奈良県奈良市にある「東大寺」は、奈良時代に都を襲った厄災から、国家の隆昌(りゅうしょう:栄えること)と民衆の安寧を祈願するために建立された寺院。そしてその東大寺には、遣唐使が持ち帰った文化が随所に活かされています。東大寺によってさらに文化が醸成される効果が生まれたのです。東大寺に大仏殿が建立されるまでの経緯について解説すると共に、そのあとの焼失と、民衆の力を得て復興された東大寺の魅力も合わせてご紹介します。
東大寺は奈良県にある華厳宗(けごんしゅう)の大本山で、現在では同寺に鎮座する大仏が有名な観光名所となっています。
しかし、建設当初から東大寺と言う名前で呼ばれていたわけではありませんでした。その前身は、若草山の麓(ふもと)に建立された「金鍾山寺」(きんしょうさんじ)。
同寺は45代天皇「聖武天皇」(しょうむてんのう)が即位して間もなく生まれた第1皇子「基皇子」(もといのみこ)が1年もせずに亡くなったため、供養する目的で728年(神亀5年)に建てられています。聖武天皇の時代には、地震などの天変地異が多く起こって民衆の不安が掻き立てられ、政情もなかなか安定しませんでした。
さらに干ばつによる凶作が飢饉を招き、天然痘の流行によって多くの人が亡くなると言う事態も重なっていたのです。そのため多くの民衆は心底疲弊し、安寧を求めていました。
なんとか世に平安をもたらしたいと考えた聖武天皇は、741年(天平13年)に各地で国家の安寧と隆昌を祈願するために、「国分寺」(こくぶんじ)と「国分尼寺」(こくぶんにじ)を建立する旨の詔(みことのり:天皇の命令)を発します。
同時に疫病や厄災を鎮めるために、「平城京」(へいじょうきょう:現在の奈良県奈良市西部、及び大和郡山市北部)から数ヵ所を経て、「紫香楽宮」(しがらきのみや:現在の滋賀県甲賀市)に遷されて(うつされて)いた都を平城京へ戻し、国分寺を「金光明寺」(こんこうみょうじ)、国分尼寺を「法華寺」(ほっけじ)としました。
このときに金鍾山寺は昇格して、「大和金光明寺」となります。そのあと747年(天平19年)に大仏の鋳造が始まった頃から、東大寺の寺号が用いられるようになったのです。
聖武天皇が行っていたのは、「国家仏教」の方針が色濃く出ていた政治でした。740年(天平12年)に「恭仁京」(くにきょう)(現在の京都府木津川市)へ遷都した聖武天皇は、前述した「紫香楽宮」と称される離宮において、造仏工事を開始させたのです。
743年(天平15年)には、「廬舎那仏」(るしゃなぶつ:華厳経で中心的な存在とされる仏)建立の詔を発布し、仏像造立をさらに推し進めますが、同時期に山火事や地震が重なったため、滞っていました。
そこで聖武天皇は、工事を取りやめて再び都を平城京へ戻すことを決めたのです。都が平城京に戻って間もない745年(天平17年)8月に、「大仏造顕の詔」(だいぶつぞうけんのみことのり)を発令し、金鍾山寺の寺地で改めて、大仏を建立する工事が始まりました。
そして752年(天平勝宝4年)、東大寺において「開眼供養」(かいげんくよう)が行われます。開眼供養とは、仏像に目を描きこんで魂を入れる法要のこと。
当時、聖武天皇は娘の「孝謙天皇」(こうけんてんのう)に譲位して「太上天皇」(だいじょうてんのう:譲位した天皇の呼称)となっていたのです。そのなかで聖武天皇は、さらに仏教への帰依(きえ:仏など優れた者に対して、全身全霊でその力にすがること)を強めており、東大寺の大仏は、ついに完成を迎えたのです。
奈良時代には、律令国家が形成されたことによって中央集権的な国家体制が整い、富が中央に集まるようになりました。
また当時の日本は、世界各地から人・文化・物流が交差する唐の都「長安」(ちょうあん)に遣唐使の派遣も行っていたのです。
遣唐使によって持ち帰られた唐の文化は、日本の文化に大きな影響を与えたと言われています。
富を得た貴族が唐を始めとする異国の文化に触れたことにより、高度な貴族文化である「天平文化」(てんぴょうぶんか)が花開いたのです。天平文化の発展と前後して、「古事記」(こじき)や「日本書紀」(にほんしょき)「続日本紀」(しょくにほんぎ)、「日本後紀」(にほんこうき)など古代の歴史書の編纂も盛んに行われました。
また、漢詩集や日本古来に伝わる和歌を集めた「万葉集」(まんようしゅう)、「風土記」(ふどき)などの文芸書も編纂されるようになったのです。このように日本では、異国の文化を取り入れつつ、日本独自の文化が栄えた時代となりました。
東大寺の正倉院宝庫(しょうそういんほうこ)とは、東大寺大仏殿の北北西に位置する校倉造(あぜくらづくり)の大規模な高床式倉庫です。756年(天平勝宝8年)に、聖武太上天皇の七回忌に際して天皇の遺愛品が大仏に奉献され、正倉院に納められています。
これ以降、東大寺正倉院宝庫には、聖武天皇ゆかりの品を始め、天平文化の時代を代表する多数の美術工芸品が収蔵されるようになったのです。東大寺正倉院宝庫は1997年(平成9年)に国宝に指定され、1998年(平成10年)には、古都・奈良における文化財の一部として、ユネスコの世界文化遺産に登録されました。
東大寺の正倉院宝庫に納められている絵画や絵巻物、工芸品や楽器のなかには、遣唐使が持ち帰った唐の文化の影響を受けた物が多く収蔵されています。その他にも、庶民の日用品やシルクロードを通って運ばれて来た「ササン朝ペルシア」(イランの王朝)やインドといった西方の品々など、国際色豊かで多種多様な品々も見られるのです。
なお、東大寺の正倉院宝庫には聖武天皇の遺品とされる2振の日本刀も残っています。それらの刀は2010年(平成22年)に、約1,250年もの間、行方不明とされていた「陽宝剣」(ようのほうけん)と「陰宝剣」(いんのほうけん)であることが判明しました。
奈良時代が終わり平安時代に入っても、東大寺の修理と造営は続けられていました。
855年(斉衡2年)の大地震で大仏の頭が落ちてしまいますが、「真如法親王」(しんにょほっしんのう)によって修復されています。
しかし、そのあとも火事や落雷などによって、講堂や「三面僧房」(さんめんそうぼう)、西塔などが次々と焼失し、ついには南大門や大鐘楼(だいしょうろう)も倒壊してしまったのです。
さらに1180年(治承4年)には「平清盛」(たいらのきよもり)の命を受けた「平重衡」(たいらのしげひら)の軍勢による「南都焼討」(なんとやきうち)によって、大仏殿を始めとした伽藍(がらん:大きな寺院の建物)の大半が焼失する事態となりました。
南都焼討が実行されたのは、東大寺が平氏政権に反抗的な態度を取っていたため、寺社勢力を討伐することが目的だったと言われています。
厄災続きの東大寺でしたが、1181年(治承5年)には「俊乗房重源」(しゅんじょうぼうちょうげん)が復興事業に着手し、鎌倉幕府、特に「源頼朝」(みなもとのよりとも)の全面協力を得て復興工事が進められます。
そして4年後の1185年(文治元年)には、「後白河法皇」(ごしらかわほうおう)を導師として大仏開眼供養が行われたのです。
この際に「元」(げん:当時の中国王朝)から移入した最新の建築様式が導入されています。さらに翌1186年(文治2年)に「周防国」(現在の山口県東部)が「東大寺造営料国」(とうだいじぞうえいりょうこく)となり、東大寺再建のために費用や材料を提供するようになりました。
復興事業は着々と進み、1195年(建久6年)には「大仏殿落慶供養」(だいぶつでんらっけいくよう)が営まれ、13世紀前半には東塔が完成したのです。
戦国時代に入った1567年(永禄10年)、大和東大寺周辺で半年間に亘る市街戦が繰り広げられました。
これは「三好義継」(みよしよしつぐ)と「松永久秀」(まつながひさひで)が対立したことから始まった戦いであり、「三好・松永の乱」と呼ばれています。松永久秀の軍勢は、東大寺大仏殿に陣を構えていた三好義継らに夜討ちを仕掛けました。
その結果、大仏殿や講堂を始め、多くの建造物が焼失してしまい、大仏も原形を留めないほど溶けて崩れてしまいます。そして、わずかな建物を残して、東大寺のほとんどが灰燼(かいじん)に帰したのです。
乱世の時代には十分な修理や復興をすることは難しくそのあと、東大寺の修理が始まったのは江戸時代に入ってからでした。
1684年(天和4年/貞享元年)に、華厳宗の僧「公慶」(こうけい)が勧進(かんじん:寺社・仏像の建立や修繕のため寄付をつのること)を開始したことにより、東大寺の復興事業が進み出します。奈良の町では「大仏講」と称する組織が作られ、勧進帳の作成などによって大仏復興への気運が一気に盛り上がりました。
そして、1691年(元禄4年)には大仏の修理が完了し、翌1692年(元5年)、再び大仏開眼供養が営まれています。このように東大寺の大仏は、奈良時代や鎌倉時代、江戸時代と幾度も焼失と復旧を繰り返してきたため、部分ごとに修復の時代が異なると言う特徴が見られるのです。