日本の歴史のなかには、男性に引けを取らないほど勇ましい女武者が何人も存在しますが、「お京の方」(おきょうのかた)もそのひとりです。虎退治など数々の武勇伝を持つ熊本の英雄「加藤清正」(かとうきよまさ)を追い詰めた女性として知られています。お京の方は、夫である「木山弾正正親」(きやまだんじょうまさちか)と長男・次男を討ち取った加藤清正を相手に、女であることを隠して仇討ちを挑みました。お京の方の生涯やエピソード、ゆかりの地などについて見ていきましょう。
お京の方については不明な点が多く、その名前も後世の人が付けた呼び名であり、本名は分かっていません。
正確な生年月日、両親なども明確ではなく、出自に関して唯一分かっているのは「肥後国」(現在の熊本県)で生まれたことだけです。
どのように育ち、どのような経緯でいつ嫁いだのかは分かりませんが、「阿蘇家」(あそけ)の客将(きゃくしょう:主従関係を結んでいない客分として待遇される武将)だった「木山正親」(きやままさちか)のもとへ嫁ぎます。夫婦関係は円満で、長男「木山傳九郎」(きやまでんくろう)、次男「横手五郎」(よこてのごろう)という2人の子どもを授かりました。
夫の木山正親は、結婚後もたびたび戦場に駆り出されましたが、最後の戦いとなったのは1589年(天正17年)に勃発した「天正の天草合戦」(てんしょうのあまくさがっせん)。これは、元々天草を支配していた5家の土豪「天草五人衆」(あまくさごにんしゅう)が、当時「豊臣秀吉」から九州南部の支配を任されていた「小西行長」(こにしゆきなが)の命に背いたことにより起こった合戦で、小西行長とそれに助力する加藤清正の連合軍と、天草五人衆との間で大規模な戦いへと発展しました。
木山正親は、天草五人衆のひとり「天草種元」(あまくさたねもと)に世話になってきたこともあり、天草五人衆に加勢することとなります。木山正親は、敵将の加藤清正に一騎討ちを挑みますが、結果敗れて、息子達も加藤清正に討ち取られてしまいました。
日頃、木山正親が客将として身を寄せていた「本渡城」(ほんどじょう:熊本県天草市)でその訃報を聞いたお京の方は、木山正親の甲冑に身を包み、仇を討つために出陣。加藤清正との勝負に挑みましたが、女性であると知られてしまい、討ち取られてしまいました。
木山正親も、お京の方と同じく謎の多い人物で、正確な生年月日と出生地は分かっていません。阿蘇氏の客将だったこと以外は、吃音症(きつおんしょう:滑らかに発音するのが難しく、どもりなどが起こる発話障害)で知られており、「どもり弾正」(どもりだんじょう)との呼び名があります。弾正とは個人の名前ではなく官位のことなので、「どもり弾正」はいわゆる通称です。
この吃音症は木山正親の大きな特徴でもあり、加藤清正との一騎討ちでは命を落とすきっかけともなりました。
一騎討ちで木山正親は、加藤清正を組み伏せ、あと一歩のところまで加藤清正を追い詰めます。
そこへ木山正親の家来が槍(やり)を持って駆けつけますが、顔も識別できないほどの濃い霧が立ち込めていたため、上下どちらが主君なのか分かりません。
そのとき木山正親は、「下が加藤清正だ、下を突け」と言葉を発しようとしましたが、吃音症のためとっさに言葉が出なかったのです。すると、加藤清正が機転を利かせ「下だ、下を突け」と声を発します。その声が主君である木山正親の声ではないと気付いた家来は、敵将が自分達を惑わすために言ったのだと考え、上にいた木山正親を槍で突き殺してしまいました。これにより、加藤清正をあと一歩のところまで追い詰めていた木山正親は命を落とすこととなったのです。
この場所は「仏木坂」(ぶっきざか:熊本県天草郡)と言いますが、木山正親の無念を偲ぶ人々によって「無念坂」(むねんざか)とも呼ばれています。
お京の方は、本渡城で夫・木山正親と息子達が加藤清正に討たれて亡くなったことを聞かされると、木山正親の甲冑を身にまとい、夫と息子の仇を討つために出陣することを選んだのです。
その際、女性であると敵に知られてしまえば侮られるため、自慢の長い黒髪をまとめて兜(かぶと)のなかにしまい込み、顔が分からないよう「面頬」(めんぽお/めんぼお:顔面を覆う防具)を着けて男装。加藤清正の軍勢は、木山正親の甲冑を身にまとったお京の方を見て、討ち取ったはずの木山正親が甦ったと恐れをなして逃げまどいます。
数の上では明らかに劣勢でしたが、勢いに乗ったお京の方は敵将・加藤清正にあと少しのところまで迫ったのです。しかし、身に着けていた兜の緒が梅の枝にかかって兜が脱げ、隠していた長い黒髪が露わになり女性であると知られてしまったお京の方は、あえなく討ち取られてしまいました。
お京の方は、この梅に対して「花は咲けども実は成らせまじ」(花が咲いても実を付けさせてなどやらない)との怨念を込めた辞世の句を残して死んでいったと言われており、「兜梅」(かぶとうめ)の名で今も「延慶寺」(えんけいじ:熊本県天草市)に残っています。
本渡城は、かつて熊本県に存在していた中世の山城。熊本県天草市本渡町にある連山の東端の尾根に位置していたとされ、本丸、馬責め場、一の丸などの地名が今も残っています。ただし、正確な築城年、廃城年などは分かっていません。
城主は代々天草氏が務めていましたが、お京の方の夫・木山正親も客将としてこの城の城主を務めました。お京の方はこの城から夫と息子の仇を討つために出陣したのです。
現在、城跡は「切支丹殉教公園」(きりしたんじゅんきょうこうえん)として整備されており、二の丸跡には「天草市立天草キリシタン館」(あまくさしりつあまくさきりしたんかん)が建てられています。
延慶寺は、熊本県天草市浜崎町にある寺院。境内には、熊本県の天然記念物にも指定されている兜梅と呼ばれる梅の木があり、観光名所となっています。この兜梅は、別名「臥竜梅」(がりゅうばい)と呼ばれる樹齢500年以上の古木です。
お京の方が加藤清正に戦いを挑んだ際、この梅の木の枝に兜の緒が引っかかって脱げてしまったことが原因で女性であると知られてしまい、討ち取られたとの伝説が残っており、このエピソードがきっかけで「延慶寺の兜梅」と呼ばれるようになりました。
お京の方が怨念を込めて詠んだとされる辞世の句「花は咲けども実は成らせまじ」が原因かどうかは分かりませんが、この梅は花が咲いても実はつかないと言われています。