「神保雪子」(じんぼゆきこ)は、明治維新直前の幕末の混乱期に生き、悲劇的な最期を遂げた女性です。美貌と聡明さで評判だった神保雪子は、「会津藩」(現在の福島県会津若松市)の藩士「神保修理」(じんぼしゅり)と結婚し、その睦まじい夫婦仲が周囲の羨望の的となったと言われています。しかし、世の中が大きく変わろうとしていた時代に、会津藩は「白虎隊」(びゃっこたい)や「新選組」(しんせんぐみ)などにまつわる、多くの悲劇を生み出した「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)の舞台となったため、神保雪子の運命も大きく変わってしまいました。神保雪子の生涯やエピソード、ゆかりの地などについて見ていきましょう。
神保雪子は、1845年(弘化2年)に会津藩士で軍学者の「井上丘隅」(いのうえおかずみ)の次女として生まれます。
会津藩は、陸奥国(現在の東北地方北西部)にあり、現在の福島県西部や新潟県、栃木県の一部を治めた藩です。「若松城」(福島県会津若松市:現在の会津若松城)に藩庁がありました。
井上家の家禄は600石で、会津藩に600石以上の家が34軒ほどだったことを考えると、比較的裕福な家の生まれだったと言えるでしょう。神保修理と結婚したのは、神保修理の才能を買っていた会津藩の実力者で神保雪子の姉の夫だった「野村佐兵衛」(のむらさへえ)の仲介があってのことでした。
神保雪子の人生が一変した原因は、「鳥羽・伏見の戦い」(とば・ふしみのたたかい)における夫・神保修理の立場。神保修理は、鳥羽・伏見の戦いの際に、旧江戸幕府軍の総大将であり江戸幕府最後の将軍「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)と、主君である会津藩主「松平容保」(まつだいらかたもり)に、新政府軍に従うように進言しました。新政府軍は、朝廷のために戦うことを大義名分としていたため、主君・松平容保らが旧江戸幕府軍側のままでいると、朝敵の立場となって歴史に汚名を残してしまうと考えたためです。結果、松平容保と徳川慶喜は、旧江戸幕府軍の兵士達を置き去りにした形で、大阪湾から船に乗って江戸へ帰ってしまいます。
置き去りにされて戦意を喪失した旧江戸幕府軍は、あっさり新政府軍に敗北しました。しかし、会津藩士達の気持ちは治まらず、「総大将が兵を置き去りにした責任はすべて不要な進言をした神保修理にある」として追及。神保修理は幽閉(ゆうへい:一室に閉じ込め、外出させないこと)され、切腹させられました。
神保雪子の夫・神保修理は、会津藩の家老「神保利孝」(じんぼとしたか)の長男として1834年(天保5年)に誕生。神保雪子より10歳年上でした。神保家の家禄は1,000石で、会津藩の名門の家柄です。幼い頃から非凡な才があり、藩校の「日新館」(にっしんかん)で学んでいた頃は、周囲から秀才と認められていました。将来を期待され、若く美しい妻を迎え、順風満帆な人生を送ります。
1866年(慶応2年)には、藩主の松平容保にその国際的感覚を認められ、長崎に派遣。会津藩の軍制を西洋化するために長崎を視察してきた神保修理は、会津藩の教練や藩兵組織を改革することに尽力しました。その結果、会津藩が組織した部隊が白虎隊です。
神保修理は、徳川慶喜と松平容保が、いわば敵前逃亡したような結果となったことの責任を取らされ、切腹させられます。神保修理に対する切腹の命令は、主君・松平容保直々の命令を偽った嘘でしたが、神保修理はそれを嘘と知りながら粛々と自刃。幽閉された神保修理を救おうと、かねて親しい付き合いをしていた「勝海舟」(かつかいしゅう)も策を講じましたが、助けることはかないませんでした。
「帰りこん ときぞ母のまちしころ はかなきたより 聞くへかりけり」(もう帰る頃だろうと思って私を待っている故郷の母のもとへは、私が死んだという報せが届くのだろうなあ)という辞世の句が残されています。
神保雪子の最期に関して、かつては「中野竹子」(なかのたけこ)が組織した「婦女隊」(ふじょたい:会津藩で自発的に組織された女性のみの地域防衛隊)に合流して戦死したとされていました。戊辰戦争の際、新政府軍の兵達の蛮行が世間に伝わると、会津藩の女性達の間で敵兵に捕まることの恐怖が募っていきます。それもあって、神保雪子の実家で女性達が自害したのです。
夫・神保修理を自刃で失ったあと、神保雪子は実家に帰っていましたが、神保雪子があまりにも若かったので女性達と共に死なせるのにしのびないと、父・井上丘隅が神保雪子を家から逃がしたと推測されています。
そののち、戊辰戦争の終戦後に、かつて婦女隊にいた「水島菊子」(みずしまきくこ)が、神保雪子は婦女隊と合流していないと証言。そこで、もと会津藩士で白虎隊士でもあった「山川健次郎」(やまかわけんじろう)が再調査しました。神保雪子が婦女隊と合流した事実は確認できませんでしたが、婦女隊の多くが戦死した涙橋で神保雪子も戦死したと結論付けたのです。
一方、土佐藩(現在の高知県高知市)の藩士だった「吉松速之助」(よしまつはやのすけ)は、別の証言をしています。神保雪子は、大垣藩(現在の岐阜県大垣市)の藩士達に捕まっていたと言うのです。戊辰戦争も終わりに近付いていた当時、いまさら婦女子を捕えていても仕方がないと、吉松速之助は神保雪子の解放を訴えました。しかし、大垣藩士達はそれを聞き入れようとしません。神保雪子に懇願された吉松速之助は、彼女に短刀を渡して自害するのを手助けしたそうです。
どちらが真実なのか今となっては分かりませんが、いずれにしても、幕末の風雲に運命を狂わされた神保雪子は、23歳の若さで悲劇的な最期を遂げました。
若松城は、福島県会津若松市に存在した平山城であり、別名は「鶴ヶ城」(つるがじょう)、「会津若松城」、「黒川城」(くろかわじょう)。
若松城の原型は、1384年(元中元年/至徳元年)に「蘆名直盛」(あしななおもり)が築きました。のちに「豊臣秀吉」の配下にあった「蒲生氏郷」(がもううじさと)が城を改修しています。
蘆名家は、陸奥国一帯の盟主として、長く君臨しましたが、伊達家の台頭によって滅亡。神保雪子の生きた幕末になると、戊辰戦争で若松城を藩庁としていた会津藩は、かつて蘆名家を滅ぼした伊達家と協力して新政府軍と戦うこととなりました。
現在は城址のほとんどが国の史跡に指定され、「鶴ヶ城公園」として整備。復元された天守を観ることができ、内部は「若松城天守閣郷土博物館」となっています。
「建福寺」(けんぷくじ:福島県会津若松市)は、臨済宗の寺院です。徳川幕府2代将軍「徳川秀忠」(とくがわひでただ)の四男「保科正之」(ほしなまさゆき)が、1643年(寛永20年)に会津へ移封(いほう:領地を移ること)した際に、ともに会津へ渡った「鉄舟禅師」(てっしゅうぜんし)が開山しました。
敷地内には、神保雪子をはじめとして、神保家と井上家の先祖菩提塔が建立。他にも、長岡藩(現在の新潟県長岡市)の家老「河井継之助」(かわいつぐのすけ)の埋骨地(仮埋葬した地)があることでも知られています。