江戸時代

安政の大獄
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安政の大獄 安政の大獄
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江戸時代末期は欧米の文化や影響が流入し、日本が大きく変わった時期です。特に1853年(嘉永6年)に「マシュー・ペリー」の率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊が日本に来航したことによって日本の政情は大きく変化し、天皇の勅許(ちょっきょ:天皇の命令)を受けないまま幕府の大老達が「日米修好通商条約」を締結しました。これを契機に幕府への反発が高まり、幕府は批判勢力へ大弾圧を行い、安政の大獄へと発展していきました。今回は大規模な弾圧事件となった安政の大獄と、中心人物となった大老「井伊直弼」(いいなおすけ)についても合わせてご紹介します。

安政の大獄とは

安政の大獄が起こったきっかけ

井伊直弼

井伊直弼

安政の大獄は、1858~1859年(安政5~6年)にかけて江戸幕府が行った大規模な弾圧事件。

当時、幕府の大老であった井伊直弼や老中の「間部詮勝」(まなべあきかつ)は、天皇の勅許を得ずに日本にとって不平等な内容の日米修好通商条約に調印したばかりではなく、将軍の跡継ぎを独断で「徳川家茂」(とくがわいえもち)に決めてしまいます。

そして幕府はこのような処策に反対する勢力に対して徹底的な弾圧を開始。

これが安政の大獄であり、当時は「戊午の大獄」(つちのえうまのたいごく、ぼごのたいごく)または「飯泉喜内初筆一件」(いいずみきないしょひついっけん)とも呼ばれました。

弾圧された人達

安政の大獄により、幕府反対勢力の尊王攘夷一派、一橋派の大名や公卿達が弾圧されました。一橋派は次期将軍として「一橋慶喜」(ひとつばしよしのぶ:のちの江戸幕府第15代将軍徳川慶喜)を推しており、徳川家茂を次期将軍として据えた井伊直弼ら南紀派と真っ向から対立。

幕府側は間部詮勝らが上洛(京都に入ること)し、反幕府派と目された志士や公卿の家臣まで捕縛するという弾圧を行いました。弾圧は「吉田松陰」(よしだしょういん)を含む志士を投獄や流刑、あるいは死罪にするという厳しい内容へと発展します。

徳川斉昭と井伊直弼の対立

徳川斉昭と井伊直弼の対立

吉田松陰は長州藩(現在の山口県)の武士でありながら、教育者・思想家として著名な人物。

投獄中に老中暗殺計画を企んでいたことを告白し、死罪を宣告されることとなったのです。

弾圧された側の連座者は100人を超え、水戸藩(現在の茨城県)藩主である「徳川斉昭」(とくがわなりあき)父子や、越前藩(現在の福井県)藩主の「松平慶永」(まつだいらよしなが)らも処罰。これによって井伊直弼に対する反感がさらに強まり、徐々に井伊直弼は孤立していきます。

安政の大獄から桜田門外の変へ

井伊直弼が襲撃される

安政の大獄

安政の大獄

安政の大獄によって多数の人が処罰・処刑を受け、その恨みは井伊直弼へと集中。

元来、日米修好通商条約締結時、井伊直弼は勅許なしの条約締結には反対の立場でしたが、アメリカの圧力に逆らえず、結果として天皇を無視した形で調印しなければならなかったという経緯があります。

しかし、このような判断がすべて大老という幕府の最高責任者であった井伊直弼の責任とされたため、井伊直弼は運命に翻弄されていくこととなったのです。

ついに1860年(安政7年)の3月の大雪の日「桜田門外の変」(さくらだもんがいのへん)が起こります。江戸城の桜田門外で水戸藩を抜けた脱藩浪士17人と薩摩藩士ひとりが彦根藩の行列を急襲。彼らの狙いは井伊直弼であり、駕籠(かご)に乗っていた井伊直弼は引きずり出され、日本刀で暗殺されたのです。

この間、わずか30分も経っていなかったほどあっという間の出来事だったと言われています。水戸藩の徳川斉昭は、水戸藩存続の危機を察知し、幕府に従う姿勢を見せていました。

井伊直弼の首と体は脱藩浪士によって水戸藩に運び込まれましたが、水戸藩は井伊直弼を病気による死亡であったと幕府に報告。幕府も水戸藩との争いを避けるため、井伊直弼の暗殺を隠して闘病の末に亡くなったことにして、事件は表向き一件落着とされました。

井伊直弼はどういう人物だったのか

彦根藩の藩主であった井伊家

井伊家は藤原北家の後裔(こうえい:子孫)とされており「井伊共保」(いいともやす)を初代の当主とする由緒ある家柄。井伊直弼は大老として手腕を発揮しましたが、江戸幕府における大老職というのは井伊家・酒井家・土井家・堀田家の4家だけが就任できる、いわば特権階級。

初代の大老となった「井伊直孝」(いいなおたか)をはじめ、井伊家から7人が将軍の補佐役である大老の職に就いています。

彦根藩(現在の滋賀県)の15代藩主にして譜代大名(ふだいだいみょう:徳川家の家臣団から取り立てられた大名)であった井伊直弼は、1858年(安政5年)4月に幕府の大老に命じられ、日本の開国と近代化に努めました。

幕末の政治上、重要な役割を果たした井伊直弼ですが、生前の業績に関しては賛否両論あります。井伊直弼と言うと、1858年(安政5年)アメリカとの間に勅許なしで不平等な「日米修好通商条約」を締結したことが注目されがちです。

しかし、藩主としての井伊直弼は彦根藩を9回も視察。生活が苦しい人々には支援を惜しまない領民思いの藩主といった側面も持っており、領民から慕われる藩主と言われていたと伝えられています。

井伊家ゆかりの日本刀

数百年の歴史を持つ井伊家は約600振もの日本刀を所持していましたが、1923年(大正12年)の関東大震災や第二次世界大戦による焼失などで、半数以上が失われました。

現存する井伊家ゆかりの日本刀のなかでも特に有名なのが「虎徹興里」(こてつおきさと)と「一竿子忠綱」(いっかんしただつな)。虎徹興里は井伊直弼の父「井伊直中」(いいなおなか)も愛用したと言われ、1665年(寛文5年)の作とされています。

一方の一竿子忠綱は1713年(正徳3年)の作。井伊家の名刀の一部は、古文書や美術工芸品などとともに彦根城博物館に収蔵されており、往時をしのぶことができます。

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名古屋刀剣ワールド/名古屋刀剣博物館(名博メーハク) 名古屋刀剣ワールド/名古屋刀剣博物館(名博メーハク)
名古屋刀剣ワールド/名古屋刀剣博物館(名博メーハク)では、重要文化財などの貴重な日本刀をご覧いただくことができます。
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