「厳島の戦い」(いつくしまのたたかい)は戦国大名「陶晴賢」(すえはるかた)と「毛利元就」との争いであり、のちに日本三大奇襲戦と呼ばれるようになりました。厳島の戦いでは、敗退した陶晴賢が約20,000もの大軍を抱えていたのに対して、勝利した毛利元就はわずか4,000程度の軍勢と言う大きな戦力差があったのです。厳島の戦いが勃発した経緯や、毛利元就が戦力差を覆して勝利を収めたのかについてご紹介します。
毛利元就の主君であった大内義隆は公家文化に憧れていたと言われています。嫡男「大内晴持」(おおうちはるもち)を失くして以降、血生臭い軍事面には興味を持たず、ますます公家文化に傾倒。
そして、文治派(ぶんちは:法令・教化により政治を行おうとする派閥)に属する「相良武任」(さがらたけとう)を重用し、武断派(ぶだんは:武力で政治を行おうとする派閥)の陶晴賢らを遠ざけました。武断派の家臣のなかには、主君・大内義隆に対して戦国大名としての資質に疑念を抱く者もいたと言われています。
武断派として遠ざけられていた陶晴賢は、ついに1551年(天文20年)に主君・大内義隆に対してクーデターを起こし、大寧寺(たいねいじ:現在の山口県長門市にある曹洞宗の寺院)において大内義隆を自害に追い込みます。
それ以降、陶晴賢が大内氏の実権を掌握するようになりました。これに反発したのが、同じく大内義隆の家臣であり姻戚でもあった毛利元就と「毛利隆元」(もうりたかもと)親子です。
彼らは1554年(天文23年)に「三本松城の戦い」(さんぼんまつじょうのたたかい)への出陣要請を拒み、陶晴賢との対立姿勢を明確にしました。
陶晴賢との戦いを覚悟した毛利元就は「安芸国」(現在の広島県西部)と「備後国」(現在の広島県東部)のほとんどを制圧するなどして着々と対抗する準備を進めていったのです。
厳島の戦いが起きる前年の1554年(天文23年)、陶晴賢はついに「宮川房長」(みやがわふさなが)に毛利元就の討伐を命じます。援軍のあても籠城に耐える城もない毛利元就に対して、宮川房長の軍勢は約7,000人でした。
このような圧倒的な戦力差にもひるまず、毛利元就は自軍を複数に分けて敵軍を囲い込み、たった1日で宮川房長を蹴散らしたのです。こうして、陶晴賢と毛利元就との争いは、厳島の戦いへとなだれ込んでいきました。
1555年(弘治元年)に起きた厳島の戦いにおいて、毛利元就は戦力差を覆す劇的な勝利を収めました。
その背景には数々の作戦と見事な奇襲戦があったことから、厳島の戦いは日本三大奇襲戦のひとつに数えられています。
陶晴賢との決戦を前にした毛利元就は、陶晴賢側の重臣「江良房栄」(えらふさひで)を寝返らせようと画策。結局これは実現しませんでしたが、毛利元就はそのあとも「江良房栄に謀反の疑いあり」と言う噂を陶晴賢の周辺に流し続けました。
自らも主君を裏切った経緯があったことから家臣を信じ切れなかった陶晴賢は、ついに江良房栄を殺害し、厳島の戦いを前に大切な戦力を自ら切り捨ててしまったのです。
姻戚関係を結んで「村上水軍」(むらかみすいぐん:当時の瀬戸内海で活躍していた海賊衆)の援軍を得た毛利元就は、敵に悟られないよう夜の間に厳島に渡ります。豪雨により移動の気配がかき消されたため、陶晴賢の軍勢がそれに気づくことはありませんでした。
そして1555年(弘治元年)10月1日、二手に分かれた毛利元就軍は夜明けと共に一斉に奇襲を開始したのです。陶晴賢の軍勢はまともな反撃もできずに壊滅。大将・陶晴賢は厳島から出ることも叶わず、自害に追い込まれました。
厳島の戦いで勝利を収めた毛利元就は、1497年(明応6年)に「毛利弘元」(もうりひろもと)の次男として誕生。
当時の毛利家は単なる安芸国の国人領主(大名の代わりに在地で土地を治める領主)にすぎませんでしたが、毛利元就は一族の結束を訴え続け、ついには中国地方の覇者へとのぼり詰めたのです。毛利元就が実質的に1代で築き上げた毛利家は、そののち江戸時代末期に至るまで長くその名を残しました。
毛利元就にまつわる逸話として有名なのが、臨終の間際に3人の息子達に説いたと言う「三本の矢」。
1本の脆弱な矢も束になれば頑強になると示し、一族の結束がいかに重要であるか訴えました。
後世に創作された逸話だともされていますが、毛利元就が執筆した「三子教訓状」(さんしきょうくんじょう)の教えを端的に表しているとして、広く親しまれている逸話です。