「天下三作」(てんがさんさく)とは、「名物三作」(めいぶつさんさく)とも呼ばれており、「享保名物帳」(きょうほうめいぶつちょう)と言う「名物」(めいぶつ:古来有名で、通名がある日本刀)の日本刀台帳に「天下の3名工」として記載されている3人の刀工です。鎌倉時代中期に「山城国」(やましろのくに:現在の京都)で活躍した「粟田口吉光」(あわたぐちよしみつ)、鎌倉時代末期から南北朝時代に「相模国」(さがみのくに:現在の神奈川県)で活躍した「五郎入道正宗」(ごろうにゅうどうまさむね)、南北朝時代に「越中国」(えっちゅうのくに:現在の富山県)で活躍した「郷義弘」(ごうのよしひろ)とその作刀を指します。天下人として名を馳せ、熱心な日本刀の収集家でもあった「豊臣秀吉」が珍重したことでも有名です。
「享保名物帳」(きょうほうめいぶつちょう)とは、江戸時代の1719年(享保4年)に、徳川幕府8代将軍だった「徳川吉宗」(とくがわよしむね)の指示によって、当時から日本刀の鑑定一族として名を馳せていた「本阿弥家」(ほんあみけ)の13代「光忠」(こうちゅう)が調査・編集し、幕府へ提出した「名物」の日本刀一覧です。日本刀鑑定の権威であった本阿弥家が伝来や出自を保証したため、江戸時代の武士達にとって名刀の指針になりました。
当時の原本が現存していないため、正式な名称は不明ですが、編纂時の元号「享保」(きょうほう)を冠し、「享保名物帳」(きょうほうめいぶつちょう)と呼称されています。上巻、中巻、下巻の3部構成で、約250振の名刀が掲載。「天下三作」(てんがさんさく)の日本刀は、「名物三作」(めいぶつさんさく)と呼ばれている上巻に掲載されました。この上巻には天下三作115振が掲載されており、その数の多さから、彼らが他の刀工とは別格の扱いを受けていたことが伺えます。
「豊臣秀吉」は、熱心な名刀収集家だったと伝わっています。「本能寺の変」ののち、「織田信長」のあとを受け継いで天下人となった秀吉のもとには、多くの名刀が献上されましたが、これらを単なる武器としてではなく、「権威のシンボル」として珍重しました。
その収集品の中でも、特に秀吉が愛したのが天下三作です。秀吉が取り分け気に入ったことにより、名物三作は天下三作と呼ばれるようになりました。短命だったことにより作刀の少ない郷義弘を除き、正宗と吉光だけでも10数振を所持していたとされています。
なかでも「吉光」(よしみつ)の太刀「一期一振」(いちごひとふり)は有名で、名刀の中でもよりぬきの名刀しか入れなかったと言う「一之箱」(いちのはこ)に納められました。「明暦の大火」(めいれきのたいか:1657年[明暦3年]に江戸の大半を焼いた大火災)で焼身となったあと、名刀の焼失を惜しんだ徳川家の命により焼き直されているため、茎(なかご:刀身の持ち手の部分)には焼き跡が残っており、現在は「御物」(ぎょぶつ:日本の皇室の私有品になっている物)として宮内庁の管理下にあります。
鎌倉時代中期に山城国で活躍、(1259~1260年頃:正元頃)
作刀のひとつである、「薬研藤四郎」が持つ逸話により「持ち主の身を護る刀剣」と噂され、本刀工の作品は、将軍家や諸大名の必需品とも謳われ、非常に多くの需要がありました。短刀の作が多く、現存する作品数が非常に多いのが特徴です。
短刀の名工として名を馳せた吉光が、唯一の「太刀」と称して作刀した一期一振は、吉光による最高峰の日本刀と謳われています。名物の数が最も多く、約40振が享保名物帳に掲載されています。
鎌倉時代末期から南北朝時代に「相模国」で活躍、(1288~1326年:正応、嘉暦頃)
言わずと知れた日本刀の名工です。その確かな品質から古来大金で売り買いされ、大名家などで家宝とされてきました。名物が大変多く、不動の人気を誇ります。
刀剣ワールド財団が
所蔵する刀剣
南北朝時代に「越中国」で活躍、(1319年頃:元応頃)
通称「郷」(ごう)、あるいは「江」(ごう)。「正宗十哲」のひとりでもあり、作刀は大名達に大変好まれました。しかし、名を刻む「在銘」の日本刀は見られず、「無銘」ながらも、本阿弥家が郷義弘(ごうのよしひろ)作と鑑定した物や、口伝でそう伝わる物しか見られません。それにより、「世間ではあるとされているが実際に見たことのない物の例え」として、「郷(江)と化物は見たことがない。」と言う言葉が生まれました。
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