「赤井輝子」(あかいてるこ)は、戦国武将として有能だった夫「由良成繁」(ゆらなりしげ)が築いた由良家を守り抜くため、出家していたにもかかわらず70代半ばを過ぎてから戦に加勢し、成果を挙げました。新田由良家を守った東国武者最後の守護者である赤井輝子は、戦国時代を生きる偉人のなかでも一目置かれ、敬愛される存在です。赤井輝子の生涯と、夫である由良成繁との関係性を見ていきましょう。
赤井輝子は、1514年(永正11年)に生まれました。父は「館林城」(たてばやしじょう:群馬県館林市)の城主「赤井重秀」(あかいしげひで)とも、「赤井家堅」(あかいいえかた)ともされています。
赤井輝子は「上野国」(現在の群馬県)の「金山城」(かなやまじょう:群馬県太田市)城主である由良成繁に嫁ぎ、1550年(天文19年)に「由良国繁」(ゆらくにしげ)を出産。
そののち、1555年(天文24年/弘治元年)には次男「渡瀬繁詮」(わたらせしげあき)を、1556年(弘治2年)には三男「長尾顕長」(ながおあきなが)を出産しました。
当時、上杉家・北条家・武田家が争いを繰り広げていましたが、由良成繁は巧みな外交手腕で、上杉家と北条家が結んだ軍事同盟「越相一和」(えっそういちわ)の仲介役として活躍。由良成繁が1578年(天正6年)に亡くなると、嫡子であった由良国繁が家督を継ぎ、赤井輝子は出家して「妙印尼」(みょういんに)となったのです。
由良成繁が亡くなったあと、時間の経過と共に北条家との関係は緊迫していきました。1584年(天正12年)、「北条氏直」(ほうじょううじなお:北条家の5代当主)は由良家との同盟を装いながら策略を巡らせ、由良国繁とその兄弟を「小田原城」(神奈川県小田原市)に幽閉(一室に閉じ込めて外出させないこと)したのち、由良家を攻撃します。
この際、赤井輝子は北条家に不信感を抱いていた「常陸国」(ひたちのくに:現在の茨城県)の「佐竹義重」(さたけよししげ:佐竹家18代当主)と「佐野宗綱」(さのむねつな:佐野家16代当主)と連携し、家臣をまとめて立ち向かったのです。当時70代の赤井輝子は籠城戦を選び、2つの城と由良国繁ら兄弟を交換することで事態を収めました。
1590年(天正18年)、「豊臣秀吉」が「小田原征伐」(おだわらせいばつ)を開始した際、赤井輝子の息子・由良国繁は北条側に付いていましたが、赤井輝子は10歳の孫である「由良貞繁」(ゆらさだしげ)を領主に任命し、豊臣側に付く決断を下します。さらに、70代半ばを超えた赤井輝子は自らも軍を率いて協力。これを功績として、赤井輝子は由良家を存続させることに成功したのです。
そののち、赤井輝子は1594年(文禄3年)11月6日に、移封(いほう:大名が領地を移ること)した先の牛久(現在の茨城県牛久市)で81年の生涯を閉じました。
由良成繁は、「横瀬泰繁」(よこせやすしげ:横瀬家7代当主)の子で、武勇と外交手腕に優れた大名。常に先を見越し、準備を整えながら、好機を伺う能力を持っていました。
由良成繁は、かつては「岩松守純」(いわまつもりずみ:上野国の戦国大名)の家臣でしたが、1528年(大永8年/享禄元年)に岩松守純の居城である金山城を奪取。
1536年(天文5年)には「家中法度」(かちゅうはっと:一族をまとめるための規則)、「百姓仕置法度」(ひゃくしょうしおきはっと:百姓に対する罰則を定めた規則)を発布し、国人領主(こくじんりょうしゅ:その土地の実質的な領主)となりました。
そののち、一時期は北条家に屈しましたが、1560年(永禄3年)からは「上杉謙信」(うえすぎけんしん)に臣従。そして、1565年(永禄8年)には横瀬姓から新田郡由良郷の地名を取って由良姓に改めています。さらに、上杉謙信が北条家に敗北すると、由良成繁は1566年(永禄9年)に再び北条家に属し、その経験を活かして1569年(永禄12年)の軍事同盟・越相一和において重要な役割を果たしました。
そのあとも、1572年(元亀3年)には「桐生城」(きりゅうじょう:群馬県桐生市)を攻略し、1573年(元亀4年/天正元年)には「高津戸城」(たかつどじょう:群馬県みどり市)と館林城を次々と手に入れ、領土を拡大していったのです。
1574年(天正2年)に由良国繁に家督を譲り、桐生城に隠居した由良成繁は、領内や城下町の整備に取り組みながら自身の菩提寺(ぼだいじ)である「鳳仙寺」(ほうせんじ:現在の群馬県桐生市)を建立。そして、上杉謙信と同じく1578年(天正6年)に死去しました。
群馬県桐生市の重要文化財である「前田利家新田老母宛書状」(まえだとしいえにったろうぼあてしょじょう)では、赤井輝子宛てに「新田御老母」と記されています。
この書状は、「前田利家」(まえだとしいえ:加賀藩主・前田家の祖)が豊臣秀吉に由良家の身代を保証するよう働きかけたことに触れ、由良家の将来を心配する赤井輝子に安心するよう伝える内容。この書状からは、前田利家が赤井輝子を敬愛していたことが伺えます。
実際に、1590年(天正18年)8月1日に金山城が廃城となると、由良家は領地を失いますが、前田利家の尽力により、豊臣秀吉が赤井輝子へ常陸国牛久5,435石の領地を贈与。赤井輝子はこの領地を由良国繁に譲り、由良家の存続を守る道を選んだのです。
現代ほど平均寿命が長くなかった戦国時代において、70代の赤井輝子は老いを押して戦闘に参加するなど、年齢に負けずに活躍。赤井輝子はその勇敢さと決断力によって、多くの人物から尊敬される存在だったと推測されます。赤井輝子は由良家を守り、東国武者の守護者として称賛されたのです。
赤井輝子自身が大切にしていた「新田一つ引き」(にったひとつひき)の大中黒(おおなかぐろ:円のなかに太い黒帯が描かれた家紋)の家紋は、赤井輝子が布陣する際の御旗に使用され、陣幕には菊・桐・丸に三つ葉葵の紋章が使われました。これらは「新田義貞」(にったよしさだ:南北朝時代の武将、新田朝氏[にったともうじ]の嫡子)の代から使用されてきた意匠。赤井輝子が一生をかけて守り抜いた新田由良家の象徴と言えるものです。
「稲荷山得月院」(いなりやまとくげついん)は、茨城県牛久市にある寺院で、赤井輝子が1594年(文禄3年)に「牛久城」(茨城県牛久市)に移り住んだ際に開基されました。
本堂の屋根瓦や壁面には「新田一つ引き」の家紋が描かれており、赤井輝子の由良家への愛情が感じられます。
境内の本堂裏には、市の指定文化財でもある、特徴的な形状をした高さ116.5cmの五輪塔が存在。下から四角・円・三角・半円・如意宝珠(にょいほうじゅ:仏教で霊験を表す珠)の5つの形状が積み重なっており、四角は地を、円は水を、三角は火を、半円は風を、如意宝珠は空を表しています。
稲荷山得月院の墓地には、樹齢450~500年と推定されているカヤの木の一角に赤井輝子の墓が鎮座。この寺院は地元出身の近代日本画家である「小川芋銭」(おがわうせん)の菩提寺としても知られており、地元の歴史と文化に深く根付いた場所として大切にされています。
館林城は、赤井輝子の父が築いたとされ、夫・由良成繁が上杉家に参戦して攻略した城。また、江戸時代には、江戸幕府の重鎮である秋元家の居城となり、江戸幕府5代将軍「徳川綱吉」(とくがわつなよし)を輩出した城でもあります。
群馬県館林市では毎年「お雛さま祭り」が開催されており、赤井輝子の雛人形を展示。展示期間は2月中旬~3月初旬で、「旧秋元別邸」(きゅうあきもとべってい:群馬県館林市)が会場です。
雛人形は鎧(よろい)を身にまとい、凛々しい立ち姿で存在感を放っているのが特徴。作成年代は明治時代と考えられていますが、詳細は明らかになっていません。しかし、赤井輝子の姿を象徴する人形として、地元の祭で重要な役割を果たしています。