「天下の悪法」と評された「生類憐みの令」(しょうるいあわれみのれい)は、江戸幕府5代将軍「徳川綱吉」(とくがわつなよし)によって制定されました。1685年(貞享2年)以降、次第に具体化され、牛馬や犬、鳥類を始めとする生類(命のあるもの)の殺生を禁止したのです。生類憐みの令は、徳川綱吉が亡くなる1709年(宝永6年)1月に廃止されるまで続きました。徳川綱吉がなぜこのような法令を発したのか、その理由について解説します。
戦国時代が終結し江戸時代になると、世の人々は、平和な生活を送るようになりました。そんな中で発された法令が「生類憐みの令」であり、平和な時代だったからこそ生まれたと言われています。
1646年(正保3年)、江戸幕府3代将軍「徳川家光」(とくがわいえみつ)の四男として誕生したのが、「徳川綱吉」です。徳川綱吉は、次期将軍になる兄を補佐するために、父から徹底的に「儒学」(じゅがく:中国の「孔子」[こうし]を始祖とする、仁義の道を実践し、上下や秩序の区別を唱える思想)、そして「朱熹」(しゅき)によって、儒学が体系化された学問「朱子学」(しゅしがく)を学ばされました。
このことが、のちに徳川綱吉が目指した、武力に頼らない「文治政治」(ぶんちせいじ)の礎(いしずえ)になったとされています。
徳川綱吉の時代には、歌舞伎や人形浄瑠璃の演目である、「忠臣蔵」(ちゅうしんぐら)の題材となった、「赤穂浪士討ち入り事件」が起こります。
これは1701年(元禄14年)、赤穂藩(現在の兵庫県)3代藩主「浅野内匠頭」(あさのたくみのかみ)が、「江戸城」(東京都千代田区)城内にある松の廊下において「吉良上野介」(きらこうずけのすけ)に対し、積年の恨みを果たすべく日本刀で切り付けた出来事が、発端となった事件。
このとき、徳川綱吉は喧嘩両成敗ではなく、浅野内匠頭のみを切腹の刑に処することを決め、「浅野家」は、お家断絶の憂き目に遭うことになったのです。
そして藩主が不公平に処罰されたと怒った、赤穂藩の家臣ら47人は、「吉良家」に討ち入りし、仇討ちを果たすことに成功。
しかし、最終的には、討ち入りした赤穂浪士も切腹となりました。このときの世間は、赤穂浪士(赤穂義士)達に深く同情し、不公平な裁定を下したと徳川綱吉は、世間からの評判を著しく落としたのです。
赤穂浪士討ち入り事件だけではなく、徳川綱吉の評判を悪くしたのが、「生類憐みの令」でした。この背景には、徳川綱吉の母である「桂昌院」(けいしょういん)の存在が、大きく影響したと言われています。
徳川綱吉に世継ぎが生まれないことを心配した桂昌院は、自らが帰依(きえ:神仏や僧侶などにすがること)していた僧侶「隆光」(りゅうこう)に相談しました。すると隆光は、「将軍は前世で殺生したため現世で子どもに恵まれない。世継ぎが欲しければ動物を大切にしなさい。特に戌年(いぬどし)生まれの徳川綱吉は、犬を大切にせよ」と助言したのです。生類憐みの令は、こうして発案されたという説が有力とされています。
しかし、徳川綱吉の時代には、隆光は存在していなかったとも言われており、隆光による助言があったとする事実について、その真偽のほどは、定かにはなっていません。
生類憐みの令の対象は、牛馬などの家畜や犬、猫を始めとして、魚や猿、鳥、亀、蛇、虫、爬虫類にまで及んでいました。そして、大名や武将達の間で盛んに行われていた鷹狩や狩猟にも、制限が加えられることになったのです。
なかでも犬に関しては、細部に亘る規制が設けられ、野犬を収容する大規模な施設が、江戸近郊の四谷(よつや:東京都新宿区)や中野(なかの:東京都中野区)、そして喜多見(きたみ:東京都世田谷区)などに設置されたと伝えられています。
この施設運営には、犬のえさ代など莫大な費用がかかり、金の無駄遣いだという批判があったことに加え、違反者に対する処罰も大変厳しかったため、世間からの悪評を高める結果となりました。
その一方で、この生類憐みの令が、再評価される動きもあります。その理由は、同法令の対象が、必ずしも動物だけに向けたものではなかったからです。
生類憐みの令には、子どもをむやみに捨ててはならない、そして、捨て子や病人といった弱者を保護する規制も含まれていました。徳川綱吉は、儒教の教えを世に広めるために、生類憐みの令を発したとも考えられているのです。
生類憐みの令を発したことにより、「犬公方」(いぬくぼう)と世間から揶揄された徳川綱吉。
そんな彼を支えたのが、「柳沢吉保」(やなぎさわよしやす)です。柳沢吉保はもともと、徳川綱吉が館林藩主であった頃から家臣として仕え、徳川綱吉が江戸城に入ると同時に、「幕臣」(ばくしん:将軍直属の家臣)となりました。
柳沢吉保は元禄年間(1688~1704年)頃、大老格として権力を握っていた人物であり、徳川綱吉からの寵愛を受けていたと伝えられています。
その証しと言えるのが、現在の東京都文京区にある「六義園」(りくぎえん)です。六義園は、江戸の二大庭園に数えられるほど美しい庭園であり、現在は公園として整備され、一般にも公開されている観光スポット。加賀藩(現在の石川県)の下屋敷(しもやしき)があった跡地を徳川綱吉から拝領し、柳沢吉保自身が、その下屋敷として建てた大名庭園です。
戦国時代より、戦で武功を挙げるなど手柄を立てた武将達には、その褒美として、主君から刀を賜る習わしがありました。
江戸時代に入ってもそれは変わらず、「徳川将軍家」では、家臣達への贈答用とするための日本刀を当時の刀工に数多く作らせていたのです。
戦国時代とは異なり、平和な世の中になった江戸時代。そのため日本刀は、戦闘用ではなく、忠義の証しや大名の格付けを象徴する重要なアイテムとなっていきました。そんな日本刀は、柳沢吉保を始めとして、生類憐みの令を発した徳川綱吉を支える「柳沢家」にも、徳川綱吉から贈られています。
その中のひとつが、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した、山城国(現在の京都府南部)の名工「来国光」(らいくにみつ)による作刀。柳沢吉保の長男「柳沢吉里」(やなぎさわよしさと)が、初めて徳川綱吉に謁見する際に、引出物として下賜された名刀です。
江戸幕府の公式史書「徳川実紀」(とくがわじっき)にもその記録が残されており、徳川綱吉が柳沢吉保だけではなく、その息子、ひいては柳沢家全体を目に掛けていたことが窺えます。