「千利休」(せんのりきゅう)が確立した茶の湯は、千利休の3人のひ孫によって3つの流派に分かれました。3人とは、「表千家」(おもてせんけ)を興した「江岑宗左」(こうしんそうさ)、「裏千家」(うらせんけ)を興した「仙叟宗室」(せんそうそうしつ)、そして「武者小路千家」(むしゃのこうじせんけ)を興した「一翁宗守」(いちおうそうしゅ)です。彼らが興した3つの流派は、千利休の茶の伝統を受け継ぐ家系であるため、「三千家」(さんせんけ)と呼ばれます。武者小路千家について、主な特徴と概要、歴代の家元などを紹介します。
千利休の孫、「元伯宗旦」(げんぱくそうたん)の次男・一翁宗守は、塗師(ぬし:木地に漆を塗る職人)の仕事をしていましたが、還暦を前に千家に戻り、家業である茶の道を継ごうと決意します。元伯宗旦は、千家をさらに発展させるため、三男の江岑宗左を紀州徳川家、四男の仙叟宗室を加賀藩(かがはん:現在の石川県金沢市)前田家へ茶堂(ちゃどう:茶の指南役)として送り込んでおり、やがて一翁宗守も茶堂として高松藩(たかまつはん:現在の香川県高松市)の松平家に仕えることになりました。
しかし、この頃には一翁宗守はすでに70歳を超えていたため、すぐに長男の「文叔宗守」(ぶんしゅくそうしゅ)に職を譲り、自身は京都へ戻って茶室「官休庵」(かんきゅうあん)を築きます。
この名前には、茶堂の職を辞して茶の湯に専念するという決意が込められていると言われます。
そして、この官休庵が京都の武者小路にあったことから、一翁宗守の流派は武者小路千家と呼ばれることになりました。
その後、何度も断絶の危機を乗り越えた武者小路千家でしたが、明治時代末期には一時断絶してしまいます。しかし1926年(大正15年)に復興し、1964年(昭和39年)には日本初の学校形式による茶道の教育機関「千茶道文化学院」(せんさどうぶんかがくいん:京都府京都市)を設立するなど、今日も茶道の発展に寄与し続けています。
一翁宗守は、幼くして塗師「吉文字屋」(きちもじや)へ養子に入りましたが、のちに千家に戻って武者小路千家を興しました。ちなみに、養父の吉文字屋の主人は、戦国武将「福島正則」(ふくしままさのり)の孫であったと伝えられます。
文叔宗守は、4代・一翁宗守の子。歴代の家元の中でも記録がきわめて少ない人物ですが、近衛家(このえけ:藤原北家一族で、摂政、関白を輩出した摂関家のひとつ)の茶器に文叔宗守の名があることから、近衛家と懇意であったことが分かります。
「真伯宗守」(しんぱくそうしゅ)は、15歳で家元を継承。その優雅な筆跡と、見事な「手捏ね茶碗」(てつくねちゃわん)の出来栄えから、かなりの芸術家肌であったと推測されます。
「堅叟宗守」(けんそうそうしゅ)は、表千家7代家元「天然宗左」(てんねんそうさ)、裏千家8代家元「一燈宗室」(いっとうそうしつ)らと力を合わせて家元制度を整備し、入門者の人数を増やして盛り返したことにより、「千家中興の祖」と呼ばれました。
家祖・一翁宗守から続く官休庵を火災で失ったものの、すぐに再建に取り組み、2年後の「一翁宗守100回忌」に間に合わせました。その際、茶席としては異例とも言える15畳の大広間「弘道庵」(こうどうあん)を作ったことでも知られます。
もともとは7代・堅叟宗守の弟子でしたが、跡継ぎがなかったために養子として武者小路千家に入り、「休翁宗守」(きゅうおうそうしゅ)を名乗りました。
「仁翁宗守」(じんおうそうしゅ)は、裏千家9代家元「石翁宗室」(せきおうそうしつ)の三男。手作りの茶碗が数多く残されています。
「全道宗守」(ぜんどうそうしゅ)は、表千家10代家元「祥翁宗左」(しゅうおうそうさ)の弟。のちに失明したため、9代・仁翁宗守の妻が家元職を代行しました。
「一叟宗守」(いっそうそうしゅ)は、表千家10代家元・祥翁宗左の次男。幕末の大火で茶室を失いましたが、1881年(明治14年)に一部を復興。現在の祖堂(そどう:先祖を祀ったお堂)の「濤々軒」(たいたいけん)は、一叟宗守の指示で建てられました。
「聴松宗守」(ちょうしょうそうしゅ)は、表千家10代家元・祥翁宗左の末子。武者小路千家へ養子に入りますが、11代・一叟宗守が没したときにまだ幼かったため、一時的に武者小路千家は断絶。聴松宗守は表千家で養われ、成人後に武者小路千家の再興を果たしました。
「東京帝国大学」(現在の東京大学の前身)で国史学を修めた学究肌で、形式の伝授に終始するこれまでの茶の湯を批判し、「形式の底に潜む精神を理解しなくてはならない」と主張。ラジオ出演、出版なども積極的に手がけ、茶の湯を広く啓蒙しました。
「徳翁宗守」(とくおうそうしゅ)は、「京都帝国大学」(現在の京都大学の前身)卒業後、先代の娘婿として武者小路千家へ入りました。12代・聴松宗守の方針を受け継ぎ、1964年(昭和39年)に、日本初となる茶道の教育機関・千茶道文化学園を開校しました。
「千宗守」(せんのそうしゅ)は13代・徳翁宗守の子。1989年(平成元年)、徳翁宗守が病に伏した際に千宗守を襲名。1993年(平成5年)に数寄屋茶室「起風軒」(きふうけん)、2005年(平成17年)には総黒漆塗りの茶室「仰文閣」(ぎょうぶんかく)を築きました。別名「不徹斎」(ふてつさい)。
「千宗屋」(せんのそうおく)は14代・千宗守の長男。茶道具だけでなく日本美術史から古美術、現代アートまで造詣が深く、茶の湯以外の様々な芸術家と積極的に交流しています。2013年(平成25年)には、「京都府文化賞奨励賞」を獲得しました。
表千家、裏千家と比較すると、武者小路千家は茶室の装飾などがきわめてシンプルで簡素だと言われます。
また、茶事においては無駄のない合理的な所作を重視し、袱紗(ふくさ:女性が赤、男性が紫)、菓子器(蓋付)、薄茶(うすちゃ:あまり泡を立てない)など、千利休の伝統を重んじる表千家との共通点が比較的多いのが特徴です。
武者小路千家では、修行の進度に応じて段階ごとに免状が与えられます。しかし、この免状とは「技術が身に付いた証明」という意味ではなく、「これから教えていただく許可」という意味になります。
上記免状を取るための流れや費用は、教室・先生によって異なります。