茶人と流派の歴史

豊臣秀吉の茶会
/ホームメイト

豊臣秀吉の茶会 豊臣秀吉の茶会
文字サイズ

「織田信長」の夢を受け継いで、天下を統一した「豊臣秀吉」の政策は、基本的に織田信長の方針を受け継ぎ、発展させたものでした。例えば「茶の湯」に関しても、織田信長が優れた茶器を収集し、家臣に与えることで支配するという政治の道具として用いましたが、豊臣秀吉もその方針を受け継ぎ、茶の湯を政治の道具として使っています。しかし豊臣秀吉の場合、同時に自分の権力をアピールするという目的でも、茶の湯を活用しました。豊臣秀吉にとって茶の湯とは、まさに政治的なパフォーマンスなのでした。

豊臣秀吉と茶の湯

織田家で茶の湯に出会う

豊臣秀吉

豊臣秀吉

尾張国(おわりのくに:現在の愛知県西部)の守護代(しゅごだい:地方官)の家系であった織田信長は、すでに室町時代から、公家の間で流行していた茶の湯を知っていたとされます。

しかし低い身分出身で、幼い頃には放浪していたと伝わる豊臣秀吉が、いつ茶の湯に出会ったかは不明。おそらく織田家に仕えてからだろうと推測されます。

1576年(天正4年)に、「安土城」(滋賀県近江八幡市)の完成に尽力した褒美として、豊臣秀吉は「牧谿」(もっけい:中国の画僧)の「山市晴巒図」(さんしせいらんず)を織田信長にねだったという記録があることから、この頃にはかなり茶の湯に傾倒していたことが分かります。

茶会の場所は戦場

1577年(天正5年)、「上月城」(こうづきじょう:兵庫県佐用町)を攻略した豊臣秀吉は、織田信長から「乙御前釜」(おとごぜかま)を下賜され、さっそく茶会を開催。驚くのは茶会の場所。

当時、豊臣秀吉は「三木城」(みきじょう:兵庫県三木市)にたてこもる戦国武将「別所長治」(べっしょながはる)を攻撃中でした。茶会が行われたのは、三木城の間近の「付城」(つけしろ:敵陣攻略用の)。ここに堺から茶人「津田宗及」(つだそうぎゅう)を招いて、茶会を行ったのです。

実は当時、多くの戦国武将が戦場に茶器を持参していました。特に長期戦になりがちな攻城戦の場合、心を落ち着けるために陣内で茶の湯を行うことは、珍しいことではなかったのです。

当代きっての茶人との交流

この頃、織田信長が打ち出した「御茶湯御政道」(おちゃのゆごせいどう:茶の湯の政治利用)政策が浸透し、お茶をたしなむことは戦国武将に不可欠な教養となり、名器と呼ばれる茶器を所有することは、戦国武将のステータスになっていました。

戦国武将は茶の湯を極めるため、様々な茶人と交流を持つようになります。豊臣秀吉は前述の津田宗及の他、「今井宗久」(いまいそうきゅう)、のちに茶の湯を完成させた「千利休」(せんのりきゅう)らと交流し、茶の湯を学んでいきました。

豊臣秀吉と茶会

政治イベントとしての茶会

大徳寺

大徳寺

戦国武将にとっての茶会は、心静かに茶を楽しむ時間というだけでなく、敵味方関係なく人と人が武器を持たずに対面する数少ない機会でした。

織田信長が「本能寺の変」で討たれたあと、豊臣秀吉はこの茶会を政治の道具として、大いに活用しています。

1584年(天正12年)、織田信長の次男「織田信雄」(おだのぶかつ)と「徳川家康」の連合軍が豊臣秀吉に敵対して、「小牧・長久手の戦い」が勃発。合戦後、豊臣秀吉と徳川家康は和解の茶会を、「大徳寺」(だいとくじ:京都府京都市)で開催しました。

その翌1585年(天正13年)には、織田信雄と豊臣秀吉との和解の茶会が、「大坂城」(大阪府大阪市)で開かれています。しかし、織田信雄は毒殺を恐れ、豊臣秀吉が点てた茶をまったく口にしませんでした。当時の戦国武将による茶会は、命がけでもあったのです。

朝廷の度肝を抜いた禁中茶会

黄金の茶室

黄金の茶室

翌1586年(天正14年)にも、豊臣秀吉は禁中茶会を開催しました。

このときは天井から壁、茶道具にいたるまで、すべて金色で統一した黄金の茶室を「京都御所」(京都府京都市)内部に築き、106代「正親町天皇」(おおぎまちてんのう)に茶を献じています。

豊臣秀吉は、天皇に茶を差し上げる茶器が、これまで多くの人が使用した物であってはならないという配慮で、あえて黄金の茶器を用意したと言われます。

しかし、これもすべて豊臣秀吉が自身の財力と権力を公家に見せつけるための催し物でした。そして翌1587年(天正15年)の正月には、「大坂城茶会」を盛大に開催。禁中茶会が、公家へのアピールであったのに対し、こちらは武家に対する権力のアピールでした。

北野大茶会

政治パフォーマンスの集大成

北野天満宮

北野天満宮

茶会による政治政策の集大成が、1587年(天正15年)に開催された「北野大茶会」(きたのだいちゃかい/北野大茶湯[きたのおおちゃのゆ])です。事前に京都市中に掲示された「北野大茶会高札」(きたのだいちゃかいこうさつ)によれば、身分に関係なく誰もが参加しなくてはならないとされています。

北野大茶会が開かれたのは10月1日。広い「北野天満宮」(京都府京都市)境内の中央には、豊臣秀吉自慢の黄金の茶室とこれまでに収集した名物の数々が置かれ、その隣に千利休、津田宗及、今井宗久の茶室が勢ぞろい。

また、境内のあちこちに趣向を凝らした囲い茶席が築かれ、京都中から届けられた、お茶請け(茶と共に出すお菓子)がふるまわれました。茶席数は800席、あるいは1,500席とも言われ、まさに天下人にふさわしい大舞台でした。

わずか1日で終了した北野大茶会

当初、この北野大茶会は10日間開催される予定でしたが、実際は初日だけで終わっています。その理由について「最初から1日の予定であった」、「九州で反乱が起こったため中止になった」など諸説あります。

当時、北野大茶会に参加した公家の「吉田兼見」(よしだかねみ)は、日記の中で北野大茶会を「迷惑」と断言。実は北野大茶会の開催にあたり、茶席の設営、茶道具の準備費用が、京都在住の公家に求められたのです。

しかし、当時の公家は経済的に困窮。そのため、公家から見れば、最近茶の湯を覚えたばかりの豊臣秀吉が、気まぐれで開く北野大茶会に協力したくなかったのです。

この雰囲気が京都中の人々にも伝わり、初日こそある程度の賑わいであったものの、翌日以降の集客が期待できなかったために、豊臣秀吉は北野大茶会を1日で中止にしました。

京都改造は大茶会の仕返し?

その後、1591年(天正19年)から、豊臣秀吉は京都の改造事業に取り組み始めました。そのひとつが、防衛のために京都周辺に築いた「御土居」(おどい)。これは底部の幅10~20m、高さ3~6mという巨大な土手で、内外の交通が遮断されたために、京都の人々からはきわめて不評でした。

他にも、京都中の寺院を2ヵ所(現在の寺町通、寺之内通)へ移転させたり、京都を見張るために南に「伏見城」(ふしみじょう:京都府京都市)を築いたりしています。

実はこの京都改造の計画は、豊臣秀吉が威信をかけた北野大茶会に協力的でなかった京都の人々への仕返しであったという説も。豊臣秀吉は織田信長と同じくらい、もしくは織田信長以上に、茶の湯を重視していたのかも知れません。

豊臣秀吉の茶会をSNSでシェアする

名古屋刀剣ワールド/名古屋刀剣博物館(名博メーハク) 名古屋刀剣ワールド/名古屋刀剣博物館(名博メーハク)
名古屋刀剣ワールド/名古屋刀剣博物館(名博メーハク)では、重要文化財などの貴重な日本刀をご覧いただくことができます。
キャラクターイラスト
キャラクターイラスト
キャラクターイラスト

「茶人と流派の歴史」の記事を読む


千利休

千利休
千利休(せんのりきゅう)は、「茶道(茶の湯)」を確立した人物として有名ですが、茶道を通じて織田信長や豊臣秀吉の側近となり、政治的影響力を持った人物としても有名です。千利休は、豊臣秀吉の 逆鱗に触れて切腹を命じられ、無念の生涯を閉じますが、千利休による茶道の教えは、今もなお受け継がれています。ここでは、現代の日本茶道の源流である「茶の湯」を確立した「千利休」について、詳しくご紹介します。 千利休千利休の生い立ちや人物像、実力者の実績などの詳細をご紹介します。

千利休

細川忠興

細川忠興
極端な愛妻家であったことで知られる戦国武将「細川忠興」(ほそかわただおき)。愛妻が主君の仇の娘という複雑な立場であったにもかかわらず、戦乱の世を生き延び、肥後細川家を現代まで存続させた政治的手腕の持ち主です。また同時に、細川忠興は、茶の湯をはじめとする風流人の一面があることでも有名な人物。ここでは、茶人として名を馳せた細川忠興に焦点を当て、生涯と共にご紹介します。

細川忠興

織部流の祖 古田織部(古田重然)

織部流の祖 古田織部(古田重然)
安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将「古田重然」(ふるたしげなり)に聞き覚えがない人も、茶の湯を大成した茶人「古田織部」(ふるたおりべ)にはピンと来るかもしれません。「古田織部(古田重然)」は、「千利休」(せんのりきゅう)の弟子として茶の道に精進し、茶器や会席具、作庭に至るまで、「織部好み」とも称される茶の湯の流行を作り上げた人物です。形や模様の斬新さで知られる陶器「織部焼」も、古田織部(古田重然)の指導により誕生しました。近年は、「へうげもの」と言う人気漫画の主人公として登場し、その名を目にする機会が増えているでしょう。ここでは、千利休の後継者と目された一方で権力者の勘気を被り、無念の死を遂げた古田織部(古田重然)の生涯や逸話、茶人としての活躍などをご紹介します。

織部流の祖 古田織部(古田重然)

有楽流の祖 織田有楽斎(織田長益)

有楽流の祖 織田有楽斎(織田長益)
「織田有楽斎」(おだうらくさい:織田長益[おだながます])は、戦国時代、一際鮮烈に名を残した「織田信長」の弟。幼い頃の記録がほとんどないため、半生は謎に包まれています。兄と比べると地味な印象を受けますが、兄・織田信長が大きな関心を示した茶の湯に通じ、茶道「有楽流」の始祖となるなど、文化人として名を成しました。文化人・織田有楽斎(織田長益)の、茶人としての活躍に注目をして、ご紹介します。 織田有楽斎(織田長益)織田有楽斎(織田長益)のエピソードや関係する人物、戦い(合戦)をご紹介します。 織田有楽斎(長益)と国宝・有楽来国光にまつわるエピソードをまとめました。

有楽流の祖 織田有楽斎(織田長益)

利休七哲の筆頭 蒲生氏郷

利休七哲の筆頭 蒲生氏郷
近江(現在の滋賀県)、伊勢(現在の三重県北中部)、陸奥(現在の福島県)と3つの地域で城主を務めた「蒲生氏郷」(がもううじさと)は、文武両道の名将として知られています。天下人「織田信長」や「豊臣秀吉」からの信望も厚く、一代で6万石から92万石の大名へと躍進。また、「千利休」(せんのりきゅう)の高弟7名に数えられるほど、茶の湯においてもその才能を開花させています。まさにエリートのようですが、幼少時は人質の立場になるなど、苦労がなかった訳ではありません。蒲生氏郷の生涯を追っていきましょう。

利休七哲の筆頭 蒲生氏郷

利休十哲

利休十哲
戦国時代には「茶道」、いわゆる「茶の湯」を嗜んでいた武将が大勢いました。そのなかでも、巨匠「千利休」(せんのりきゅう/せんりきゅう)の門下に入り、師の没後も茶の湯を受け継いで後世に伝えたのは、「利休七哲」(りきゅうしちてつ)と称される7名の高弟達です。この7名の顔ぶれは、時代や茶書などの史料によって微妙に異なっており、さらに3名の武将を加えて「利休十哲」(りきゅうじってつ)と呼ぶこともあります。千利休の曾孫「江岑宗左」(こうしんそうさ)による著書、「江岑夏書」(こうしんげがき)に基づき、同書に記されている7名の武将達を含めた千利休の高弟10名について、それぞれの人物像に迫っていきます。

利休十哲

有楽流とは

有楽流とは
茶道には、「有楽流」(うらくりゅう)という流派があります。この有楽流を開いたのは、「織田信長」の実弟「織田長益」(おだながます:のちの織田有楽斎)で、流派の名は、織田長益が「有楽」(うらく)と号していたことに由来しています。また、現在の東京都千代田区にある「有楽町」の名は、織田長益の江戸屋敷がこの地にあったことによるものです。この織田長益が編み出した茶道・有楽流の作法や、その人物像、有楽流がたどった歴史などを紐解いていきます。 織田有楽斎(織田長益)織田有楽斎(織田長益)のエピソードや関係する人物、戦い(合戦)をご紹介します。 織田有楽斎(長益)と国宝・有楽来国光にまつわるエピソードをまとめました。

有楽流とは

織部流とは

織部流とは
「古田重然」(ふるたしげなり:のちの古田織部)は、「千利休」から茶の湯の世界を学びました。この古田重然は、戦国時代から江戸時代初期に活躍した武将ですが、「古田重然」よりも「古田織部」の名前の方がよく知られています。また、「侘び寂び」(わびさび)を真髄とする師・千利休の茶とは異なり、古田重然は大胆かつ動的な意匠を取り入れたデザインを好む人物でした。 「織部好み」とも称される茶の湯の流行を作り上げた一方で、茶の湯の大成者として茶道の流派を興します。これが、ここでご紹介する「織部流」(おりべりゅう)です。織部流を作り上げた古田重然の生涯と、茶の道の作法や茶室のありようなどについて紐解いていきましょう。

織部流とは

三斎流とは

三斎流とは
「三斎流」(さんさいりゅう)とは、江戸時代前期に興された、「細川三斎」(ほそかわさんさい:細川忠興[ほそかわただおき])を流祖とする武家茶道の一派です。島根県出雲市に家元があり、現在まで続く三斎流の特徴や、三斎流が興った経緯と発展、流祖・細川三斎(細川忠興)についてご紹介します。

三斎流とは

注目ワード
注目ワード