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和宮降嫁
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「和宮」(かずのみや)は120代「仁孝天皇」(にんこうてんのう)の皇女で、幕末の動乱期を生き抜いた人物です。幼くして婚約するも、16歳のときに江戸幕府14代将軍「徳川家茂」(とくがわいえもち)と政略結婚することになります。その背景には、欧米からの圧力、尊王攘夷派の台頭、公武合体による江戸幕府再建など、様々な立場の思惑がありました。不本意にも徳川家へ降嫁(こうか:皇女や王女が皇族・王族以外の者に嫁ぐこと)することになった和宮でしたが、大奥に入ってからは徳川家の存続に尽力し、「江戸城」(現在の東京都千代田区)の無血開城にも大きく貢献します。幕末から明治時代にかけて重責を担った和宮の生涯を見ていきましょう。

和宮の生涯

仁孝天皇の皇女として生まれた和宮

和宮親子内親王

和宮親子内親王

江戸時代末期の1846年(弘化3年)、和宮は仁孝天皇の第8皇女として生まれました。母は側室の「橋本経子」(はしもとつねこ)で、生誕地は「京都御所」(京都府京都市上京区)の隣にある橋本邸です。

和宮という名前は、異母兄の121代「孝明天皇」(こうめいてんのう)から賜った幼名。1861年(文久元年)、内親王宣下により「親子」(ちかこ)という諱(いみな:生前の実名)を賜ったことから、和宮は「親子内親王」(ちかこないしんのう)の名でも知られています。

幼少期、橋本邸で育てられた和宮は、1851年(嘉永4年)に「有栖川宮熾仁親王」(ありすがわのみやたるひとしんのう)と婚約。いわゆる許嫁(いいなずけ)です。和宮の生涯を見ていく前に、当時の日本が置かれた状況を振り返っていきましょう。

和宮が生きた幕末の動乱期

幕末の日本は、まさに海外に門戸を開くかどうかの転換期。1853年(嘉永6年)には浦賀(神奈川県横須賀市東部)にアメリカのペリー艦隊が来航したことで下田(静岡県下田市)と函館(北海道函館市)が開港となり、さらに1856年(安政3年)には下田にアメリカ総領事「ダウンセント・ハリス」が着任します。

ハリスは江戸幕府に対してアメリカと貿易するよう要求。江戸幕府内では貿易容認派と否定派で意見が分かれ、なかなか結論を出すことができませんでした。ただ、大陸ではイギリスやフランスが清(現在の中国)を侵攻しており、それが日本にも及ぶかもしれない状況。ハリスはアメリカが求めるのは貿易だけであり、侵略はしないと日本を説得し続けました。

日米修好通商条約の調印

10回以上にもわたって日米間の交渉が行われた結果、江戸幕府は、通商条約締結についてはやむなしという結論に達します。そして、条約をかわすためには天皇の許可が必要になるのですが、朝廷はなかなか条約勅許(じょうやくちょっきょ:条約締結の許可)を出しません。しびれを切らした江戸幕府は最終的に勅許なしで、日米修好通商条約に調印します。条約は領事裁判権の容認、関税自主権の欠如など、日本に不利な内容であったため、調印の結果、孝明天皇が激怒しただけでなく、民衆の反感も高まっていきました。

そのような背景から、江戸幕府は自身の権威回復や尊王攘夷派の批難から逃れるため、「公武合体」を唱えるようになります。

公武合体とは、朝廷と江戸幕府が協働して幕藩体制の再強化を図っていく政治論です。そして、そのための具体策として白羽の矢を立てられたのが和宮でした。

徳川家に降嫁した和宮

徳川家茂と結婚

江戸幕府は公武合体の象徴として、和宮に降嫁するよう朝廷に申し出ます。しかし、孝明天皇は和宮の政略結婚には断固反対の立場。そもそも朝廷側のメリットが薄く、なにより和宮には有栖川宮熾仁親王という許嫁がおり、関東に行くのも嫌がっていました。それでも幕府はなかなか引き下がりません。

最終的に孝明天皇は公武合体路線を容認し、和宮に対して「結婚しないのであれば、1歳の寿万宮[すまのみや:孝明天皇の第3皇女]を降嫁させ、和宮は出家させる」と説得します。幕府に嫁ぐか、寺に入って尼になるかの二択を迫られた和宮は、しぶしぶ降嫁を了承。最終的に下記のような条件のもと、1862年(文久2年)に和宮は14代将軍・徳川家茂と結婚したのでした。

  • 父・仁孝天皇の回忌ごとに上洛させてもらうこと
  • 大奥に入っても、御所の流儀にのっとって生活ができること
  • 御所の女官を江戸に付いていかせること
  • 和宮の降嫁は公武合体のために行われることを世に周知させること、など

大奥入りした和宮

不服ながら将軍と結婚した和宮は、「江戸城」(現在の東京都千代田区)で暮らすようになります。和宮は天皇家として武家に降嫁した唯一の例となりました。その前例のなさが、江戸城大奥内では様々な軋轢を生みます。

そのひとつが姑「天璋院」(てんしょういん:篤姫[あつひめ])との確執です。天璋院は13代将軍「徳川家定」(とくがわいえさだ)の正室。徳川家茂の養母でもあった天璋院は、突如として皇室から降嫁してきた和宮がおもしろくありません。

また、御所風の暮らしという条件はほとんど守られず、和宮は武家のしきたりをことあるごとに強要されました。和宮が天璋院と対面した際には、天璋院は会釈もせず、和宮の座る場所には敷物も用意されていなかったと言います。

徳川家茂との関係は良好

大奥のなかで肩身の狭かった和宮でしたが、夫である徳川家茂との関係は良好でした。徳川家茂はめずらしく側室を持たない将軍で、和宮のことを常に気にかけ生涯の伴侶として大切にしています。

また、1863年(文久3年)に徳川家茂が上洛するために江戸を離れると、そのあいだ和宮は「増上寺」(東京都港区)において、夫の無事を祈願するため御百度参りをしました。

上洛前、徳川家茂は和宮にお土産は何が欲しいかを聞いています。和宮は京都の染織物である西陣織(にしじんおり)を所望しました。

徳川家茂

徳川家茂

しかし、その願いは届かず、1866年(慶応2年)の上洛の際に病気を患い、徳川家茂は「大坂城」(現在の大阪城)で亡くなってしまいます。

その後、生前の徳川家茂が手に入れた西陣織は和宮のもとに届けられましたが、和宮は「空蝉の 唐織り衣 なにかせん 綾も錦も 君ありてこそ」(あなたがいないのに織物が一体何の役に立ちましょうか。素晴らしい綾織物も、色鮮やかな絹織物もあなたがいてこその物なのに)という和歌を詠みました。

徳川家存続の危機に挑んだ和宮

徳川慶喜が将軍職に就任

徳川家茂が亡くなる前後、和宮の生母も亡くなり、兄である孝明天皇も崩御。夫の死後、和宮は仏門に入り、号を「静寛院宮」(せいかんいんのみや)に改めました。

1866年(慶応2年)12月5日、徳川将軍の後継には「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)が就任します。なお、徳川慶喜は在京であり、和宮や天璋院には面会することなく将軍の座に就きました。徳川慶喜は西洋にならった政治体制構築を進めますが、一方で薩摩藩(現在の鹿児島県)や長州藩(現在の山口県)らの倒幕派の対処に苦慮します。そこで、徳川慶喜は1867年(慶応3年)10月に「大政奉還」を断行。およそ260年続いた江戸幕府を潔く終わらせ、倒幕の大義名分を消滅させたのです。

戊辰戦争が勃発

江戸幕府がなくなりはしたものの、討幕派は手をゆるめず新政府を樹立。新政府軍は1867年(慶応3年)12月9日に「王政復古の大号令」を発令し、徳川家の地位剥奪と領地の返上を要求します。そして、1868年(慶応4年)1月、旧幕府軍と新政府軍による「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)が始まりました。

戊辰戦争の初戦である「鳥羽・伏見の戦い」に敗れた徳川慶喜は、大坂から江戸へと逃げ帰り、和宮と天璋院への面会を求めます。大奥の意向を聞き入れず独断で政権運営を行っていた徳川慶喜に対して、大奥の2人は最初のうちは厳しい態度を取りました。しかし、最終的には徳川家の存続を重視し、徳川慶喜の謝罪を受け入れます。

天璋院と手を取り徳川家存続に尽力

天璋院(篤姫)

天璋院(篤姫)

降嫁してすぐのころは不仲だった和宮と天璋院でしたが、幕末の動乱期を通じて次第に関係は改善していきました。

徳川慶喜が水戸(現在の茨城県水戸市)で謹慎するなか、和宮と天璋院は「命をかけて徳川家の存続をお願いしたい」という嘆願書を複数回にわたって新政府軍に送り続けます。

1868年(慶応4年)2月15日、新政府軍が江戸城に向けて京都を出発。江戸に到着した新政府軍は3月15日に江戸城を総攻撃することを決定します。

江戸城では新政府軍の進撃を恐れ、日を追うごとに逃亡者が相次ぎました。それでも和宮と天璋院は頑として江戸城を離れず、最後まで徳川家への寛大な処分を訴えます。

そして、江戸城攻撃の直前、3月13日に江戸幕府側の「勝海舟」(かつかいしゅう)と新政府側の「西郷隆盛」(さいごうたかもり)が会談を実施。この会談により、江戸城への攻撃が中止されました。和宮や天璋院が命をかけて嘆願し続けた思いが通じたのか、江戸城は無血開城となったのです。

和宮が降嫁し、江戸幕府側に立って新政府と交渉したおかけで、江戸の町は戦禍を免れることができたと言えます。これは、和宮の最も大きな功績のひとつです。

明治維新後の暮らし

明治維新後の和宮は一旦京都へ上り、1869年(明治2年)2月24日に「明治天皇」と対面を果たしました。また、この上洛の際には父である仁孝天皇陵への参拝も行っています。

その後、1874年(明治7年)に江戸に戻ると、以降は元八戸藩主「南部信順」(なんぶのぶゆき)の邸宅で暮らし、天璋院や勝海舟などとも交流を持っていました。

1877年(明治10年)頃からは脚気(ビタミン欠乏症の一種)を患うようになり、箱根温泉(現在の神奈川県足柄下郡箱根町)で療養。療養先である塔ノ沢において、31歳で薨去(こうきょ)しました。

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