「天明の大飢饉」(てんめいのだいききん)とは、1782~1788年(天明2~8年)にかけて起きた大飢饉であり、「享保の大飢饉」(きょうほうのだいききん)、「天保の大飢饉」(てんぽうのだいききん)と並んで、「江戸三大飢饉」(えどさんだいききん)のひとつに数えられています。 1732 年(享保 17年)に発生した享保の大飢饉では、被害に遭った地域は西日本が中心でした。しかし、「天明の大飢饉」は全国規模で被害が拡大。江戸三大飢饉の中で、最も被害が深刻だったと言われているのです。 今回は、天明の大飢饉が起こった原因と、その後の「百姓一揆」や「打ちこわし」、そして、政策として実施された「寛政の改革」(かんせいのかいかく)についても、併せて解説します。
1782年(天明2年)から東北地方を中心に、東日本が悪天候に見舞われ、翌1783年(天明3年)は、異常低温の年になりました。春が間近に迫っても気温は一向に上がらず、雨が降り続き、日本各地で洪水が起きるありさまだったのです。
夏になっても晴れることは稀で、冬のような寒さが続き、真夏に厚手の服が必要なくらいだったと言われています。長引く悪天候や日照不足による冷害により、農作物はまったく育たず、なかには、米の収穫高がほとんどなかった地域もありました。
そんな中、1783年(天明3年)3月には「岩木山」(いわきさん:青森県弘前市)、7月には「浅間山」(あさまやま:長野県北佐久郡、及び群馬県吾妻郡)が噴火し、噴煙柱(ふんえんちゅう)の崩壊による火砕流が発生しました。
特に浅間山では、噴火により北東山麓方向へ流れ出した吾妻火砕流(あづまかさいりゅう)の距離は、山頂から約8㎞にも及んだと言われています。この噴火で、現在の嬬恋村・鎌原(つまごいむら・かんばら)地区の住宅152戸が火砕流に飲み込まれ、483人が亡くなりました。さらには、群馬県内の犠牲者が、1,400人以上にも及ぶ事態となったのです。
そして、田畑が火山灰で埋まり、日照不足による冷害がさらに拡大。深刻な飢餓を引き起こすことになりました。そのあと、赤痢のような疫病が蔓延したことで、飢饉における被害に、追い打ちをかけたのです。
最も被害が酷かったのは弘前藩(現在の青森県、通称[津軽藩])であり、餓死者は約80,000人とも言われ、多くの人が命を落としました。なかには同藩から逃げ出す者もいて、死者と合わせて、人口の半数近くを失うほどの被害だったのです。
1783年(天明3年)に悪天候のため大凶作となり、翌年まで飢饉が続きます。1786年(天明6年)には、異常乾燥と洪水が重なって再び大凶作となり、翌年まで食糧不足が長引くことに。天明の大飢饉の間に餓死した人数は、最終的に、全国で900,000人以上に及んだと言われています。
このような大飢饉により、人々の暮らしは困窮を極めていくことに。その状況を打破しようと、全国各地で「百姓一揆」や「打ちこわし」が頻発していたのです。
映画やドラマでの百姓一揆や打ちこわしは、激しいシーンであることから、過激な暴動だと認識されることが多いのですが、百姓一揆や打ちこわしは、実際には秩序あるデモ行為でした。
百姓一揆の場合、農民の証しである「蓑笠」(みのかさ)と農具を身にまとい、交渉を求めるのが本来の様式だったのです。日本刀などの武具を使って、人を脅して傷付けたり、盗難や放火のような犯罪行為に及んだりすることは、ほとんどありませんでした。
そんな百姓一揆と打ちこわしに共通していた要因の多くが、自然災害や大飢饉。その一方で両者には、違いも見られています。百姓一揆とは、領主や村役人に対して、農民が年貢の減免を求める行為であり、一方で打ちこわしは、都市に住む民衆が商人に対し、米価の引き下げを求める行為だったのです。
全国に被害が拡大した中でも、特に被害が甚大化していたのが、関東や奥羽地方(おううちほう:現在の東北地方)。これらの地域では、雑草や牛、馬、犬、猫のみならず、人肉も食したほどの悲惨な状況であったと言われています。
深刻な食糧不足により米の価格が上昇し、各地で百姓一揆が発生していました。さらには、飢餓に苦しむ人々が地元を離れ、避難民として都市へ移動する人達が続出。江戸や大坂などの大都市では治安が悪化し、貧しい民衆が打ちこわしを起こしたのです。天明の大飢饉に伴う打ちこわしの件数は、江戸時代の中でも最大であったと伝えられています。
自然災害だけでなく、当時の江戸幕府や各藩の政策も、大飢饉が引き起こした甚大な被害状況を、さらに混乱させた要因のひとつだったのです。例えば、飢饉に襲われても藩同士がお互いを援助することはなく、むしろ自分達の食糧を守るために、物資を流出させない「津留」(つどめ)という処置を採っていました。
また、江戸時代には、全国規模で米の増産が強いられており、気候条件や土壌の品質が米栽培に向かない東北地方では、災害時のために食糧を備蓄する余裕がなかったことも、東北地方において、深刻な飢餓を招いた原因だと言われています。
さらにこの当時は、江戸幕府10代将軍「徳川家治」(とくがわいえはる)に重用された「田沼意次」(たぬまおきつぐ)が、同幕府の最高職「老中」(ろうじゅう)の座に就き、政務一般を司っていました。その中で田沼意次は、江戸幕府の財源を農民からの年貢に頼るのではなく、商業を重視して発展させることで、商人にも税を課す「重商主義政策」を打ち出します。
この政策のもと、商業的農業を公認し、年貢増徴策を採って、庶民の生活を豊かにすることに成功した人物です。その一方で、豪商達を優遇していたため賄賂政治が横行し、下層からの搾取を生むことになり、幕政は腐敗しました。天明の大飢饉のさなか、このような幕政に対する不満が高まって、百姓一揆や打ちこわしが各地で勃発、激化していきます。
そして、最終的に田沼意次は、辞任に追い込まれることとなったのです。
天明の大飢饉のあと、社会不安が高まり、江戸幕府における財政も危機に見舞われました。この時、幕政を立て直すために、老中であった白河藩(現在の福島県白河市)藩主「松平定信」(まつだいらさだのぶ)によって行われたのが、「寛政の改革」(かんせいのかいかく)です。
寛政の改革は、江戸幕府8代将軍「徳川吉宗」(とくがわよしむね)が行った「享保の改革」をモデルにした幕政改革であり、1787~1793年(天明7年~寛政5年) の6年間に亘って実施されました。その中で松平定信は、天明の大飢饉を教訓に、経済政策として、大名達に穀物の備蓄を命じています。
これは、「囲い米」(かこいまい)と呼ばれ、明治時代まで続けられた制度です。また、インフラ整備のために、町で積み立てる救済基金の「七分積金」(しちぶつみきん)を、江戸の各町に命じました。蔵米取りの御家人(徳川将軍家に仕える、1万石未満の直臣[じきしん])の中には、経済的に困難を極め、住居を失った者もいました。
そのような御家人に対して松平定信は、1789年(天明9年/寛政元年)に、「棄捐令」(きえんれい)を発しています。棄捐令とは、言わば借金の帳消しに近い法令。「札差」(ふださし:金貸業者)からの借金のうち、1784年(天明4年)以前に借りた分は返済を免除とし、それ以後の借金についても、低利での年賦返済を許したのです。
棄捐令の発布当初は、喜んでいた御家人達でしたが、当然ながら、札差が貸付を拒むようになったため、結局は生活に困り、江戸幕府への不満が高まる原因となりました。寛政の改革は一定の成果を上げましたが、民衆にとって厳しい政治には批判が集まり、松平定信は、老中の座を辞すこととなったのです。