奈良県奈良市にある国立公園「平城宮跡歴史公園」(へいじょうぐうせきれきしこうえん)は、かつて「平城京」と称される都が築かれていた跡地です。平城京は、710年(和銅3年)に「藤原京」から遷都されたあと、「長岡京」(ながおかきょう)に都が移される784年(延暦3年)まで、現在の奈良県にある奈良市西部の一部、中心部及び大和郡山市北部に置かれていました。平城京への遷都が行われた歴史的背景について見ていきます。
平城京は、43代天皇「元明天皇」(げんめいてんのう)によって、710年(和銅3年)に、「藤原京」(現在の奈良県橿原市、及び明日香村)から遷都されました。元明天皇は、38代天皇「天智天皇」(てんじてんのう/てんぢてんのう)の娘です。
日本の都は一時期、「難波京」(なにわきょう:現在の大阪府大阪市)に移されましたが、再び平城京に遷都し、50代天皇「桓武天皇」(かんむてんのう)が、最終的に「長岡京」(現在の京都府向日市、長岡京市、及び京都市西京区)に都を移すまで栄えました。
元明天皇が、藤原京を捨てて平城京へ遷都した理由には諸説あり、歴史的事実としては明確になっていません。しかし、平城京への遷都は、元明天皇がひとりで決めたことではなかったと言われています。元明天皇の先代に当たる「文武天皇」(もんむてんのう)の時代には、すでに平城京への遷都が議論されていました。
しかし文武天皇は、707年(慶雲4年)6月、25歳の若さで崩御してしまいます。残された皇子はまだ幼く、文武天皇の母である「阿閇皇女」(あへのひめみこ)が第43代天皇として即位し、元明天皇となったのです。このとき、元号が「慶雲」(けいうん)から「和銅」(わどう)に改められ、平城京に遷都することとなりました。
そのあと、715年(霊亀元年)に、元明天皇の娘が即位して、44代天皇「元正天皇」(げんしょうてんのう)になります。さらに724年(神亀元年)には、文武天皇の皇子が即位し、45代天皇「聖武天皇」(しょうむてんのう)となったのです。
740年(天平12年)に起こったクーデターである「藤原広嗣の乱」(ふじわらのひろつぐのらん)を機に、聖武天皇は、都を平城京から「恭仁京」(くにきょう)へ移しました。
しかし、都の造営が完了しないまま、744年(天平16年)には、難波京へと遷都したのです。そして翌745年(天平17年)、日本の都は、再び平城京へ戻されています。そのあと、784年(延暦3年)、桓武天皇によって長岡京へ遷都されるまで、平城京は都として繁栄しました。
平城京へ遷都された理由は諸説ありますが、なかでも有力視されているのは、より立派な都を築くことによって、国内外に天皇の権力、並びに支配力を見せ付けるためだったと言う説です。
平城宮の中心には、政治、儀式を行う「大極殿」(だいごくでん)や、「内裏」(だいり:皇居のこと)を中心として、諸官省が置かれた「宮城」(きゅうじょう:別称大内裏[だいだいり])の正庁に当たる「朝堂院」(ちょうどういん)などが集まっていました。特に「第一次大極殿」は、横44m、縦20mの面積を有しており、これは、平城京の中でも最大と言われる広さだったのです。
圧倒されるほど大規模であった平城京の宮城は「平城宮」(へいじょうきゅう)と呼ばれ、当時は、天皇がその中心に鎮座しています。君主や国家の命令により、外国から派遣されて来た使節は、この平城宮で天皇に謁見(えっけん:貴人や目上の人に目通りすること)していました。これにより、日本の国力を外国にも見せ付けていたのです。
その他の説としては、藤原京が、衛生的に問題のある環境であったことも挙げられます。藤原京は、山に囲まれた凹地(くぼち)になっており、水はけが悪い場所でした。そのため病気が蔓延しやすく、天皇が暮らすには適さない地域であったと言われているのです。
平城京のモデルとなったのは「唐」(現在の中国)の都である「長安」(ちょうあん)だったと伝えられています。長安の都は方形に仕切られた区画(坊)ごとに、高い壁で仕切られており、他の坊への移動ができないようになっていました。これは異なる宗教、異なる民族を住み分けさせるためだったとされています。
しかし平城京には、長安のような坊はありませんでした。当時の日本には、唐ほど多種多様な人達が住んでいた訳ではなかったからです。中国の都が平城京のモデルになったのは、見た目だけではありません。風水学的な要素も関係しています。
古代中国の神話では、北に山(玄武[げんぶ])、西に道(白虎[びゃっこ])、南に池(朱雀[すざく・すじゃく])、東に川(青龍[せいりゅう])があり、四方を四神に守られていると伝えられていました。平城京も同じような地形であったことが、都が平城京に移された理由のひとつだったとも言われています。
平城京が栄えた奈良時代には、「天平文化」(てんぴょうぶんか)が発達しました。天平文化は、聖武天皇が在位していた8世紀前半頃に、貴族など身分の高い人々の間で広まった仏教文化です。天平文化には、中国へ渡った「遣唐使」(けんとうし:唐に派遣された日本からの使節団)や、唐からの留学生、及び僧侶達から伝えられた、中国の文化の影響を色濃く受けている特徴があります。
聖武天皇の時代には、「藤原不比等」(ふじわらのふひと)と、その子ども達による権力争いや、天然痘の流行など、様々なトラブルが絶えませんでした。
特に天然痘は猛威をふるい、藤原不比等の4人の息子達が、次々と亡くなったほどです。このような事態が起こったことから、聖武天皇は仏教を深く信仰し、仏教によって国を護ろう(まもろう)とする、「鎮護国家思想」(ちんごこっかしそう)を取り入れるようになります。
天平文化における建造物として有名なのは、「東大寺」(とうだいじ:奈良県奈良市)の大仏です。
聖武天皇は本尊として、世界最大の大仏である「廬舎那仏」(るしゃなぶつ)を造営し、752年(天平勝宝4年)には、「開眼供養会」(かいげんくようえ:魂入れの儀式)を盛大に執り行いました。
なお、2010年(平成22年)には、聖武天皇の遺品である刀が出土しています。
それまで聖武天皇の刀は、行方不明とされていましたが、保存修理の際に東大寺の大仏殿から、「陽宝剣」(ようのほうけん)と「陰宝剣」(いんのほうけん)が発見されたのです。