「円久尼」(えんきゅうに)は、戦国時代に生きた女性です。肥前国(現在の佐賀県、長崎県)の戦国大名「龍造寺隆信」(りゅうぞうじたかのぶ)の家臣であり、「龍造寺四天王」(りゅうぞうじしてんのう:龍造寺家に仕えた4人の主要な家臣)のひとりに数えられる「百武賢兼」(ひゃくたけともかね)の妻でした。島原半島で龍造寺隆信と「有馬晴信」(ありまはるのぶ)、「島津家久」(しまづいえひさ)連合軍の間に勃発した「沖田畷の戦い」(おきたなわてのたたかい)で夫が亡くなったあとも、居城を守って戦ったと伝えられています。円久尼の生涯やエピソード、ゆかりの地について見ていきましょう。
円久尼は、俗名を「百武藤子」(ひゃくたけふじこ)と言い、生年は不詳です。力が強く武道に秀で、学問にも造詣が深く、女性としての徳も高かったと言われ、人々から深く敬慕される存在でした。
1584年(天正12年)に起こった沖田畷の戦いでは、夫の百武賢兼が出陣後、居城(きょじょう:普段生活をしている城)の「蒲船津城」(かまふなつじょう:福岡県柳川市)を守って戦ったのです。
沖田畷の戦いは、百武賢兼の主君である龍造寺隆信と、有馬晴信・島津家久連合軍との戦いで、合戦の場所は島原半島。有馬晴信は、もともと龍造寺隆信の圧迫を受けて臣従していたのですが、薩摩国(現在の鹿児島県西部)、大隅国(現在の鹿児島県東部)、日向国(現在の宮崎県)一帯を支配していた「島津義久」(しまづよしひさ:島津家16代当主)とともに龍造寺隆信を滅ぼします。当時、島津家は、九州統一を目指して戦っているところだったのです。
蒲船津城を守っていた円久尼のもとには、まず、主君の龍造寺隆信が討ち死にした知らせが届きました。主君が討ち死にしたからには夫が生きて帰るはずはないと、円久尼は城を出て、故郷の八田(はった:佐賀県佐賀市)に帰郷。「浄土寺」(じょうどじ:佐賀県佐賀市)で出家し、円久尼を名乗ります。
故郷に戻っていた円久尼を、蒲船津城の守りのために呼び戻したのは、龍造寺隆信の家老「鍋島直茂」(なべしまなおしげ)でした。円久尼はその要望に応え、生き残った家臣を募って蒲船津城に兵を集め、守りを固めます。城を守って務めを果たしたあとは、鍋島直茂に願い出て郷里に戻り、仏門に入って夫・百武賢兼の菩提を弔いました。
円久尼の夫の百武賢兼は、龍造寺隆信の家臣で、「成松信勝」(なりまつのぶかつ)、「木下昌直」(きのしたまさなお)、「江里口信常」(えりぐちのぶつね)、「円城寺信胤」(えんじょうじのぶたね)とともに、龍造寺四天王に名を連ねる武将です。
龍造寺四天王とは、龍造寺家の家臣のうち、数々の戦いで活躍した武勇の誉れ高い武将達のこと。史料によっては、木下昌直、江里口信常、円城寺信胤の入れ替わりが見られることもあります。
百武賢兼の旧姓は「戸田」であり、「八幡太郎」(はちまんたろう)の名でも知られる「源義家」(みなもとのよしいえ)の流れを汲む家の長男として誕生。父の「戸田兼定」(とだかねさだ)の代から龍造寺家に仕え、主君の龍造寺隆信から「百人並みの武勇がある」と称賛され、「百武」の姓を賜ります。
百武賢兼が守っていた蒲船津城ですが、実は龍造寺隆信がこの城を奪った戦いに百武賢兼は参加しませんでした。
もともと蒲船津城は、「柳川城」(やながわじょう:福岡県柳川市)の城主だった「蒲池鎮漣」(かまちしげなみ)の支城。蒲池家は、かつて龍造寺家が危機に陥った際に助けに入ったことがあり、龍造寺家は蒲池家に恩義がありました。
しかし、龍造寺隆信は、蒲船津城を筑後国(現在の福岡県南部)に進出する足掛かりにするため、蒲池家をだまし討ちにして城を奪おうとしたのです。百武賢兼は、そのような経緯に反対意見をもっていたため、龍造寺隆信に出陣を命じられても涙を流して拒否したと言われます。
夫・百武賢兼亡きあと、円久尼が守っていた蒲船津城に攻め込んできたのは、豊後国(現在の大分県)と筑後国を治めていた「大友宗麟」(おおともそうりん)の有力家臣「立花道雪」(たちばなどうせつ)と「高橋紹運」(たかはしじょううん)です。
2人とも堂々たる戦国武将であり、近隣諸国にもその勇猛ぶりは知られています。
立花道雪と高橋紹運は、龍造寺隆信の戦死に乗じて城を奪おうと攻め込んできました。そんな2人と渡り合って、城を守ったのが円久尼です。
蒲船津城は、水路が入り組んで沼地となった場所に位置する要害で、地形を利用した難攻の城でした。立花道雪と高橋紹運は、まず周辺の民家を焼き払って城に迫ります。円久尼は、落ち着いて大薙刀(おおなぎなた)を手に取り、城戸口(きどぐち:城の出入り口)に立ち奮戦しました。
円久尼の奮戦ぶりに驚いた敵は、なかなか近付くことができません。そうこうしているうちに、鍋島直茂の家臣「中野清明」(なかのきよあき)が兵を率いて駆け付け、蒲船津城は奪われずに済んだのです。
このとき駆け付けた中野清明の孫が、武士道の書として知られる「葉隠」(はがくれ)の著者「山本常朝」(やまもとつねとも)であり、円久尼の奮戦ぶりも「葉隠」に記述されています。
円久尼が獅子奮迅の働きを見せた蒲船津城ですが、城のあった正確な位置は分かっていません。龍造寺隆信が蒲船津城を奪ったのは、1581年(天正9年)に蒲池鎮漣を謀殺した直後のことです。蒲池鎮漣の親族を殺したあと、一気に攻め込んで蒲船津城を守っていた蒲池鎮漣の弟「蒲池益種」(かまちますたね)を討ち取り、蒲池家をせん滅しました。
はっきりした場所の伝わっていない蒲船津城のおよその位置は、「次郎丸」(じろうまる)、「旗角目」(はたがくめ)、「門の内」といった地名の残っている柳川市三橋町蒲船津字村中周辺だったのではないかと考えられています。
「天祐寺」(てんゆうじ:佐賀県佐賀市)は、円久尼の墓所がある寺院です。龍造寺家の最後の当主「龍造寺高房」(りゅうぞうじたかふさ)の墓所として、1615年(元和元年)に鍋島直茂が建立しました。「佐賀城」(佐賀県佐賀市)の支城として建てられたため広大な規模となっており、現在も由緒ある佇まいを見せています。