茶の湯と焼き物

犬山焼
/ホームメイト

犬山焼 犬山焼
文字サイズ

「犬山城」(いぬやまじょう:愛知県犬山市)で知られる愛知県犬山市は、城下町の面影を色濃く残す、近年人気の観光地。ここで生まれた「犬山焼」(いぬやまやき)は、尾張国(おわりのくに:愛知県西部)地方の焼き物の中でも、一際色彩に富んだ華やかな焼き物です。誕生は、約300年前とされますが、正確なところは分かりません。犬山城主「成瀬家」(なるせけ)の保護を受け、犬山焼が最も盛えたのは、江戸時代中期から末期。時代の流れに翻弄されながらも、伝統工芸として現在まで継承されてきました。犬山焼の代名詞とされる「雲錦手」(うんきんで)、「赤絵」(あかえ)の色鮮やかな文様は、時代を超えて観る人の目を楽しませます。

犬山焼の誕生と変遷

起源には諸説あり

犬山城

犬山城

犬山焼が初めて作られたのは、愛知県犬山市の東南部にある今井村(いまいむら)とされます。

起源に関しては、1688~1704年の元禄年間説と、1751~1764年の宝暦年間説の2説がありますが、確実な文献が遺されていないことから、どちらの説も決め手に欠けると言われてきました。

しかし、今井村に現存する窯跡から出土した陶片を分析した結果、18世紀後半の様式が認められたため、現在では宝暦年間に開窯されたという説が有力になっています。

今井窯の創始者は、「奥村伝三郎」(おくむらでんざぶろう)。奥村伝三郎は、岐阜県南部の可児(かに)地方にいた「美濃焼」(みのやき)の陶工を招き、今井窯で焼き物を作らせました。

犬山は愛知県の最北端に位置し、岐阜県の可児とは木曽川を挟んで隣接しており、2つの地区は文化、産業、物流など、多方面にわたって古くから交流。当時、今井窯で焼かれたのは徳利(とっくり)、片口鉢、お碗、すり鉢、茶碗、皿などの日用雑器が中心でした。

今井村近辺は、犬山城主であった成瀬家の鷹狩り場で、城主は鷹狩りの際に、たびたび窯場を訪れて陶工達を激励しました。出土した焼き物の中に「犬山」の刻印が残った物も多く、今井窯は成瀬家の庇護のもとにあったと考えられます。

奥村伝三郎に続き、2代目「奥村源助」(おくむらげんすけ)、3代目「奥村太右衛門」(おくむらたえもん)へと窯は継承されましたが、3代目・奥村太右衛門が没すると、1781年(安永10年)頃に窯は閉じられてしまいました。こうして今井窯は、わずかな期間で終わってしまったのです。

成瀬家の「御庭焼」として再スタート

これを惜しんだのが、7代犬山城主「成瀬正壽」(なるせまさなが)でした。1810年(文化7年)、犬山上本町に住む「島屋宗九郎」(しまやそうくろう)に命じて、犬山城下の丸山に「丸山窯」(まるやまがま)を築き、犬山焼の再興を図ります。

しかし、丸山窯を開くや否や「瀬戸焼」(せとやき)で知られる、瀬戸(現在の愛知県瀬戸市)の陶工達から圧力がかかりました。

成瀬家は、尾張徳川家の「付家老」(つけがろう:主君の補佐にあたる重臣)として絶大な権限を与えられていたため、丸山窯は「御庭焼」(おにわやき:主君が自らの庭に窯を築いて作る焼き物)であると主張し、瀬戸陶工らの圧力をはねのけました。以後、丸山窯で作られた焼き物が今に伝わる犬山焼の主流となっていきました。

廃業そして復興へ

丸山窯は1817年(文化14年)、「大島太兵衛」(おおしまたへい)に引き継がれます。大島太兵衛は、丸山窯を築いた島屋宗九郎と同じく犬山上本町に住む商人で、油と綿の商いで事業を広げていました。

大島太兵衛は京都、瀬戸、名古屋などから陶工を招いて、犬山焼の発展に尽力。商人としての幅広い人脈を活かし、経営を軌道に乗せていきます。のちに、赤絵の名手である陶工「道平」(どうへい)が加わり、犬山焼は最盛期を迎えました。

こうして幕末まで続いた丸山窯ですが、明治維新後の廃藩置県(藩を廃して府県を配置すること)によって、成瀬家の援助が途絶えると経営に行き詰ります。また、赤絵を引き立たせるために必要な良質の陶土の確保、供給ルートなどの課題も多く、1873年(明治6年)に丸山窯も廃業することとなりました。

その後、かつて犬山城の御用瓦師(ごようがわらし)を勤めていた「尾関作十郎」(おぜきさくじゅうろう)が中心となり、旧犬山藩士の授産事業(じゅさんじぎょう:仕事を与え、生活を助けること)として、1883年(明治16年)に「犬山陶器会社」(いぬやまとうきがいしゃ)を設立。犬山焼は、再び復活することになりました。

お殿様の心をつかんだ犬山焼の意匠

器の中で春と秋が同時に

雲錦手イメージ(桜と紅葉)

雲錦手イメージ(桜と紅葉)

犬山焼の大きな特徴として、雲錦手(うんきんで)と赤絵があります。

雲錦手とは、ひとつの器に桜と紅葉という別の季節を同時に描く手法。「吉野山の桜は雲かとぞ見え、竜田山の紅葉は錦のごとし」という、「古今和歌集」(こきんわかしゅう:平安時代初期の歌集)の句にちなんでいます。

意匠のお手本となったのは、幕末の「京焼」(きょうやき:京都で生産される焼き物の総称)の名工「仁阿弥道八」(にんなみどうはち)の作品。模様が器の内と外に描かれており、あらゆる角度から鑑賞できる演出が施されています。春と秋の風物詩がモチーフのため、季節を問わず使えるのも魅力でした。

本場に負けない赤絵の画力

一方の赤絵は、古くは中国の明(みん:14~17世紀の中国王朝)から伝わった「呉須赤絵」(ごすあかえ)が原点とされます。8代犬山城主「成瀬正住」(なるせまさずみ)が、呉須赤絵の大皿、鉢などを収集し、それらを犬山焼の陶工達に模写させた物です。

成瀬正住の期待に応え、名陶工・道平が本場にも引けを取らないほどの画力を発揮。白の素地に、赤、緑、黒などの鮮やかな色調で想像上の鳥、獣、草花などを描くという犬山焼の特徴的な様式は、この頃に確立されました。

今日では3軒の窯元が伝統的技法を受け継ぎ、大皿、壺、茶碗からマグカップ、箸置き、小皿、ぐい呑まで多彩なアイテムを制作しています。また、それぞれの窯元では陶芸体験も実施しており、かつては犬山城主の御用達だった犬山焼は、いっそう身近になっています。

犬山焼をSNSでシェアする

名古屋刀剣ワールド/名古屋刀剣博物館(名博メーハク) 名古屋刀剣ワールド/名古屋刀剣博物館(名博メーハク)
名古屋刀剣ワールド/名古屋刀剣博物館(名博メーハク)では、重要文化財などの貴重な日本刀をご覧いただくことができます。
キャラクターイラスト
キャラクターイラスト
キャラクターイラスト

「茶の湯と焼き物」の記事を読む


瀬戸焼

瀬戸焼
焼き物の代名詞でもある「せともの」という言葉は、愛知県瀬戸市の「瀬戸焼」(せとやき)からきています。日本で初めて「釉薬」(ゆうやく/うわぐすり:素焼きの陶磁器の表面にかけるガラス層)を使用したのが瀬戸焼で、日本の焼き物は瀬戸から始まったと言っても過言ではありません。良質の土、陶工の優れた技術、時の権力者達による手厚い保護などの好条件が重なり、瀬戸焼は常に日本の陶磁器産業をリードしてきました。その歴史は、茶道の歴史とも深いかかわりがあります。1,000年もの間、一度も釜の炎を絶やすことがなかった瀬戸。そこには、焼き物の町ならではの文化や風景が点在します。

瀬戸焼

常滑焼

常滑焼
「常滑焼」(とこなめやき)は、愛知県の知多半島にある常滑市で作られる焼き物。現存する日本最古の窯場(かまば)で、その由来は平安時代に遡ります。また、常滑焼と言えばすぐに思い出すのは、煎茶(せんちゃ)道具に欠かせない赤茶色の急須ですが、もともと常滑は甕(かめ)、壺など大きな焼き物を得意としていました。海運に恵まれたこともあり、中世から常滑焼は全国に流通。江戸時代以降には近代産業、生活を支える土管の生産が盛んになりました。起伏に富んだ常滑の町は、役目を終えた土管、酒瓶で飾られた坂、崖が多く見られ、焼き物の里らしい独特の景観を作っています。

常滑焼

御深井焼

御深井焼
「御深井焼」(おふけやき)は、尾張国(おわりのくに:現在の愛知県西部)の名古屋で生産された焼き物のひとつ。江戸時代初期に尾張徳川家の庇護を受け、「名古屋城」(愛知県名古屋市)城内の「御深井丸」(おふけまる)の窯で焼かれたことが名前の由来です。江戸時代には、支配層や富裕層が自らの庭に窯を築いて焼き物を作ることが流行し、「御庭焼」(おにわやき)と呼ばれました。御深井焼はこの御庭焼の典型であり、公的な贈答品から城内の調度品、さらには家臣への褒美まで大量に生産されたのです。200年を超える歴史のなかで衰退と復興を繰り返しながらも、御深井焼は幕末まで脈々と焼き継がれていきました。

御深井焼

織部焼

織部焼
安土桃山時代に生まれた「織部焼」(おりべやき)は、戦国武将で茶の湯を牽引した「古田織部」(ふるたおりべ)に由来します。織部焼は、ユニークな造形に斬新な絵柄が特徴で、それまで好まれた端正で慎ましい味わいの茶道具に反発するかのような、迫力と大胆さに満ちていました。織部焼が作られたのは、安土桃山時代から江戸時代初期にかけてのわずか30年ほどに過ぎません。しかし、常識にとらわれない独自の美意識を持つ古田織部の人物像を反映した茶道具、食器は、「織部好み」(おりべごのみ)と言われ、人々の心をとらえました。現代においても日本を代表する焼き物のひとつとして、多くの作品が重要文化財に指定されるなど、骨董愛好家はもとより料理家など幅広い人々を魅了しています。

織部焼

注目ワード
注目ワード