茶人と流派の歴史

松尾流
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茶道の流派と言えば「表千家」(おもてせんけ)、「裏千家」(うらせんけ)、「武者小路千家」(むしゃのこうじせんけ)の「三千家」(さんせんけ)が有名ですが、日本には他にも500近い流派が存在するとされます。流派が違えばお点前の作法は違いますし、使用する道具も変わります。しかし、茶の湯の基本である「客をもてなす心」は変わりません。こうした茶道の流派のひとつで、愛知県名古屋市を中心に展開する「松尾流」(まつおりゅう)について、概要や歴史、作法などを紹介します。

松尾流とは

千利休に茶を教えた男

中国で生まれた茶の文化が日本に伝わったのは、鎌倉時代のこと。そして室町時代に、堺(現在の大阪府堺市)の商人「竹野紹鴎」(たけのじょうおう)が茶の湯を大成させました。

この竹野紹鴎の一番弟子とされた人物が、京都の「墨屋」(すみや)という呉服商の「辻玄哉」(つじげんさい)。辻玄哉は、竹野紹鴎から秘事(ひじ:奥義のこと)の「台子茶」(だいすちゃ:台子と呼ばれる机を使って茶を点てる方法)を伝授されます。

そして竹野紹鴎の没後、この秘事は辻玄哉から「千利休」(せんのりきゅう)へ伝えられたということが、近年様々な資料から明らかになってきました。千利休の師は、これまで竹野紹鴎であったとされますが、実は千利休の師匠は辻玄哉という可能性があるのです。

元伯宗旦より茶器を授かる

この辻玄哉が、松尾流を興した松尾家の初代です。松尾姓を名乗ったのは、その子である「辻五助」(つじごすけ)から。

松尾家3代「松尾宗二」(まつおそうじ)は、千利休の孫である「元伯宗旦」(げんぱくそうたん)のもとで茶を学び、元伯宗旦から「楽只軒」(らくしけん)の書、「楽只」(らくし)銘の茶杓、竹一重切花入れを拝領。以降、これらの茶器は松尾家の家宝となり、代々相続披露の茶会でのみで用いられることになります。

しかし、その後も松尾家の本業は呉服商であり、独自の流派を興すことはありませんでした。

表千家から松尾流を許可される

松尾家6代「松尾宗二」(まつおそうじ)は、表千家6代家元「原叟宗左」(げんそうそうさ)のもとで、表千家の奥義を取得。家元から「松尾流」を名乗ることを許可され、これが松尾流のはじまりとされます。

また、当時は、全国で茶の湯が大流行しており、名古屋でも多くの人々が千家の茶を学びたいとの気運が盛り上がっていました。

そこで1724年(享保9年)に、表千家は代稽古(だいげいこ:師匠に代わって稽古を付けること)のため、松尾流初代家元・楽只斎宗二を名古屋へ遣わします。楽只斎宗二は、名古屋に茶室「暫遊亭」(ざんゆうてい)を築き、頻繁に名古屋を訪ねて、茶文化の普及に努めました。

尾張周辺に松尾流が広がる

松尾流2代家元の「松尾宗五」(まつおそうご)は、名古屋へ来ていた縁で尾張徳川家と繋がりを持ちます。

そして3代、4代家元は三河国(みかわのくに:現在の愛知県東部)、美濃国(みののくに:現在の岐阜県南部)、伊勢国(いせのくに:現在の三重県北部)の有力者達と交流を持ち、茶の指導を行いました。

松尾流が最盛期を迎えたのは、5代家元の「松尾宗五」(まつおそうご)の頃。松尾宗五は、尾張徳川家10代藩主「徳川斉朝」(とくがわなりとも)に厚遇され、尾張徳川家の茶会に、松尾宗五が作った茶器が頻繁に使われたと言われます。

名古屋に定住し、茶道を広める

徳源寺

徳源寺

その後も松尾流は、京都から名古屋に出向いて茶を指導し続けました。

しかし1864年(元治元年)、7代家元「松尾宗五」(まつもとそうご)の時代に起きた「蛤御門の変」(はまぐりごもんのへん)により、京都にあった松尾家の屋敷が焼失。

松尾宗五は、 尾張徳川家の医師「林良益」(はやしりょうえき)を頼り、家族全員で名古屋へ移住。以降、松尾流は名古屋を拠点として、茶の湯の指導を行うことになりました。

松尾流9代家元「松尾宗見」(まつおそうけん)は造園にも通じ、「徳源寺」(とくげんじ:愛知県名古屋市東区)、「聞天閣」(もんてんかく:愛知県名古屋市昭和区)など、数多くの名園を残しています。

そして、松尾流10代家元「松尾宗吾」(まつおそうご)は、「第2次世界大戦」で疲弊した人々に茶道の効用を説き、一服の茶の楽しさを教えるなど、名古屋地区の茶文化の振興に寄与。これが認められ、のちに勲五等瑞宝賞を獲得しました。

歴代家元

  • 辻玄哉
  • 辻(松尾)五助
  • 松尾宗二:物斎(ぶっさい)
  • 松尾宗政
  • 松尾宗俊
  • 初代 松尾宗二:楽只斎(らくしさい)
  • 2代 松尾宗五:翫古斎(かんこさい)
  • 3代 松尾宗政:一等斎(いっとうさい)
  • 4代 松尾宗俊:不管斎(ふかんさい)
  • 5代 松尾宗五:不俊斎(ふしゅんさい)
  • 6代 松尾宗古:仰止斎(こうしさい)
  • 7代 松尾宗五:好古斎(こうこさい)
  • 8代 松尾宗幽:汲古斎(きゅうこさい)
  • 9代 松尾宗見:半古斎(はんこさい)
  • 10代 松尾宗吾:不染斎(ふせんさい)
  • 11代 松尾宗倫:葆光斎(ほうこうさい)
  • 12代(当代) 松尾宗典:妙玄斎(みょうげんさい)

松尾流の特徴

松尾流のお点前

懐紙

懐紙

流祖である楽只斎宗二が、表千家で茶の湯の奥義を獲得したことから、松尾流は表千家の影響を色濃く受けていると言われます。

しかし、細かい所作を見ていくと、松尾流は様々な点で、他流派とは異なります。

例えば表千家、裏千家の作法では、薄茶をいただくときに茶碗の正面に口を付けることを避けるため、茶碗を回して向きを変えます。

しかし松尾流では、茶碗の最も良い場所である正面から飲むことが良いとされるため、茶碗を回すという作法はありません。さらに、男女で所作に違いがあるのも松尾流の特徴。点前の方法でも、茶道具を片手で扱う「男点前」と、優美で繊細な動きの「女点前」があります。飲み終わったあとの茶碗も、男性は手で飲み口を拭うのに対して、女性は懐紙(かいし:茶事で用いる和紙)で拭うという違いがあるのです。

松尾流を学べる教室

松尾流の茶道を学べる教室は、愛知県内を中心に各地に存在しています。初めて茶道を学ぶ方は、本格的な稽古を始める前に、稽古の様子を見学し、雰囲気を確かめておくと良いでしょう。松尾流を学べる代表的な教室は、以下の通りです。

中日文化センター

〒460-0008 愛知県名古屋市中区栄4-1-1 中日ビル4階
TEL:0120-53-8164

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