「阿南姫」(おなみひめ)は、「伊達政宗」の祖父にあたる「伊達晴宗」(だてはるむね)の長女です。10代で正室として「二階堂盛義」(にかいどうもりよし)のもとに嫁ぎましたが、1581年(天正9年)に夫の二階堂盛義が病死すると、出家して「大乗院」(だいじょういん)と名乗り、1582~1589年(天正10~17年)に「須賀川城」(すかがわじょう:福島県須賀川市)の城主を務めます。のちに阿南姫は伊達政宗と激しく対立し、決死の覚悟で戦いに挑んだ女城主です。阿南姫の生涯やエピソード、ゆかりの地などについて見ていきましょう。
阿南姫は、1541年(天文10年)に伊達晴宗の長女として誕生。
母「久保姫」(くぼひめ)は美女として有名で、かつてその美しさゆえに婚姻をめぐって争いが起こったと言われるほどでした。
阿南姫は若くして、須賀川城の城主だった「二階堂照行」(にかいどうてるゆき)の息子・二階堂盛義の妻となり、正室として迎えられます。
阿南姫と二階堂盛義の間には、1561年(永禄4年)に長男「二階堂平四郎」(にかいどうへいしろう)が誕生。しかし、1565年(永禄8年)に二階堂盛義が「蘆名盛氏」(あしなもりうじ)に敗北すると、二階堂平四郎は「黒川城」(くろかわじょう:福島県会津若松市:別名・会津若松城)に人質として送られ、「蘆名盛隆」(あしなもりたか)へ改名しました。
そののち、1570年(元亀元年)には次男として「二階堂行親」(にかいどうゆきちか)が誕生。1581年(天正9年)に二階堂盛義が病没すると、阿南姫は出家して「大乗院」を名乗ります。須賀川城主の地位は次男の二階堂行親が継承しましたが、二階堂行親は1582年(天正10年)にわずか13歳で急逝。阿南姫が女城主として跡を継ぐことになりました。
2人の子をもうけた母とは言え阿南姫はまだ若く、実際の統治業務は家臣の「須田盛秀」(すだもりひで)が担当し、阿南姫は領内の統治に尽力。その後、新たな当主として、甥である「蘆名義広」(あしなよしひろ)を迎えました。
しかし、阿南姫と親戚である伊達家の関係が悪く、1589年(天正17年)の「摺上原の戦い」(すりあげはらのたたかい)で両家は激突。阿南姫側が戦に敗れ、蘆名家は滅亡します。その後、「須賀川城の戦い」(すがかわじょうのたたかい)で二階堂家は伊達家に敗れ、須賀川城が陥落。
阿南姫は甥の「岩城常隆」(いわきつねたか)や「佐竹義宣」(さたけよしのぶ)のもとに身を寄せることとなり、1602年(慶長7年)に病に倒れて62歳で死去しました。
阿南姫の夫・二階堂盛義は、須賀川二階堂氏の7代目当主であり、二階堂照行の子として誕生。須賀川城を中心とした領土を守りつつ、所領をめぐる戦いに勝利して勢力を拡大します。
二階堂盛義の長男・二階堂平四郎は、1565年(永禄8年)に蘆名家の人質となりましたが、蘆名家の嫡男「蘆名盛興」(あしなもりおき)が早逝したため、二階堂平四郎は「蘆名盛隆」(あしなもりたか)として蘆名家の当主になりました。
息子が蘆名家を継いだことにより、二階堂盛義は再び勢いを取り戻します。しかし、1580~1581年(天正8~9年)に起こった「御代田城」(みよだじょう:福島県郡山市)をめぐる「御代田合戦」(みよだかっせん)において、二階堂盛義は勝利を収めるも負傷。この傷が直接の死因であったかは分かりませんが、1581年(天正9年)8月に二階堂盛義は亡くなりました。
阿南姫にまつわるエピソードとして有名なのが、伊達政宗に決死の覚悟で挑んだ須賀川城の戦いです。
1589年(天正17年)に摺上原の戦いで蘆名家を滅ぼした伊達政宗は、弱体化した二階堂家の領地を支配下に置くため、二階堂家の居城である須賀川城へ攻め入ります。
当時の須賀川城主が、伊達政宗にとって近い親戚にあたる阿南姫だったことから、伊達政宗は何度も和睦を求めましたが、阿南姫は断固拒否しました。
城内で家臣達を前にした阿南姫は、「伊達政宗との戦いは、多勢に無勢で城を攻め落とされるのは間違いないが、最後まで抵抗する」と強い決意を語り、須賀川城に籠城。「希望者は伊達政宗に降伏しても構わない」とも語ったため、家臣のなかには伊達家に下った者もいましたが、多くの家臣は城に残って戦いました。伊達政宗も阿南姫の決意が固いことを知って、ついに城へ攻め込み、須賀川城は1日で落城したのです。
福島県須賀川市で、毎年11月の第2土曜日に行われる「須賀川松明あかし」(すかがわたいまつあかし)は、このときの戦いで討ち死にした二階堂家の兵達の霊を弔うために始まったと言われています。須賀川松明あかしは、長さ10m、重さ3tにもなる巨大な大松明を担ぎながら、若衆約150人が市の中心街・松明通りを練り歩く国内屈指の火祭り。県内はもちろん、県外からも毎年100,000人以上の観光客が訪れ、日本3大火祭りのひとつに数えられることもあります。
須賀川城は1399年(応永6年)、「二階堂行続」(にかいどうゆきつぐ)によって築城され、そのあとは、代々二階堂氏が城主を務めました。天正年間(1573~1592年)に描かれたと推定される「二階堂居城時代須賀川城絵図」(にかいどうきょじょうじだいすかがわじょうえず)によると、中央に本丸、その東に二の丸、北に三の丸があり、これらの周囲を水堀(みずぼり)が取り囲む様子が分かります。
須賀川城の戦いで伊達政宗に攻め込まれた際、近隣の「長禄寺」(ちょうろくじ:現在の福島県須賀川市)に放たれた火が本丸まで延焼したため、須賀川城の遺構は現在ほとんど残っていません。土塁(どるい)と空堀(からぼり)跡がわずかに残るのみで、本丸があった場所には「二階堂神社」が建てられています。
長禄寺は、福島県須賀川市北町にある「曹洞宗」(そうとうしゅう)の寺院で、室町時代の1457年(長禄元年)に創建されました。
当時、須賀川城主を務めていた「二階堂為氏」(にかいどうためうじ)が、二階堂氏一族の菩提寺として建立。阿南姫も死後この長禄寺に葬られ、墓が建てられました。
現在、長禄寺の境内には、阿南姫の墓の他に、須賀川城の戦いで戦死した武士達の墓も建てられています。