甲冑に興味を持っていただいている皆さんは、今、こう思っているかもしれません。「もっと色々な甲冑の話を知りたい!」。興味を持った世界のことを知れば知るほど、もっと知りたくなるのは、どの世界でも同じ。ここでは、甲冑にまつわる「あんな話」や「こんな話」をご紹介します。肩の力を抜いて読んでいただければ幸いです。
愛媛県にある「大山祇神社」の宝物館には、通常とは異なった形状の鎧(胴)が収蔵・展示されています。それが国の重要文化財に指定されている「紺糸裾素懸威胴丸」(こんいとすそすがけおどしどうまる)。通常よりも小さめのサイズで、胸部が大きく膨らんでいるのとは対照的に、腰の部分が大きくくびれている1領は、そのシルエットから小柄で細身の女性向けに制作されたことを思わせるような形状。
神社では、この胴丸はかつての大宮司「大祝安用」(おおほうりやすもち)の娘「鶴姫」が所用した物であると伝えられているのです。
この紺糸裾素懸威胴丸が、女性用に制作されたのか否かについては、鶴姫が実在していたのか否かを含めて様々な説が唱えられています。ひとつだけ言えることは、このようなシルエットの胴丸が制作された事実があるということ。現在に伝わっている1領の胴丸から、18歳で自ら命を絶ったと伝えられている悲劇の武将・鶴姫の姿を想像することこそが、甲冑(鎧兜)鑑賞の醍醐味なのです。
平安時代に「大鎧」(おおよろい)が登場したあと、「日本式甲冑[鎧兜]」は、その時代の戦い方に合わせて進化・発展してきました。
特に、室町時代後期から戦国時代にかけて登場した「当世具足」(とうせいぐそく)においては、戦場での動きやすさが重視され合理性を追求。それを実現するためには、着用者の体型を正確に把握した上で、体にフィットした物を制作する必要があったのです。その意味では、甲冑(鎧兜)は着用者の体型を正確に反映している物だと言えます。
戦国武将については、正確・確実な記録がほとんど残っておらず、現代において、その正確な体躯などを知ることは難しいのですが、それを知るひとつの手がかりとなるのが甲冑(当世具足)です。
例えば「賤ヶ岳の七本槍」(しずがたけのななほんやり)や「朝鮮出兵」における「虎退治伝説」などの武勇伝で知られている猛将「加藤清正」(かとうきよまさ)。
その清正が若い頃に所用していた甲冑(鎧兜)を修理・再現した際、その鎧(胴)が長くなったことで、清正が胴長体型だったことが分かったとも言われています。
「徳川家康」(とくがわいえやす)が所用した甲冑(鎧兜)として知られている「金陀美具足」(きんだみぐそく)。「兜」から「胴」、「臑当」(すねあて)まで金箔が施され金色に輝いている甲冑(鎧兜)は、いかにも天下人・家康らしい豪華な1領だと言えます。
しかし、この金陀美具足には華やかな見た目とは裏腹な、不遇時代の家康と家臣達の心をつなぐ逸話を有する物だったのです。
江戸幕府初代将軍に上りつめた家康も、幼少期を織田氏や今川氏の人質として過ごすなど不遇でした。上洛へ向けて準備を進めていた「今川義元」(いまがわよしもと)が、人質である家康に用意したのは質素な甲冑(鎧兜)。当時は人質として生活させていたため、家康に甲冑(鎧兜)を作らせるだけの金銭的余裕はありません。この質素な甲冑(鎧兜)を着て戦うのもやむなしの状況。しかし、家臣達は密かに資金を出し合い、金箔を施した立派な甲冑(鎧兜)を用意していたと伝えられているのです。それが金陀美具足。
家康は、これを着た「桶狭間の戦い」(おけはざまのたたかい)において、先陣を切って「大高城」(おおだかじょう)に兵糧を運び込むという大役を成し遂げます。なお、この戦いで義元が死去したことで人質生活から解放され、出世の道を歩んで行きました。
1領に様々な人間模様が織り込まれている甲冑(鎧兜)。日本における甲冑(鎧兜)の発祥は東日本であるという説があります。甲冑(鎧兜)の発祥について唯一記録が残っているのが、東日本にあった「常陸国」(現在の茨城県)の歴史などについて記述されている「常陸国風土記」(ひたちのくにふどき)。そのため、東日本が日本における甲冑(鎧兜)発祥の地であると考えられるのです。
常陸国風土記の記載以外にも東日本が発祥の地であるという根拠はあります。それが、古代において東北地方を支配していた「蝦夷」(えみし)の存在。彼らは大和朝廷とは異なる文化を有し「日本刀」のルーツのひとつであると言われている「蕨手刀」(わらびてとう)を制作するなど、武器の制作において先進性を有していました。
甲冑(鎧兜)は敵の攻撃から身を守るための防具であり、武器の進歩に合わせて防具の必要性が増したことで、甲冑(鎧兜)が制作されるようになった可能性は十分に考えられるのです。
「陣笠」(じんがさ)は、「足軽」(あしがる)の頭部を守る防具。しかし、もうひとつ大切な役割があったという説があります。それが鍋としての活用で、雑兵30人が口語調で体験談を語っていく読み物の「雑兵物語」(ぞうひょうものがたり)では、逆さまに吊した陣笠の中に水を入れ、火にかけて煮炊きをする様子を描写。
「小荷駄隊」(こにだたい)と呼ばれた人馬が荷物を運んでくれた上級武士(武将)とは異なり、足軽は戦で必要な身の回りの物をすべて自分で運ばなければなりません。そんなときには、できるだけ荷物を少なくしたいというのが人情。そこで「代用品」があれば、それを活用していたという訳です。
もっとも、この説については陣笠が鉄製であったとしても、表面に漆塗加工が施されており、陣笠を鍋代わりにして煮炊きをした場合、漆が溶け出してしまい、とても食べられた物ではないのではないか、という意見もあります。
足軽の荷造りは、戦場で味噌汁の具になる「ズイキ」という芋の茎を乾燥させて縄状に編んだ「芋がら縄」を、荷縄として腰に巻き付けるなどして、荷物を運んでいたほど合理的でした。そのため、陣笠で煮炊きを行なっていなかったと言い切ることはできません。
日本式甲冑(鎧兜)と西洋の甲冑(鎧兜)では、どちらが強いのだろうか。甲冑(鎧兜)好きの方であれば、そんなことを考えたことがあるのではないでしょうか。もちろん、単純に比較できるような物ではありません。
そこで、日本の戦国時代で用いられていた当世具足と、西洋の「プレートアーマー」で比較してみることにします。比較ポイントは、「防御力」、「重量」、「動きやすさ」の3つです。