日本の各都道府県を代表する都市部は、ほとんどが近世に「城下町」として発展した場所だと言えます。しかし、なかには「港町」・「宿場町」(しゅくばまち)など、流通や人流によって街道が都市へと発展した例もあり、そのひとつが「門前町」(もんぜんまち)です。門前町とは、社寺の門前に発展した町のことで、古くから有名な神社や寺院などの周囲に人々が集まって発達し、現代ではその多くが観光名所となっています。
門前町とは、有名な社寺周辺で参詣客を迎え入れるために発展した都市のこと。神社や寺院の境内や付近で、信徒が集落を形成した「社家町」(しゃけちょう/しゃけまち)や、浄土真宗の寺院近辺に見られる「寺内町」(じないちょう/じないまち)も、広い意味では門前町に含まれます。また、寺院と区別して、神社の周辺で発展した町は「鳥居前町」(とりいまえまち)と呼ばれました。大規模な都市の場合は、「宗教都市」や「境内都市」と呼ばれることもあります。
門前町は参道を中心に、その左右に参拝客が宿泊する「宿坊」(しゅくぼう)や、参道で商いを行う人々が住む町家が建ち並ぶ沿道型。特に有名な門前町が、「伊勢神宮」(三重県伊勢市)、「善光寺」(ぜんこうじ:長野県長野市)などです。
門前町の起源は、中世以降に有力な社寺が誕生し、神仏を祀る土地に各地から参詣者が集まるようになったことに始まります。
例えば、全国的に有名な曹洞宗(そうとうしゅう)の大本山「永平寺」(えいへいじ:福井県吉田郡)の門前町は、鎌倉時代に永平寺が開かれるまでは16戸という小さな集落でした。
永平寺に残る最も古い記録によれば、戦国時代には「行者」(ぎょうじゃ:修行僧)、「百姓」、「番匠」(ばんしょう:大工)といった人々が集まり、門前町が形成されていたことが分かります。一方、寺内町の起源は、多くが浄土真宗の寺域の中に寺院と町が一体化してできた集落でした。
このように、社寺周辺で発展した門前町と、浄土真宗系寺院を中核に発展した寺内町では起源が異なることから、厳密には区別されています。
江戸時代には門前町の発展とともに、制度も整備されています。例えば、永平寺門前町では、社寺の造営を生業とする大工達は「大工村」、永平寺の雑務を担う百姓は「百姓村」など、職や身分によって居住区域が分けられていました。
永平寺は「門前町法度」(もんぜんまちはっと:門前町の規則)を発布して、大工村・百姓村ともに村役人を配置し、これらの集落を支配。江戸時代には、永平寺の門前町の総人口は500人に上ったと言われ、1731年(享保16年)には百姓村に81軒、大工村に71軒の住宅があったことが記録されています。
また、1797年(寛政9年)には、永平寺の強圧的な支配に対して、大工村と百姓村の人々が反発するといった騒動が発生。江戸時代には永平寺に限らず、日蓮宗総本山「久遠寺」(くおんじ:山梨県南巨摩郡)などでも、門前町で暮らす人々の生活に対して寺院が強大な支配権を持っていました。
江戸時代に発展した門前町の特徴は、社寺の門前から延びる参道沿いに街並みが展開される都市構造で、参道並木を抜けると山門・鳥居があり、宿坊や町家などの建造物が連立。また、当時は参詣客や信者の案内や宿泊などの世話をする御師(おし/おんし)が門前町に集住しており、沿道に御師町が形成されていたことも特徴のひとつです。
善光寺のように大規模な門前町では、表参道以外にも善光寺を巡る街道に沿って市街地が形成され、善光寺を中心に複合的な構成になっていたというケースもあります。このような門前町の特徴は、明治維新後に都市の近代化が進むまで、全国各地の社寺周辺で見られました。
長く続いた江戸時代が終わり、新しい時代が到来すると、門前町にも大きな変化が起こります。まず、明治維新の改革のひとつとして、明治新政府は神道と仏教を区別させる「神仏分離令」(しんぶつぶんりれい)を発布。明治新政府は神道の国教化を進めるため、仏教を排除する「廃仏毀釈」(はいぶつきしゃく)を断行しました。こうして、明治時代に入ると多くの寺院が廃寺に追い込まれ、御師制度・門跡制度(もんぜきせいど:皇室関係者や公家が住職となる寺院制度)の廃止も影響して、寺院を中心とした門前町は様相を変えていきます。
一方で、廃仏毀釈の危機を乗り越え、存続した寺院とともに発展を遂げた門前町もありました。善光寺もそのひとつで、明治~大正時代にかけて市街地が拡大。全国的に見ても、長野県長野市は門前町と宿場町から県庁所在地となった唯一の例です。
また、近代的な都市化の波に飲み込まれず、本来の門前町としての情景を守り続けた町もあります。京都市右京区の「愛宕神社」(あたごじんじゃ)の門前町である「嵯峨鳥居本」(さがとりいもと)では、明治~大正時代に参道に茶店が建ち並ぶようになり、伝統工芸品を扱う商店などが増えましたが、江戸時代の門前町の情景を残し、その伝統を現在に至るまで継承し続けているのです。
嵯峨鳥居本のように、現在も往年の門前町らしい名残をとどめる地区は、「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されており、文化財保護法に基づいて保存措置が図られています。
この規定で門前町に選定されている町は全国で3つあり、愛宕神社門前町である嵯峨鳥居本の他、「清水寺」(京都市東山区)の門前町である「産寧坂」(さんねいざか)、滋賀県大津市の「日吉大社」(ひよしたいしゃ)と「延暦寺」(えんりゃくじ)の門前町である「坂本」(さかもと)です。
保存地区とされているのはこの3ヵ所のみですが、全国各地に歴史ある門前町は多数現存しています。特に有名なのが、江戸時代に「お伊勢参り」や「お蔭参り」(おかげまいり)として集団参詣が大流行した伊勢神宮の伊勢市宇治・山田地区。現代においても、三重県最大の観光名所を支える門前町として栄えています。
また、1998年(平成10年)には門前町を有する自治体や観光協会などを主体とした「全国門前町サミット」を開催。全国各地の門前町の交流を目的に、2017年(平成29年)まで計15回開催されました。