「武具」(ぶぐ)とは、近代以前の戦場で使われた道具の総称です。敵を攻撃する「攻撃具」(こうげきぐ)、攻撃から身を守る「防御具」(ぼうぎょぐ)、陣を張ったり馬に乗ったりするときに使用する「その他の道具」の3種類があります。日本における武具の最大の特徴は、長い時間をかけて実用性・ 機能性を追求するなかで細分化され、膨大な種類の武具が誕生したことでした。そして、これらの武具一つひとつにきめ細かい細工が施され、現代では芸術品としても世界中で高く評価されています。
日本刀を形状で分けたとき、日本で最も初期の日本刀は、真っすぐな刀身をもつ「直刀」(ちょくとう)です。その多くは、「両刃」(もろは:刀身の両方に刃を切った物)の剣(けん/つるぎ)でした。その後、平安時代後期には、湾曲した刀身をもつ「太刀」(たち)が登場。しかし、戦国時代になると接近戦が増えたため、太刀よりもより使いやすい、刀身の短い「打刀」(うちがたな)と、さらに短い「脇差」(わきざし)が誕生しました。時代小説などで、武士が腰に差した「大小」と表現される日本刀は、打刀と脇差のことです。
日本刀を作刀時期で分けると、江戸時代より前に作られた日本刀は「古刀」(ことう)、江戸時代以降は「新刀」(しんとう)と呼ばれます。そして、江戸後期の1764年(明和元年)あたりから1876年(明治9年)の廃刀令までに作られた物が「新々刀」(しんしんとう)、それ以降の物は「現代刀」(げんだいとう)と呼ばれる物です。
日本刀以外では、長い柄の先に両刃の剣を装着した「槍」(やり)や、湾曲した長い刃で相手を薙ぎ払うことから名付けられた「薙刀」(なぎなた:長刀とも)などのバリエーションもありました。
日本で用いられた銃は、16世紀中頃に伝来した「火縄銃」(ひなわじゅう)と、江戸時代後期に輸入された「西洋式銃」(せいようしきじゅう)に分かれます。
火縄銃は、戦国武将が工夫を凝らしたことで、多くの変種が誕生。一般的な火縄銃に用いられた弾の直径は約17mmでしたが、100mm以上の弾を発射できる「大鉄砲」(おおでっぽう)と呼ばれるタイプもありました。他には、口径が小さく、銃身が短い「小筒」(こづつ)、馬上で使用する「馬上筒」(ばじょうづつ)、さらに多数の弾を一斉に発射できる「五連発銃」(ごれんぱつじゅう)、「二十連発銃」(にじゅうれんぱつじゅう)、手のひらに収まるサイズで暗殺などに用いられた、「芥砲」(かいほう:握り鉄砲)なども残っています。
一方の西洋式銃は、火縄銃と違って雨のなかでも使えるため、各藩がこぞって導入。幕末の動乱期には大いに活躍しました。燧石(すいせき:火打石)で火薬に点火する「ゲベール銃」や、火薬を詰めた雷管(らいかん)で着火する「エンフィールド銃」、明治維新後も警察で使われた「スナイドル銃」などの種類があります。なかには、20本の銃身を持つ「二十連発銃」と呼ばれるタイプも存在しました。
こうした銃よりも巨大サイズで、大口径の弾丸を飛ばせる武器が「大筒」(おおづつ)です。こちらも早い物は戦国時代から用いられていますが、江戸時代に鍛造技術(たんぞうぎじゅつ)が発達したことと、海防意識の高まりから、多彩な大筒が誕生。砲の口径に対して砲身長が長い「加農砲」(かのんほう)や、逆に砲身長が短い「臼砲」(うすほう)、着弾時に無数の弾に分裂する「榴散弾」(りゅうさんだん)を発射できる「榴弾砲」(りゅうだんほう)など、きわめて殺傷能力が高い大筒もありました。
石器時代から使われている、最も古い攻撃具が弓です。初期の弓は木の枝を削っただけの物で、これを「丸木弓」(まるきゆみ)と言います。
その後、より強度を持たせるために複数の樹木を張り合わせるようになり、木と竹を接いだ「伏竹弓」(ふせだけのゆみ)、竹の本数を増やした「三枚打弓」(さんまいうちのゆみ)・「四方竹弓」(しほうだけのゆみ)、より複雑に竹と木を組み合わせた「弓胎弓」(ひごゆみ)などが生まれました。弓胎弓は、「三十三間堂」(さんじゅうさんげんどう:京都市東山区)の儀式である「通し矢」(とおしや)で、120mもの距離を飛ばすために強化された弓と言われます。
矢については、矢竹(やだけ)の先端に鏃(やじり)を付け、その反対側に矢羽(やばね)などを取り付けた構造は昔から変わりません。また、単に相手を射抜くための物ばかりではなく、戦場で戦いの合図を鳴らすため、大きな風切り音を出す「鏑矢」(かぶらや)という種類もありました。
甲冑(鎧兜)とは、頭を保護する「兜」(かぶと)と、胴体を保護する「鎧」(よろい)の総称。日本の甲冑(鎧兜)は、4つの種類に大別できます。
平安時代から鎌倉時代にかけて使われたのが、「大鎧」(おおよろい)。腰から下を保護する「草摺」(くさずり)が前後左右4枚に分かれており、武将が馬上から矢を射かけるのに適していました。敵の矢を通さない反面、重量が重いという欠点もあります。
次に、南北朝時代に生まれたのが「胴丸」(どうまる)で、中・下級の徒歩(かち)武者用に発達した甲冑(鎧兜)です。騎馬戦から徒歩武者による野戦が主流となったことで、より動きやすさを求めて生まれたと考えられています。その後、背中から身体を入れて引き合わせる形式で、胴丸よりも軽量な「腹巻」(はらまき)が登場。
そして、戦国時代に主流になった槍や鉄砲による集団戦に対応できるよう、より頑丈で軽量に作られた「当世具足」(とうせいぐそく)が生まれました。武士が戦場での活躍を周囲に印象付けるために、独自の意匠を施した「変わり兜」が多数登場したのも当世具足の特徴と言えます。
戦場で敵味方を区別するため、兵士が背中に立てていた目印が「指物」(さしもの)。なかでも、旗は「旗指物」(はたさしもの)と呼ばれ、竿に旗を結ぶ輪が付けられた「乳付旗指物」(ちつきはたさしもの)と、竿を1枚の布でくるんだ「縫いくるみ旗」という種類がありました。
戦国時代の武将は、旗以外にも様々な物を竿からぶらさげて自分の存在を誇示。デザインはとてもユニークで、例えば団扇や団子、蝶の羽など、独創性あふれる指物を使用したことが記録に残されています。
また、大将が戦場で自分の所在を示すために立てた目印は、「馬印[馬標]」(うまじるし)と呼ばれました。こちらは「織田信長」の唐傘、「豊臣秀吉」の千成瓢箪(せんなりびょうたん)、「徳川家康」の金の扇などが有名です。
戦場で大将が軍を指揮する道具としては「軍配」(ぐんばい)、「軍扇」(ぐんせん)、「采配」(さいはい)などがあります。
軍配は「軍配団扇」(ぐんばいうちわ)の略で、室町時代から戦で用いられたと考えられている道具。単なる扇子ではなく、用いる木の種類や形状、さらに扇に描かれた月や星、太陽の寸法、さらに持ち方まで細かく規定されていました。
一方、細く割いた紙を束ねて棒の先に付けた物が采配です。紙以外に、ヤク(チベット高原で飼育されていた大型牛)の尾を使った物、紙に金箔や銀箔を押した物などもありました。
このように細かい規定を設けられたり、様々な変種が生まれたりした背景には、これらの視覚による指揮具が戦場ではあまり実用的ではなく、むしろ大将の権威を示したり、縁起を担いだりする道具だったためと考えられます。
敵味方が入り乱れた戦場における情報伝達で効果的なのは、音で合図する「鳴り物」(なりもの)でした。これには、寺の梵鐘(ぼんしょう)をルーツに持つ「陣鐘」(じんがね)や、鼓(つづみ/こ)を大型化させた「陣太鼓」、戦国時代の武将「黒田長政」(くろだながまさ)が中国軍から奪ったと言われる「銅鑼」(どら)、小さな音でも遠くまで響いた「拍子木」(ひょうしぎ)などがあります。
また、もともと仏具として山伏(やまぶし:山中で修行をする山岳信仰者)が利用していた「法螺貝」(ほらがい)は、攻撃を知らせる「寄せ貝」(よせがい)、退却を知らせる「引き貝」(ひきがい)などとして利用されました。平安時代後期には、多くの法螺貝を一斉に吹き鳴らし、大勢の兵士がいるように見せかけたという例も記録されています。
戦場で大将が陣を敷いた場所を「帷幕」(いばく)と呼び、帷幕のなかで使われるすべての武具は「陣営具」(じんえいぐ)と呼ばれました。
例えば、陣の周囲に巡らせる「幔幕」(まんまく)。屋外ばかりでなく、屋内の陣でも家屋の周囲に張り巡らされました。幔幕は、現在の行事などで会場の周囲に張られる紅白幕などへと引き継がれています。
他にも大将が陣中で使用する腰掛けである「床几」(しょうぎ)、大将が鎧の上に着用した「陣羽織」(じんばおり)、篝火(かがりび)や松明(たいまつ)といった「照明具」など、様々な陣営具が使用されていました。