平安時代に登場した「大鎧」(おおよろい)から始まった「日本式甲冑」の系譜は、室町時代末期に大きな転換期を迎えました。それが「当世具足」(とうせいぐそく)の登場です。今の世の中を意味する「当世」と、十分備わっていることを意味する「具足」を呼称としているこの甲冑は、構造、意匠、素材などにおいて多種多様であり、定まった物がないという風変わりな物。日本式甲冑とは一線を画した新様式の甲冑である当世具足について紹介します。
その特徴は、体を隙間なく包む形式が採られていることです。すなわち、「籠手」(こて)や「佩楯」(はいだて)、「臑当」(すねあて)などの「小具足」(こぐそく)を専用品として、胴と一体化し、重装備化することで、背中の部分に隙間があった中世の「腹巻」(はらまき)以上に、体を包み込むことが可能となりました。
この点において、当世具足は、日本式甲冑における最終形の様式であると言えるのです。
また、当世具足の特徴として以下のようなことが挙げられます。
①騎乗、徒歩のどちらにでも対応できた
②中世において武将が大鎧を着用し、一般兵が胴丸を着用したような着用者の身分差による甲冑様式の差異はなかった
③ひとつの集団におけるユニフォームとしての機能を果たした
④素材や意匠、造形などにおいて多種多様だった
⑤板物製の物が増えたことで、威毛(おどしげ)の使用が減少した
⑥南蛮胴をはじめとして、西洋甲冑の手法が取り入れられた物が出現した
①については、「白兵戦」(近距離での戦闘のこと)が主流となった中で、武将と言えども戦場では馬上だけでなく地上でも戦うことができなければいけなかったことが考えられ、②、③については、「井伊の赤備え」などに代表されるように、これまで以上にチーム(集団)戦法が重視されたため、当世具足は敵味方の区別だけでなく、チームが団結するための道具となりました。
④、⑤、⑥については、豪商や大名などによって開花した自由闊達な桃山文化や、当時大量に輸入されていた南蛮文化の影響を見て取ることができます。
諸大名が、領国経営において行なっていたのは、雑兵を足軽として戦闘組織を形成することです。組織と組織の戦いの構図となったことで、戦術面の重要度が大きくなります。
組織的な戦いとして代表的なものだと言えるのが、1575年(天正3年)「長篠の戦い」(ながしののたたかい)で、「織田信長」(おだのぶなが)が導入したとされている鉄砲部隊。足軽で結成された鉄砲部隊が、当時、最強と言われていた「武田勝頼」(たけだかつより)率いる騎馬隊を打ちのめしたことで、鉄砲の武器としての威力が認識されたのです。
この結果、甲冑の改良を促進しました。すなわち、鉄砲の弾に対応できる強度を持ち、かつ戦場において俊敏に動くことができるような当世具足が開発される契機となったのです。
記録上、制作された年代が確実な物から、当世具足は天正年間から慶長年間初期(1573~1596年)に形成され、1600年(慶長5年)「関ヶ原の戦い」後の慶長年間に定型化。
当世具足が日本式甲冑の最終形たる由縁は、その優れた機能性です。槍や鉄砲など、強い貫通力を誇る敵の武器に対処するために用いられたのは、主に鉄板などの堅固な「板物」(いたもの)。そして「草摺」(くさずり)についても、胴に縅し付ける「揺糸」(ゆるぎのいと:胴と草摺をつなぐ糸)は長くなりました。
その理由は具足の重量負担を軽減することと、腰の曲げ伸ばしを自由にするためです。当世具足以前の甲冑に付属していた「袖」(そで)については、激しい打物戦に対応するため、廃止または縮小。とにかく個性的な意匠に目がいきがちな当世具足ですが、機能面でもそれ以前の甲冑に比べて格段に優れていたと言えるのです。
1638年(寛永15年)「島原の乱」(しまばらのらん)以降、大きな戦乱等がなく、江戸幕府の統治方針は、それまでの「武断主義」(ぶだんしゅぎ:武力をもって物事を解決しようとする主義)から「文治主義」(ぶんちしゅぎ:儒教的な徳によって国を治める主義)へと転換しました。
それまで戦うことを生業としてきた武士が、その場を失ったことで、戦場での防具だった当世具足への意識が変化します。実用品として使われていた当世具足は、武家の儀式などにおいて威容を保つための道具となり、裏付けのために装飾が施されるようになったのです。
機能性を追求した当世具足に、機能とは無関係な装飾がなされたことで、当世具足は武具であるとは言えなくなりました。その後は、復古主義とあいまって中世の甲冑への関心が高まり、「復古調」の当世具足が制作されるようになります。
もっとも、当時の甲冑研究は十分であるとは言えず、いたずらに華美さを競い合うなど、過剰な装飾や装備が施された結果、当世具足は当時の工芸技法を駆使して制作した工芸品とでも言うべき存在になったのでした。
1868年(慶応4年)「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)において、西洋式編制の軍隊による近代的な戦闘法や火器が導入されると、当世具足は防具としての無力さを露呈。戦場での存在意義が完全に消滅したことで、当世具足は終焉を迎えたのです。
前面の左右と後面の左右を蝶番でつなぎ、右脇で引き合わせる形で着用します。
中世においてもこれと同じ形式の胴丸があったと言われているのです(金胴丸:かなどうまる)。
五枚胴の代表例としては、徳川家康所用の「総熊毛黒糸威具足」(そうくまげくろいとおどしぐそく)が挙げられます。
その他、最も簡易的な胴として挙げられるのが「一枚胴」。これは足軽が着用していた背中部分が覆われていない粗製の具足です。
同様の形式では、胴の前面と両脇に当てる腹巻形式の「三枚胴」があり、胴をすべて覆う物では、前後と右2枚に分割した「四枚胴」や、左右の両方で引き合わせる形式の「六枚胴」も制作されました。