1867年(慶応3年)、江戸幕府15代将軍「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)によって朝廷へ政権を返上する「大政奉還」(たいせいほうかん)が行われました。その直後、元土佐藩士「坂本龍馬」(さかもとりょうま)と「中岡慎太郎」(なかおかしんたろう)は、京都の醤油問屋「近江屋」(おうみや)の2階にいるところを何者かに襲われ、命を落とします。なぜ近江屋事件が起こったのか、あらましと合わせてご紹介します。
坂本龍馬は、元土佐藩(現在の高知県)藩士であり、江戸幕府幕臣の「勝海舟」(かつかいしゅう)が開いた私塾「神戸海軍塾」(こうべかいぐんじゅく)に塾頭として参加。のちに長崎亀山に「亀山社中」(かめやましゃちゅう:のちの海援隊)を設立しました。
1864年(元治元年)に起きた「禁門の変」(きんもんのへん)の敗北により朝敵となったため、表立って武器を購入できない長州藩(現在の山口県)に代わって必要な銃や日本刀・軍艦を薩摩藩(現在の鹿児島県)名義で購入するなど、薩長同盟に大きく貢献。
薩摩から兵庫へ向かう船の中、坂本龍馬は同じ土佐藩士である「後藤象二郎」(ごとうしょうじろう)に、これから日本が近代国家として進むために必要な8つの基本方針「船中八策」(せんちゅうはっさく)を提案しました。
これはのちに後藤象二郎から土佐藩主「山内容堂」(やまうちようどう)に進言され、さらに山内容堂から徳川慶喜に建白(けんぱく:政府や上役に意見を申し立てること)されます。
新しい日本の国造りの構想である船中八策は、薩摩藩・長州藩・土佐藩の藩士によって拡大しはじめました。しかし、「佐幕派」(江戸幕府を補佐する派閥)はこの思想を良く思っていないため、考案した坂本龍馬を敵対視。
ただし、この船中八策は文書の原本が見つかっておらず、坂本龍馬はこのように考えていたという話が、後世にまとめられたのではないかとも言われています。
寺田屋事件では間一髪逃れた坂本龍馬でしたが、1867年(慶応3年)に近江屋事件が発生します。事件はほんの一瞬のことであったと言われています。
その日、坂本龍馬は訪ねてきた土佐藩士の中岡慎太郎と一緒に軍鶏鍋を食べようと「菊谷」と言う宿の息子に軍鶏肉を買いに行かせます。
それから少しした頃、数人の武士が坂本龍馬を訪問。主人が坂本龍馬に取り次ごうとすると、武士はそのまま2階に上がり、坂本龍馬と中岡慎太郎を日本刀で襲撃します。
「北辰一刀流」(ほくしんいっとうりゅう)の免許皆伝であった坂本龍馬ですが、応戦する間もなく前頭部を日本刀で切られてしまい、即死に近い状態で命を落としてしまったのです。
京都の近江屋で数人の武士に日本刀で襲われ命を落とした坂本龍馬ですが、現在でも誰が何のために坂本龍馬を暗殺したのか、犯人すら分かっていません。
坂本龍馬が暗殺された知らせはすぐに土佐藩をはじめ各方面へ伝わりました。
駆け付けた土佐藩御用役「寺村左膳」(てらむらさぜん)は、まだ息のあった中岡慎太郎が「見たことがない者に日本刀で切られた」と語るのを聞いたと言われています。
誰が坂本龍馬を暗殺したのかについてはいくつかの説があり、定まっていません。
見廻り組とは、京都の治安維持のために幕府の役人によって組織された、治安維持部隊。坂本龍馬は、大政奉還や薩長同盟の締結に大きく貢献しましたが、これを快く思っていない幕府の役人や佐幕派が存在しました。
また、寺田屋事件では追手から逃げる際に銃で奉行所の捕り方を殺害していたため、これを恨みに思った見廻り組が暗殺した、という説が有力視されています。
その他にも、薩摩藩が裏で糸を引いていたという「薩摩藩黒幕説」や、紀州藩(現在の和歌山県)が自藩の船の沈没に坂本龍馬がかかわっており、賠償問題で揉めていた「いろは丸事件」の報復として暗殺したという「紀州藩報復説」などがありますが、今も判明していません。坂本龍馬の死の真相はいまだ謎に包まれているのです。