「別所波」(べっしょなみ)は、1467~1590年(文正2年/応仁元年~天正18年)の戦国時代に活躍した女性で、「別所長治」(べっしょながはる)の叔父である「別所吉親」(べっしょよしちか)の妻です。「三木の干殺し」(みきのひごろし)と呼ばれる容赦ない兵糧攻めを「豊臣秀吉」が行ったことで知られる「三木合戦」(みきかっせん)において、別所波は獅子奮迅の働きを見せ、豊臣秀吉から「鬼神のような女」と評されます。籠城していた「三木城」(みきじょう:兵庫県三木市)が落城する際、別所波は子を殺害したあとに自害するという壮絶な最期を遂げました。別所波とはどのような女性だったのか、生涯やエピソード、ゆかりの地などについて見ていきましょう。
「織田信長」の一代記である「信長公記」(しんちょうこうき)には、別所波を「畠山総州家」(はたけやまそうしゅうけ)の娘だとする記述があります。
そのため、年代的には6代当主「畠山在氏」(はたけやまありうじ)、もしくは7代当主「畠山尚誠」(はたけやまひさまさ)のどちらかの娘とする説が有力です。
生まれた年も、別所吉親と結婚した時期も定かではありません。戦国時代の女性については、名前の記録が残っていないことが多く、別所波に関してもその例に漏れず、波が実際の名でない可能性もあります。「信長公記」以外にも、別所家の家臣が書いた軍記「別所長治記」(べっしょながはるき)に増補が加えられた「別所記」(べっしょき)など、複数の史料に記載があるので、実在は間違いないと考えられてきました。
別所波の記録は、主に三木合戦の周辺に見られます。三木合戦は、別所波の夫・別所吉親から見て甥にあたる別所長治が、織田信長から「毛利輝元」(もうりてるもと:毛利家の14代当主)へ寝返ったことで勃発した戦いです。
当時、織田信長は、敵対していた「石山本願寺」(いしやまほんがんじ:現在の大阪府大阪市にあった浄土真宗の寺院)の支援者だった毛利輝元を討つため、毛利家が治める中国地方を攻略する「中国攻め」を豊臣秀吉に命じている最中でした。別所長治は、当初、織田信長側に付いていましたが、毛利輝元の誘いを受けて鞍替えし、長期戦への準備を万全に整えて三木城に籠城したのです。
豊臣秀吉はすぐに三木城を包囲しましたが、城を落とすのが難しいと悟ると、周辺の砦を次々と陥落させ、三木城への物流を断ちました。三木城には、籠城当初から約7,000人が籠城していましたが、豊臣秀吉によって落とされた砦から、敗残兵が続々と流入。これは、兵糧攻めを決断した豊臣秀吉が、あえて敗残兵を三木城へ誘導するような作戦を採ったためと言われます。
別所氏は状況を打開するための戦いを挑むも失敗。三木城では、いくら事前準備が万全でも人数の増加に対応できなくなり、物資不足に陥っていきます。人々は飢餓状態となり、馬や草木までを食べつくす地獄絵図のような光景だったと伝えられるほどです。
およそ2年の籠城を経て、三木城は落城。別所波には2男1女がいたそうですが、3人の子を殺害したあとで自害したと言われています。
別所波の夫・別所吉親は、弟の「別所重宗」(べっしょしげむね)と共に、別所家の家督を継いだ甥・別所長治の後見人となりました。軍記「別所長治記」では、別所長治が織田信長を裏切ったのは別所吉親がそそのかしたからだとされ、謀反の元凶として扱われています。
三木合戦において、別所吉親は別所長治の弟「別所治定」(べっしょはるさだ)と共に豊臣秀吉へ奇襲をかけるも失敗し、19歳の別所治定は討ち死に。別所吉親はそのとき、豊臣秀吉の陣にいた弟・別所重宗から、「勝ち目のない戦いを続けるよりはましだ」と切腹をすすめられます。別所吉親は切腹を決意しましたが、織田信長に自分の首を渡したくないという思いから心変わりし、三木城に火をかけようとしました。その様子を見咎めた家臣によって別所吉親は殺害され、首は京都へ運ばれて織田信長に検分されたと言います。
別所吉親と別所波の子は、三木城落城の際に別所波の手で殺されたと伝わりますが、実はもうひとり子どもがいたという説も存在。乳母によって三木城から落ちのびた男児は、成長して「別所伝右衛門」(べっしょでんえもん)と名乗り、豊臣秀吉の家臣だった「加藤嘉明」(かとうよしあき:賤ヶ岳の七本槍[しずがたけのしちほんやり]のひとり)に仕えたと言います。もしもそれが本当なら、別所波の血筋はそのあとも続いたと言えるでしょう。
三木城を囲んでいた豊臣秀吉軍に、別所長治の弟「別所友之」(べっしょともゆき)が夜襲をかけたときのことです。別所軍の別動隊が豊臣軍へ夜襲をかけ、三木城内から別所友之らが打って出ました。そのなかで別所波は、2尺7寸(約81.8cm)の太刀(たち)を振るい、豊臣兵を7人ほど斬り伏せます。
さらに、攻め寄ってくる豊臣軍に対し、別所波は櫓(やぐら)に上がって弓矢を打ちかけ、豊臣軍の20人以上が戦闘不能に。そのあとは、馬に乗って戦場を駆け回り、6尺余り(180cm以上)の大男を打ち取ったと言うのです。
三木合戦では、「堀秀政」(ほりひでまさ:織田信長や豊臣秀吉に仕えた戦国武将)の家臣や、「木下昌利」(きのしたまとさし:豊臣秀吉の異父弟・豊臣秀長[とよとみひでなが]の親族)の家臣などが別所波に討ち取られたとされています。
また他にも、別動隊へ連絡するため別所波が乞食に変装し、敵の目をかいくぐったという逸話もあり、別所波が三木合戦で英雄視された女性であることが分かるのです。
三木城があったのは現在の兵庫県三木市で、別名は「釜山城」(ふざんじょう)、「別所城」(べっしょじょう)。
美嚢川(みのうがわ:兵庫県南東部を流れる一級河川)の三木台地北端に位置し、京都と有馬(現在の兵庫県神戸市)を結ぶ湯山街道(ゆのやまかいどう)上の、交通の要所に築かれました。
城跡には現在、「今はただ 恨みもあらじ 諸人のいのちにかはる 我身とおもへば」(自分ひとりの犠牲で多くの人の命が助かることを思えば、今はもう敵に恨みさえも感じない)という別所長治の辞世の句が刻まれた石碑があります。
別所波の出身とされる畠山総州家は、「河内国」(現在の大阪府東部)や「大和国」(現在の奈良県)などを中心に勢力を拡大していた家柄です。
別所波の父と推測されるのは、6代当主・畠山在氏か、その嫡男の畠山尚誠ですが、当時の畠山総州家は河内国の「飯盛山城」(いいもりやまじょう:大阪府大東市/四条畷市)を拠点としていました。結婚前の別所波が飯盛山城で生活していたことも考えられます。
飯盛山城は戦国時代の山城としてかなり大規模な要塞で、現在も70以上の曲輪(くるわ:城を土塁[どるい]や石垣などで囲ったエリアのこと)が現存。現在の飯盛山城址には、当時の物とみられる石垣も残っています。