこと。その中には、上皇が東国の武士に対して「(倒幕を実現した際の)褒賞は思いのまま」という旨の密書をしたためているとの情報も入っていました。上皇の謀略を知った光季は、その夜のうちに使者を送ります。対照的に、上皇方の使者が京を出発したのは翌朝。結果的に、この差が決定的なものとなったのです。
また、当時、京から鎌倉までは早馬で7日間はかかっていたと言われていますが、光季の使者は3日半で駆け抜けたと言われています。こうして後鳥羽上皇の挙兵、及び東国の武士にも上皇からの密書が送られる情報をいち早く掴んだことで、御家人の間に広がった動揺を最小限に抑えると共に、幕府方に対策を練る時間が生まれました。これが北条政子による御家人への大演説へとつながっていったのです。情報戦を制したことで、幕府方が勝利を手中に収めることができたと言えます。
圧勝した幕府方による戦後処理は、朝廷方にとって厳しいものになりました。後鳥羽上皇をはじめとした3上皇はいずれも配流。加えて、乱の首謀者・後鳥羽上皇の傀儡(かいらい:思いのままに操られる人間)だった「仲恭天皇」(ちゅうきょうてんのう)は廃位され、後継として後鳥羽上皇の兄(行助法親王:ぎょうじょほうしんのう)の子が「後堀河天皇」として即位します。
そして、後鳥羽上皇らが有していた荘園をすべて没収。その数は約3,000とも言われています。これらの地に新たに「新補地頭」(しんぽじとう)を配することで、鎌倉幕府の影響力は、全国に拡大していくこととなったのでした。
承久の乱後、幕府方の総大将を務めた北条泰時と、おじの「北条時房」(ときふさ)は、そのまま京に留まり、旧「平清盛」邸に新しい幕府の機関を立ち上げます。それが「六波羅探題」(ろくはらたんだい)です。
目的は、西国の御家人の統括と朝廷の監視。以後、六波羅探題は幕府の出先機関として、朝廷をはじめとした西国勢力による幕府への反逆行動を抑える重要な役割を果たします。
こうして、六波羅探題は鎌倉幕府において、政務を統括する「執権」(しっけん)、それを補助する「連署」(れんしょ)に次ぐ、重職になっていったのでした。
承久の乱によって、武士と朝廷の力関係は完全に逆転しました。戦後、鎌倉幕府に近い立ち位置だった西園寺公経が重用されたことで、朝廷の幕府に対するスタンスも変化。それまでとは異なり、幕府への従属姿勢を示すようになります。
皇位継承についても幕府が管理・統制するようになると、朝廷はすべての事柄について幕府にお伺いを立てるように。名実ともに武家政権が日本を統治することとなりました。朝廷は、武家政権(幕府)の権威付けを行なう機関のようになり、この関係は、江戸時代が終わるまで継続していくこととなります。その意味で、承久の乱は歴史上の転換点という意義も有しているのです。