「織田信長」の夢を受け継いで、天下を統一した「豊臣秀吉」の政策は、基本的に織田信長の方針を受け継ぎ、発展させたものでした。例えば「茶の湯」に関しても、織田信長が優れた茶器を収集し、家臣に与えることで支配するという政治の道具として用いましたが、豊臣秀吉もその方針を受け継ぎ、茶の湯を政治の道具として使っています。しかし豊臣秀吉の場合、同時に自分の権力をアピールするという目的でも、茶の湯を活用しました。豊臣秀吉にとって茶の湯とは、まさに政治的なパフォーマンスなのでした。
1577年(天正5年)、「上月城」(こうづきじょう:兵庫県佐用町)を攻略した豊臣秀吉は、織田信長から「乙御前釜」(おとごぜかま)を下賜され、さっそく茶会を開催。驚くのは茶会の場所。
当時、豊臣秀吉は「三木城」(みきじょう:兵庫県三木市)にたてこもる戦国武将「別所長治」(べっしょながはる)を攻撃中でした。茶会が行われたのは、三木城の間近の「付城」(つけしろ:敵陣攻略用の城)。ここに堺から茶人「津田宗及」(つだそうぎゅう)を招いて、茶会を行ったのです。
実は当時、多くの戦国武将が戦場に茶器を持参していました。特に長期戦になりがちな攻城戦の場合、心を落ち着けるために陣内で茶の湯を行うことは、珍しいことではなかったのです。
この頃、織田信長が打ち出した「御茶湯御政道」(おちゃのゆごせいどう:茶の湯の政治利用)政策が浸透し、お茶をたしなむことは戦国武将に不可欠な教養となり、名器と呼ばれる茶器を所有することは、戦国武将のステータスになっていました。
戦国武将は茶の湯を極めるため、様々な茶人と交流を持つようになります。豊臣秀吉は前述の津田宗及の他、「今井宗久」(いまいそうきゅう)、のちに茶の湯を完成させた「千利休」(せんのりきゅう)らと交流し、茶の湯を学んでいきました。
戦国武将にとっての茶会は、心静かに茶を楽しむ時間というだけでなく、敵味方関係なく人と人が武器を持たずに対面する数少ない機会でした。
織田信長が「本能寺の変」で討たれたあと、豊臣秀吉はこの茶会を政治の道具として、大いに活用しています。
1584年(天正12年)、織田信長の次男「織田信雄」(おだのぶかつ)と「徳川家康」の連合軍が豊臣秀吉に敵対して、「小牧・長久手の戦い」が勃発。合戦後、豊臣秀吉と徳川家康は和解の茶会を、「大徳寺」(だいとくじ:京都府京都市)で開催しました。
その翌1585年(天正13年)には、織田信雄と豊臣秀吉との和解の茶会が、「大坂城」(大阪府大阪市)で開かれています。しかし、織田信雄は毒殺を恐れ、豊臣秀吉が点てた茶をまったく口にしませんでした。当時の戦国武将による茶会は、命がけでもあったのです。
翌1586年(天正14年)にも、豊臣秀吉は禁中茶会を開催しました。
このときは天井から壁、茶道具にいたるまで、すべて金色で統一した黄金の茶室を「京都御所」(京都府京都市)内部に築き、106代「正親町天皇」(おおぎまちてんのう)に茶を献じています。
豊臣秀吉は、天皇に茶を差し上げる茶器が、これまで多くの人が使用した物であってはならないという配慮で、あえて黄金の茶器を用意したと言われます。
しかし、これもすべて豊臣秀吉が自身の財力と権力を公家に見せつけるための催し物でした。そして翌1587年(天正15年)の正月には、「大坂城茶会」を盛大に開催。禁中茶会が、公家へのアピールであったのに対し、こちらは武家に対する権力のアピールでした。
茶会による政治政策の集大成が、1587年(天正15年)に開催された「北野大茶会」(きたのだいちゃかい/北野大茶湯[きたのおおちゃのゆ])です。事前に京都市中に掲示された「北野大茶会高札」(きたのだいちゃかいこうさつ)によれば、身分に関係なく誰もが参加しなくてはならないとされています。
北野大茶会が開かれたのは10月1日。広い「北野天満宮」(京都府京都市)境内の中央には、豊臣秀吉自慢の黄金の茶室とこれまでに収集した名物の数々が置かれ、その隣に千利休、津田宗及、今井宗久の茶室が勢ぞろい。
また、境内のあちこちに趣向を凝らした囲い茶席が築かれ、京都中から届けられた、お茶請け(茶と共に出すお菓子)がふるまわれました。茶席数は800席、あるいは1,500席とも言われ、まさに天下人にふさわしい大舞台でした。
当初、この北野大茶会は10日間開催される予定でしたが、実際は初日だけで終わっています。その理由について「最初から1日の予定であった」、「九州で反乱が起こったため中止になった」など諸説あります。
当時、北野大茶会に参加した公家の「吉田兼見」(よしだかねみ)は、日記の中で北野大茶会を「迷惑」と断言。実は北野大茶会の開催にあたり、茶席の設営、茶道具の準備費用が、京都在住の公家に求められたのです。
しかし、当時の公家は経済的に困窮。そのため、公家から見れば、最近茶の湯を覚えたばかりの豊臣秀吉が、気まぐれで開く北野大茶会に協力したくなかったのです。
この雰囲気が京都中の人々にも伝わり、初日こそある程度の賑わいであったものの、翌日以降の集客が期待できなかったために、豊臣秀吉は北野大茶会を1日で中止にしました。
その後、1591年(天正19年)から、豊臣秀吉は京都の改造事業に取り組み始めました。そのひとつが、防衛のために京都周辺に築いた「御土居」(おどい)。これは底部の幅10~20m、高さ3~6mという巨大な土手で、内外の交通が遮断されたために、京都の人々からはきわめて不評でした。
他にも、京都中の寺院を2ヵ所(現在の寺町通、寺之内通)へ移転させたり、京都を見張るために南に「伏見城」(ふしみじょう:京都府京都市)を築いたりしています。
実はこの京都改造の計画は、豊臣秀吉が威信をかけた北野大茶会に協力的でなかった京都の人々への仕返しであったという説も。豊臣秀吉は織田信長と同じくらい、もしくは織田信長以上に、茶の湯を重視していたのかも知れません。