現在、私達が「城」と聞いてイメージするのは、石垣とその上にそびえ立つ天守のお城ではないでしょうか。しかし、城という漢字が「土から成る」と書くように、もともとは土で作った砦から始まり、近世になって総石垣の城へと本格的に変わっていきました。いわゆる「近世城郭」の誕生です。これは「織豊系城郭」(しょくほうけいじょうかく)とも言われ、その先陣を切ったのは、「織田信長」が築いた「安土城」(あづちじょう:滋賀県近江八幡市)。その後、「豊臣秀吉」、「徳川家康」の治世下で近世城郭は全国へ普及していきます。現在、現存天守は全国に12基しか残っていない一方、石垣は数多くが残され、往時の様子を伝え続けてくれています。近世城郭の石垣の歴史、魅力について詳しく紹介します。
1579年(天正7年)に完成した安土城は、曲輪(くるわ:区画)の配置をはじめ、様々な面でそれまでの城郭とは一線を画す物でした。石垣の使い方もそのひとつ。安土城以前にも石垣の城がなかったわけではありません。
しかし、各地の石垣が当時ぜいぜい高さ4m程度であったなか、安土城は高さ10mを超える高石垣で中枢部を囲み、そこに天主(てんしゅ:安土城は天守でなく天主)を配置。防衛拠点、軍事施設としての画期的な姿を見せただけでなく、権力者の圧倒的な求心性も見せ付けたのです。織田信長は、そのためにも高石垣にこだわったと言われています。
江戸時代に入り、太平の世になると、その傾向は顕著に。「大坂夏の陣」ののちに、天下普請によって築城された新たな「大阪城」(大阪府大阪市中央区)では、より高くより威風堂々とした石垣にするために、わざわざ遠方にある石の産地から運び築かれました。
日本の石垣技術は安土城の誕生から、1615~1624年(元和元年~10年)の元和年間(げんわねんかん)まで約40年の間で、急速に発展を遂げます。洋の東西を問わず石造りの城郭は多数存在しますが、日本の石垣の城は、石垣のみを防御線とするのではなく、その上に建つ「櫓」(やぐら)などと一式で防御力を機能させているところが、諸外国と大きく異なります。
これを可能にするには、単に高石垣であるだけでなく、堅牢かつあらゆる戦術にも対応できる石垣でなくてはいけません。織田信長が石工集団「穴太衆」(あのうしゅう)を登用したことをきっかけに、石工技術者達が広く活躍できる道が生まれ、世界に誇る日本の石積みの技が高められていきました。
近世城郭における石垣の積み方には多くの種類がありますが、基本となるのは、3つの石の加工法と2種の並べ方を組み合わせた6種類です。
野面積 | 打込接 | 切込接 | |
---|---|---|---|
布積 | |||
乱積 |
16世紀中期から普及し、自然石をほぼ加工せずに積む。
16世紀末から広く普及し、自然石の接合部分を加工して積む。
大坂夏の陣後の元和年間以降に普及し、自然石や切石を完全に加工及び成形して積む。
石材の高さをある程度揃え、横目地を通す積み方。
横目地を通さない積み方。大小の石を使い、縦と横などの向きを不規則に積んでいく。
石垣は基本的に、「野面積→打込接→切込接」の順で発展し、城が築かれた年代もおおよそ石垣の積み方で推測できます。ただ、どの積み方を選択したかは、石丁場(いしちょうば:採石場)の有無、城主の経済状況などでも変わるため、新しい年代でも野面積が使われていることもあります。
また一概に、切込接が一番新しいから、最も優れているとは言えません。切込接の場合は地震時、石同士が直接衝突するため割れてしまうことも。それを防ぐ工夫として「契り」(ちぎり)と呼ばれた、銅製の補強材が用いられた例があったことが、現代の解体修理などで分かってきています。
石垣は、基本的には「土台」、「築石」(つきいし)、「裏込石」(うらごめいし)の3層構造で成立していますが、崩れにくくするための工夫が随所に施されています。
例えば、間詰石(まづめいし)。切込接では築石と築石の間の隙間が全くないため、必要ありませんが、野面積と打込接では見た目と登りにくさの両面から使われました。
表面に間詰石を詰めても、隙間は完全にはなくなりませんが、逆にこのわずかな隙間と間詰石がクッションになることで、地震の揺れにも強い石垣になっているのです。
また、裏側の「飼石」(かいいし)は、隙間を埋めるというよりも完全に固定させる役割を担っており、築石と飼石だけで自立するほどの強固さが生まれます。さらに、表舞台に立つ築石を陰からしっかりと支えるのが、裏へ細かくぎっしりと敷き詰めた裏込石。雨水時、背面土(はいめんど)に水が溜まると、その水圧で築石が押し出されてしまう危険性があります。裏込石を配置することで、その雨水を石垣の底へと排出するのです。また、地震の際に背面土と築石の揺れの違いを緩和して、石垣を崩れにくくする機能も持っています。
石垣を積むにあたってもうひとつ重要なのは、構造上、最も力がかかる隅角(すみかど)の部分を強固に築くこと。そこで用いられたのが「算木積」(さんぎづみ)と呼ばれる技法です。
直方体の石材の長辺と短辺を、互い違いに積み上げていくもので、長辺が、短辺の石と短辺の隣に配された角脇石(すみわきいし)を挟み込むため、石垣の強度が上がって崩壊を防ぎます。
歴史上、大坂城は2つ存在。豊臣家の城として築城された「豊臣大坂城」と、豊臣秀吉亡きあと、豊臣大阪城をすべて埋め、その上に全く別の城として築かれた徳川家による「徳川大阪城」です。
現在、我々が目にする徳川大阪城は、江戸幕府の威信を誇示するために日本最大の城郭として築かれ、当然、石垣の高さも他を凌駕する物でなくてはならないとされ、石垣構築にあたっては、58名の西国大名を動員。約1,000,000個もの、上質な花崗岩(かこうがん)の切石が使われたと言われています。
大阪城の普請総奉行(現場監督)を務めたのが、築城の名手と言われた「藤堂高虎」(とうどうたかとら)。造られた経緯から、日本国内で大阪城の石垣が一番の高さを誇ります。最も高いのは本丸東面の石垣で約32m。さらに高さでは本丸東面の石垣に及ばないものの、大阪城二の丸南外堀の石垣も見ごたえたっぷり。南外堀の総延長は約2kmに及び、水堀の最大幅は約75m。そこに幾重にも美しい屈曲を見せる、高石垣が張り巡らされているのです。高さ約30mを誇り、横矢掛り(よこやがかり:侵攻してきた敵の進路を折り曲げ、側面から攻撃可能にする仕掛け)も施されたこの高石垣は、訪れた人達を驚かせる魅力を放っています。
城単位で見たとき、第2位の高石垣の城として君臨するのが、「伊賀上野城」(いがうえのじょう:三重県伊賀市)。本丸の石垣は、大阪城の南外堀の石垣と同じく、約30mの高さがあります。
伊賀上野城は、築城の名手である藤堂高虎の居城。「打込接/布積崩し」(うちこみはぎ/ぬのづみくずし)で築かれており、「藤堂流石垣」と言われる、反ることなく水堀からほぼ一直線に立ち上がっているように見える石垣が、圧倒的存在感を放っています。
藤堂高虎と並び築城の名手とうたわれたのが、「加藤清正」(かとうきよまさ)。加藤清正が手掛けた城の石垣は「清正流石垣」(せいしょうりゅういしがき)と呼ばれています。その加藤清正が築城し、居城とした「熊本城」(熊本県熊本市)には、「扇の勾配」と呼ばれる石垣があります。
これは、石垣の下から2分の1、あるいは3分の1までの勾配は緩やかなものの、そこから上部にかけて急角度の「反り」(そり)が付けられたもの。
最後にはほぼ垂直にそそり立ち、扇が開いたような曲線を描くことから扇の勾配の名が付いているのです。この反りは、見た目にも非常に美しいのですが、「武者返し」(むしゃがえし)、あるいは「忍び返し」(しのびがえし)と呼ばれ、石垣をよじ登ろうとする、敵の侵攻を防ぐ仕掛けとして施されています。