新田次郎文学賞は新田次郎が逝去した翌年に創設されます(1981年)。毎年、過去1年内に初めて刊行された書籍が対象で、形式にとらわれず、ノンフィクション文学や自然を題材にした作品に与えられます。同賞ではいまだ知られていない史実に光が当てられることが多く、2000年代以降の受賞作のうち時代小説では、幕末作品が数多く受賞しています。
2000年代、新田次郎文学賞における時代小説の受賞作は、北海道出身の佐々木譲(ささきゆずる)『武揚伝』(2002年度受賞)に始まります。旧幕府軍の海軍副総裁として軍艦・開陽丸を率い、明治新政府軍と蝦夷地で戦った榎本武揚(えのもとたけあき)の生涯が記されました。
佐々木譲は、第2次世界大戦時の択捉島(えとろふとう)を題材にして作品で、山本周五郎賞も獲得しています(1990年)。
そして、東郷隆(とうごうりゅう)『狙うて候 銃豪 村田経芳の生涯』(2004年度受賞)が続きます。島津斉彬(しまづなりあきら:薩摩藩第11代藩主)に取り立てられた薩摩藩藩士で、日本初の近代小型銃を開発した村田経芳(むらたつねよし)の生涯が記されました。
武器マニアの東郷隆は、彰義隊の大砲掛を描いた『大砲松』で吉川英治文学新人賞も獲得しています(1993年)。
諸田玲子『奸婦にあらず』(かんぷにあらず:2007年度受賞)は、水戸藩の脱藩浪士らによって暗殺(桜田門外の変)される大老・井伊直弼の6歳年上の愛人であり、彼のために密偵として生きた実在の女性・村山たかの生涯が記されます。奸婦とは悪知恵に長けた女性などの意味です。
諸田玲子は、吉川英治文学新人賞(2003年)を獲得した短編集『其の一日』収録「釜中の魚」でも、村山たかの別名・村山加寿江(むらやまかずえ)を取り上げていました。
見延典子『頼山陽』(2008年度受賞)は、儒学者・頼山陽(らいさんよう)の生涯を記します。
江戸時代後期を生きた頼山陽は、尊王攘夷運動(※天皇を尊び、外国を排斥しようとする運動)の拠り所となった史書『日本外史』(1826年)の著者です。広島藩を脱藩した罪で幽閉期間中に同書の執筆を始め、源氏~新田氏~足利氏~徳川氏の系譜を綴りました。広島県在住の見延典子は頼山陽を通して、故郷の研究をライフワークとしています。
植松三十里『群青 日本海軍の礎を築いた男』(2009年度受賞)は、江戸幕府の海軍の設立から終焉まで立ち会った幕臣・矢田堀景蔵(やたぼりけいぞう:のちの矢田堀鴻:やたぼりこう)の生涯を記します。旧幕府軍最後の海軍総裁・矢田堀景蔵のもとで副総裁だったのが榎本武揚です。
諸田玲子は奸婦にあらず(2005~2006年『日本経済新聞』夕刊連載)で、桜田門外の変を次のように描きました。村山たかの目の前で井伊直弼が暗殺されたと創作しました。
井伊藩邸が見えてきたときだ。
銃声が鳴り響いた。
雁の声か……と、たかは思った。思わず空を見上げる。雪が、目の中へ落ちた。
一瞬、すべてが真っ白になった。
次の瞬間、怒声と悲鳴、咆哮、武具の音、入り乱れる足音、馬の嘶きが耳に飛び込んで来た。
「あぁ……」たかは呻いた。「嘘や嘘や」
ここは江戸の真中、しかも城の直前である。異変など起こるはずがない。
いや、起こるはずのないことが起こるのが世の中ではないか。
「待ってッ。今、うちが行くさかい」
懐剣の柄を握りしめた手が烈しくふるえている。
刹那、炙り出しのように目の前が鮮明になった。杵築藩邸の門前で黒い人影が蠢いている。一昨日、たかが直弼一行を見送った辺りに駕籠が下ろされ、その周辺で死闘がつづいていた。そこここに転がっているのは死体か、雪に覆われた地面が赤く染まっている。巻き込まれるのが怖いのか、野次馬の姿はない。
たかは騒乱に身を投じようとした。
諸田玲子『奸婦にあらず』より
2010年代、時代小説の受賞作は、帚木蓬生(ははきぎほうせい)『水神』(すいじん:2010年度受賞)に始まります。江戸時代初期の久留米藩で行われた筑後川の灌漑作業の史実がもとになっています。
帚木蓬生にとって吉川英治文学新人賞(1993年)、山本周五郎賞(1995年)、柴田錬三郎賞(1997年度)に続いての文学賞の獲得でした。
以後、竹田真砂子『あとより恋の責めくれば 御家人南畝先生』(2011年度受賞:文庫化にあたり『あとより恋の責めくれば 御家人大田南畝』に改題)、澤田瞳子『満つる月の如し 仏師・定朝』(2013年度受賞)が続きます。
前者は、江戸時代中後期を生きた下級武士であり天才狂歌師・大田南畝(おおたなんぽ)が主人公の物語です。
後者は、平安時代後期を生きた仏師・定朝(じょうちょう:代表作は平等院本尊・木造阿弥陀如来坐像)と彼の後見人を務める比叡山の青年僧・隆範(りゅうはん)との交流が描かれます。同作は、本屋が選ぶ時代小説大賞も獲得しました。
奥山景布子が書き下ろした葵の残葉では、戊辰戦争が物語の山場です。
徳川慶喜(江戸幕府第15代将軍)が排除された新政府の樹立(王政復古の大号令)後、徳川慶喜は旧幕府軍が鳥羽・伏見の戦いで天皇の旗を掲げた新政府軍に負けると大坂城から逃走。軍艦・開陽丸で江戸城へ帰還します。このとき、松平容保(京都守護職)と松平定敬(京都所司代)も同行しました。
けれども2人は、新政府入りしていた長兄・徳川慶勝(尾張藩藩主)から、江戸城登城の禁止と江戸退去を命じられ、朝敵扱いとなります。そこで2人は会津藩で落ち合い、東北諸藩と連携して新政府軍と戦う体制に臨みます。
このとき、刀剣を使った誓いの場面、「金打」(きんちょう)が描かれます。
気色ばんだ定敬に、容保が柳の眉を少しだけ傾き、ほんの一瞬、かすかな笑みを見せた。
「いや、そなたにしか頼めぬことがあるのだ。会津が籠城で時を稼いでいる間に、援軍を」
――そういうことか。
「承った。すぐにでも参りましょう」
援軍。どこへ行けばいい。定敬は忙しく考えを巡らせた。
「まっすぐ、米沢を目指すことにいたします。すぐに援軍を率いて戻ってまいりましょう。ご安心を」
「上杉どのだな。心強い。奥方にも、よしなに伝えてくれ」
出羽米沢、上杉茂憲の正室は、兄弟と父を同じうする、高須家の幸姫である。
二人は、互いの刀の鍔を合わせた。
かちん金属の音をさせて誓う。武士と武士との、堅い約束の音である。しかし、降りしきる大雨に、その音ははかなくかき消されていった。
誓いの音は、互いの胸の内にある。それでじゅうぶんだ。
百名ほどの桑名の兵に、守られて、定敬は北を目指した。
奥山景布子『葵の残葉』より
2020年代、時代小説の受賞作は、永井紗耶子(ながいさやこ)『商う狼 江戸商人 杉本茂十郎』(2021年度受賞)に始まります。
江戸時代中後期、甲府の農家から江戸の飛脚問屋の養子となった男の史実です。杉本茂十郎は三橋会所を設立、菱垣廻船の再興を図ります。細谷正充賞、本屋が選ぶ時代小説大賞も獲得しました。
続く、玉岡かおる『帆神 北前船を馳せた男・工楽松右衛門』(2022年度受賞)は、画期的な帆「松右衛門帆」を発明し、江戸時代中後期の海運に革命をもたらした男、工楽松右衛門の史実です。択捉島の港の建設も手がけました。
兵庫県出身の玉岡かおるはこの作品で、現在の兵庫県高砂市出身となる工楽松右衛門を取り上げました。同作は舟橋聖一文学賞も同年受賞しました。