「本多正純」(ほんだまさずみ)は、父の「本多正信」(ほんだまさのぶ)と2代にわたり、「徳川家康」に信頼された重臣です。しかし、徳川家康が没すると、後継者の「徳川秀忠」(とくがわひでただ)に疎まれて失脚しました。その背景には謀略があったのではないかと考えられています。2023年大河ドラマ「どうする家康」では、「井上祐貴」(いのうえゆうき)さんが演じる本多正純の生涯と逸話をご紹介しましょう。
本多正純は1565年(永禄8年)、本多正信の嫡男として生まれました。この父、本多正信は、徳川家康が軍師として重用し、また、親友のようによしみを通じた側近です。
しかし、本多正純が生まれた頃、父の本多正信は、徳川家康の国元・三河国(現在の愛知県東部)を追放されていました。
本田正純は、父・本多正信がそうだったように、戦場で華々しく活躍するよりも、戦略や政策、交渉で徳川家康を支えた参謀タイプでした。
その活躍は、徳川家康が将軍職を徳川秀忠に譲っても実権を握り、大御所政治(おおごしょせいじ:大御所は隠居した将軍の呼称)を始めた頃から本格化します。
この時期から、本田正純は徳川家康の側に仕えるようになり、下野国小山藩(しもつけのくにおやまはん:現在の栃木県小山市)33,000石の大名に取り立てられているのです。
そして、徳川家康が前政権者「豊臣秀吉」の一族を攻めた、1614年(慶長19年)の「大坂冬の陣」で、本田正純は父ゆずりの参謀ぶりを発揮しました。
まず、大坂冬の陣で豊臣方を指揮した「真田幸村」(さなだゆきむら:真田信繁[さなだのぶしげ]とも)に寝返りを持ちかけ、これは実現しなかったものの、停戦交渉をまとめて講和に持ち込んでいます。
また、この講和条件に従って、豊臣家の城「大坂城」(大阪府大阪市)の堀を埋め立てるにあたり、本田正純は約束の外堀だけでなく、二の丸の堀まで埋め立ててしまいました。
これにより大坂城は要塞の機能を失ったため、1615年(慶長20年)に再び徳川家康が「大坂夏の陣」を仕掛けた際、豊臣家は籠城戦ができず、野戦に臨んだ結果、滅亡したのです。
一方、この頃、本多正純の父・本多正信は、2代将軍・徳川秀忠の近臣だった「大久保忠隣」(おおくぼただちか)を追い落としています。
この大久保忠隣は、本多正信が追放されていた間、息子の本多正純を保護していた大久保忠世の嫡男ですから、恩人の子です。しかし、大久保忠隣に謀叛の噂が立ったのを本多正信はかばおうとせず、大久保忠隣は失脚します。
こうした本多正信の策略は周囲に嫌われましたが、本人もそれを承知しており、妬まれないように、いくら出世しても20,000石以上の禄は受け取らず、息子の本多正純にも、「30,000石を超える加増は辞退するように」と遺言していました。
そして、1616年(元和2年)に徳川家康と本多正信が相次いで亡くなると、後ろ盾を失った本多正純の権勢は陰り始めます。
これまで本多正信・本多正純の親子に権力が集中しているのを良く思っていなかった者は多く、徳川家康の存命中、お飾りの将軍でしかなかった徳川秀忠もそのひとりでした。
その徳川秀忠が、本田忠純に宇都宮藩(現在の栃木県宇都宮市)150,000石を与えたのは、栄転を建前にして、本田忠純を遠方に追いやろうとしたという見方もあります。
これは、本多正純にとって父・本田正信の遺言「30,000石を超える加増は辞退せよ」に反するため固辞したとも言われていますが、将軍の人事に背くことはできません。最終的に本多正純は加増を受けることになり、いっそう徳川家臣らに嫉妬されます。
また、本多忠純の栄転のために、宇都宮藩を押し出されて古河藩(こがはん:現在の茨城県古河市)に国替えさせられた「奥平忠昌」(おくだいらただまさ)一族の恨みも買いました。
特に、奥平忠昌の祖母で、徳川家康の長女「亀姫」は、本多家に失脚させられた大久保家に娘を嫁がせていたため怒りは激しく、のちに本田正純が追放されたのは、亀姫が陥れたからだという説があります。
宇都宮城釣天井事件(うつのみやじょうつりてんじょうじけん)とは、1622年(元和8年)に、本多正純が徳川秀忠の暗殺計画を企てたとして流罪になった騒動です。
このとき徳川秀忠は、徳川家康の7回忌のため「日光東照宮」(栃木県日光市)に参拝し、本多正純の城「宇都宮城」(栃木県宇都宮市)に宿泊するはずでしたが、予定を変更して宇都宮城を素通りしました。
それは「宇都宮城に不審な点がある」という情報が寄せられたからで、後日、本多正純は「宇都宮城の釣天井が落ちるように仕掛けて、徳川秀忠を圧殺しようとした」として処罰されたのです。
しかし、暗殺を企むなら釣天井を落とすよりも証拠の残らない方法がいくらでもあるはずで、現実味がありません。
実際に、のちの検分で、釣天井の仕掛けは事実無根だったと確認されており、この偽情報を提供したのは本多正純を憎む亀姫だと噂されました。この他にも徳川秀忠の側近による謀略説があるのです。
このように事件の黒幕について諸説がささやかれるのは、本多正純が影響力を持ち続けるのを疎ましく思い、排除したい者が多くいたからだと考えられます。
この一件で、本多正純は潔白を主張しましたが、所領を取り上げられ、出羽国由利(現在の秋田県由利本荘市)に流罪となり、さらに出羽国横手(現在の秋田県横手市)に幽閉されたまま、この地で73年の生涯を閉じたのです。
本多正純は、先述の事件で失脚すると、復権することなく13年間を過ごして亡くなりました。この不遇の時期に、本多正純が詠んだと伝わる歌が「日だまりを 恋しと思う うめもどき 日陰の赤を 見る人もなく」です。
この歌に登場するウメモドキは、日陰でも育つ低木で、秋に赤い実を付けます。配流先で本多正純が与えられた屋敷は、逃亡を防ぐために厳重に囲われて、陽射しが入らないありさまだったと言われており、この歌は、日陰でひっそりと赤い実を付けるウメモドキに、本多正純が自身の境遇を重ねたように読み取れるのです。