「永享の乱」(えいきょうのらん)は、1438年(永享10年)に関東で起こった戦乱です。この戦は「鎌倉公方」(かまくらくぼう:室町幕府が設置した鎌倉府の長官)であった「足利持氏」(あしかがもちうじ)と「関東管領」(かんとうかんれい:鎌倉公方を補佐する役職)であった「上杉憲実」(うえすぎのりざね)との直接対決となりました。永享の乱は京都に置かれていた室町幕府の6代将軍「足利義教」(あしかがよしのり)と足利持氏との対立が原因で起こったと言われています。永享の乱が、どのような戦乱だったのか詳しくご紹介します。
足利基氏が鎌倉公方を務めた代の室町幕府将軍は、兄である2代将軍「足利義詮」(あしかがよしあきら)です。
この頃は、鎌倉公方と将軍との関係はまだ良好でしたが、3代将軍「足利義満」(あしかがよしみつ)と鎌倉公方「足利氏満」(あしかがうじみつ)の頃から対立が深まりました。あろうことか足利氏満は、足利義満がいるにもかかわらず自らが将軍になろうとしたのです。
このときは関東管領「上杉憲春」(うえすぎのりはる)が諌死(かんし:死によって目上の人をいさめること)して足利氏満の謀反を阻止しました。しかし、次の関東管領「上杉憲方」(うえすぎのりかた)は将軍寄りの立場を取ったため、今度は鎌倉公方と関東管領が対立することとなったのです。
時代が変わり4代将軍「足利義持」(あしかがよしもち)のときの鎌倉公方は「足利満兼」(あしかがみつかね)です。足利義持が将軍となったものの、当時はまだ父であった3代将軍・足利義満が隠然たる力を持っており、有力大名の力を弱めるための政策を採っていました。
足利義満の政策に反発する大名達もいました。特に大きな反抗心を見せたのが自ら将軍になろうとする足利満兼です。このときも関東管領である「上杉憲定」(うえすぎのりさだ)がその暴走を阻止します。
のちに、足利満兼は伊豆国(現在の静岡県)にある「三嶋大社」(静岡県三島市)に願文(がんもん:神仏に祈願を伝えるための文書)を捧げて幕府への恭順の意を示しました。
足利満兼が亡くなると、そのあとを継いで鎌倉公方になったのは、当時まだ12歳であった嫡子の足利持氏です。
足利持氏が鎌倉公方を継いだものの、足利持氏の叔父「足利満隆」(あしかがみつたか)も鎌倉公方の地位を狙っていました。このときは、上杉憲定の仲介によりひとまずの和睦(わぼく)が成立しましたが、叔父と甥の関係は微妙なままだったのです。
1415年(応永22年)、足利持氏は18歳になり、当時の関東管領「上杉禅秀」(うえすぎぜんしゅう)と評定(ひょうじょう:会議)の席上で派手な争いを起こします。
実は上杉禅秀は、かねてより足利持氏に対する不満を募らせており、謀反を企んでいたのです。このときの争いを契機に、上杉禅秀は関東管領の職を辞しました。
足利持氏の叔父・足利満隆に、将軍・足利義持に不満を抱く将軍の弟「足利義嗣」(あしかがよしつぐ)が呼応して鎌倉公方に対して謀反を起こす計画が持ち上がりました。
そして、1416年(応永23年)、不満分子が集結して「上杉禅秀の乱」が勃発します。上杉禅秀が足利持氏の御所を急襲したため、足利持氏は鎌倉御所を脱出しました。そして、共に立ち上がった足利満隆が鎌倉公方を名乗ったのです。
しかし、この謀反による争いは約3ヵ月で終息。室町幕府が、足利満隆への討伐命令を関東の諸将に出し鎮圧に向かわせたのです。当初は鎌倉公方の力を弱める絶好の機会であると静観していた室町幕府ですが、放っておくと自分達にも火の粉が振りかかると判断し、討伐命令を出すに至りました。
結果として、上杉禅秀も足利満隆も自害により果てます。将軍の弟・足利義嗣は一緒に謀反に加わるはずでしたが、行動を起こすことはしませんでした。しかし共謀していた事実が発覚し、兄である将軍・足利義持の命により殺されてしまったのです。
1418年(応永25年)、関東管領であった「上杉憲基」(うえすぎのりもと)が27歳という若さで亡くなったため、1419年(応永26年)に上杉憲基の養子・上杉憲実が、わずか10歳で関東管領の職を継ぎます。そして鎌倉公方である足利持氏は、22歳の青年へと成長していました。
関東管領である上杉憲実が幼かったため、鎌倉公方を補佐しきれず足利持氏による圧政が始まりました。上杉禅秀の乱の関東管領側に付いていた大名や国人(こくじん:領主)達は次々と弾圧されていったのです。
この動きに危機感を抱いたのが、京都にいる室町幕府の将軍・足利義持でした。足利持氏が弾圧する大名や国人達は、もともと「御家人」(ごけにん:将軍に仕える武士)だったからです。ただし、足利持氏は将軍と戦うつもりまではなく、大きな争いに発展することはありませんでした。
足利義持の死去に伴い、次の将軍はくじ引きで選ばれることとなりました。
現在の京都府八幡市にある「石清水八幡宮」においてくじ引きが行われ、足利義持の弟・足利義教が6代将軍に選ばれます。
これに対して、苦々しく思っていたのが足利持氏です。鎌倉公方であった足利持氏は、足利義持亡きあとの将軍の地位を狙っていました。
そのような背景から、足利持氏は不穏な動きを見せることもありましたが、関東管領である上杉憲実の働きもあって足利持氏と足利義教の間に和睦が成立します。将軍となった足利義教は、上杉憲実を鎌倉公方・足利持氏との仲を取り持つ頼みの綱としていました。
ところが鎌倉公方の足利持氏にとっては、臣下でありながら多くの武士達を従え一大勢力となっていた関東管領の上杉憲実は、目の上のたんこぶのような存在だったのです。そのせいか上杉憲実と足利持氏の2人は、次第に緊迫した関係になっていきました。
1438年(永享10年)、ついに事件が起こります。足利持氏の長男「賢王丸」(けんおうまる)の元服の儀を執り行ったときのことです。
この当時、鎌倉公方の長男の元服時には、室町幕府への臣従の証として、将軍の名から一字を拝領して元服後の名を付けることになっていました。
つまり、慣例では賢王丸は足利義教の「教」の字をもらって元服名とするはずだったのです。
しかし、足利持氏はしきたりを破り、賢王丸に「足利義久」(あしかがよしひさ)と名乗らせます。この行いは将軍に対して反旗を翻したと取られてもおかしくありません。
この命名に反対して儀式への出席を拒否したのが上杉憲実でした。そして上杉憲実は、謀反の疑いで処罰される前に鎌倉を脱出します。足利持氏は、上杉憲実を討伐するために出兵。この事態を予想して各方面に手を打っていたのが将軍である足利義教です。
周辺の武士達に上杉憲実に味方するように命じ、軍勢をも派遣した結果、あっと言う間に足利持氏軍は鎮圧されました。