江戸時代末期は欧米の文化や影響が流入し、日本が大きく変わった時期です。特に1853年(嘉永6年)に「マシュー・ペリー」の率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊が日本に来航したことによって日本の政情は大きく変化し、天皇の勅許(ちょっきょ:天皇の命令)を受けないまま幕府の大老達が「日米修好通商条約」を締結しました。これを契機に幕府への反発が高まり、幕府は批判勢力へ大弾圧を行い、安政の大獄へと発展していきました。今回は大規模な弾圧事件となった安政の大獄と、中心人物となった大老「井伊直弼」(いいなおすけ)についても合わせてご紹介します。
安政の大獄によって多数の人が処罰・処刑を受け、その恨みは井伊直弼へと集中。
元来、日米修好通商条約締結時、井伊直弼は勅許なしの条約締結には反対の立場でしたが、アメリカの圧力に逆らえず、結果として天皇を無視した形で調印しなければならなかったという経緯があります。
しかし、このような判断がすべて大老という幕府の最高責任者であった井伊直弼の責任とされたため、井伊直弼は運命に翻弄されていくこととなったのです。
ついに1860年(安政7年)の3月の大雪の日「桜田門外の変」(さくらだもんがいのへん)が起こります。江戸城の桜田門外で水戸藩を抜けた脱藩浪士17人と薩摩藩士ひとりが彦根藩の行列を急襲。彼らの狙いは井伊直弼であり、駕籠(かご)に乗っていた井伊直弼は引きずり出され、日本刀で暗殺されたのです。
この間、わずか30分も経っていなかったほどあっという間の出来事だったと言われています。水戸藩の徳川斉昭は、水戸藩存続の危機を察知し、幕府に従う姿勢を見せていました。
井伊直弼の首と体は脱藩浪士によって水戸藩に運び込まれましたが、水戸藩は井伊直弼を病気による死亡であったと幕府に報告。幕府も水戸藩との争いを避けるため、井伊直弼の暗殺を隠して闘病の末に亡くなったことにして、事件は表向き一件落着とされました。
井伊家は藤原北家の後裔(こうえい:子孫)とされており「井伊共保」(いいともやす)を初代の当主とする由緒ある家柄。井伊直弼は大老として手腕を発揮しましたが、江戸幕府における大老職というのは井伊家・酒井家・土井家・堀田家の4家だけが就任できる、いわば特権階級。
初代の大老となった「井伊直孝」(いいなおたか)をはじめ、井伊家から7人が将軍の補佐役である大老の職に就いています。
彦根藩(現在の滋賀県)の15代藩主にして譜代大名(ふだいだいみょう:徳川家の家臣団から取り立てられた大名)であった井伊直弼は、1858年(安政5年)4月に幕府の大老に命じられ、日本の開国と近代化に努めました。
幕末の政治上、重要な役割を果たした井伊直弼ですが、生前の業績に関しては賛否両論あります。井伊直弼と言うと、1858年(安政5年)アメリカとの間に勅許なしで不平等な「日米修好通商条約」を締結したことが注目されがちです。
しかし、藩主としての井伊直弼は彦根藩を9回も視察。生活が苦しい人々には支援を惜しまない領民思いの藩主といった側面も持っており、領民から慕われる藩主と言われていたと伝えられています。
数百年の歴史を持つ井伊家は約600振もの日本刀を所持していましたが、1923年(大正12年)の関東大震災や第二次世界大戦による焼失などで、半数以上が失われました。
現存する井伊家ゆかりの日本刀のなかでも特に有名なのが「虎徹興里」(こてつおきさと)と「一竿子忠綱」(いっかんしただつな)。虎徹興里は井伊直弼の父「井伊直中」(いいなおなか)も愛用したと言われ、1665年(寛文5年)の作とされています。
一方の一竿子忠綱は1713年(正徳3年)の作。井伊家の名刀の一部は、古文書や美術工芸品などとともに彦根城博物館に収蔵されており、往時をしのぶことができます。